すれ違い

 チョウアは一生懸命に努力した。
 習家の嫁に相応しいように、努力し続けた。
 舅はとても優しく、あれこれと教えてくれた。
 貧しい村娘のチョウアも、外に出ても恥ずかしくない程度に礼儀を覚えられた。
 姑は明るく、いつも気を遣っていただいた。
 母をあまり覚えていないチョウアに、楽しい思い出が増えていった。
 義理の妹たちも、何かにつけてチョウアを頼ってくれた。
 針仕事を一緒にするのは、面白かった。
 ……三年、努力した。
 それでも夫は振り向いてはくれなかった。
 騙すように結婚したことに怒っているのだろう。
 家に居着かない。
 チョウアがいるためだった。
 戦を渡り鳥のように渡っていく。
 その背を見送ることもできず、チョウアは形の妻として留守を守った。
 涙をこらえて、言いつけを守り続けた。

 女は笑っているのが良い。

 チョウアは人前では、泣かなかった。
 意地になっていた。
 心の支えだった。
 偽りであっても、それだけが夫婦としての思い出だった。
 あの日、チョウアは恋に落ちたのだ。
 片一方だけの、成就することのない恋であっても、真実だった。
 神様が何かの手違いをおかしたのだろう。
 運命は一つではない。
 あの人の運命の相手になり損ねてしまったのだ。
 それだけだった。
 ……それだけの……ことだった。


 夫が大怪我をしたと知らせが入った。
 是非とも、城に来て欲しい、とも。
 そこで、チョウアは再確認してしまった。
 この結婚は、間違いだったと。
 今さらながら、思い知ったのだった。
 
「実家に帰らせてください」

 絶対に、泣かないと決めていた。
 彼の前では泣かないと、決めていた。
 決意は揺らいだ。
 チョウアは涙を零した。
 もう、駄目なのだ。
 夢から覚めるときがきたのだ。
 充分、長かったはずだ。
 だから、きちんと目を覚まさなければいけない。

「私のような……愚妻では……、家公も……お恥ずかしいでしょう。
 わ、私は……もう、……遠慮……なさらずに」

 どうぞ、遠慮せずに離縁なさってください。
 チョウアは泣いた。



 次に目が覚めるまで、と言われてチョウアは安堵した。
 それまでは一緒にいられるのだ。
 チョウアはどこにも行かずに、夫が目覚めるまで待った。
 二人きりで長い時間いるのはあの日以来だろうか。
 これが最後になると思うと、胸が痛む。
 仕方がない。
 いつまでも、縛りつけるわけにはいかない。
 他愛もない約束一つで、三年もチョウアのものだったのだ。
 名前すら知らないのに。
 今度はちゃんと微笑もう。
 最後くらい、あの人の好きな笑顔でお別れするのだ。
 そして、それで終わりにするのだ。
 気持ち一つ伝えないまま、この恋は眠りにつくのだ。
 死ぬまで覚えておこう。
 誰にも言えなくても良い。
 この人が好きだった、それは真実だから。
 だから……。

 いつの間にか眠っていたらしい。
 視線を感じて、チョウアは目を覚ました。
 あの日と同じ優しい眼差しだった。
 チョウアは安心した。
 これなら、自分でもしっかりできるような気がする。
「お加減はどうですか?」
「悪くない」
「そうですか。
 薬師をお呼びしましょうか?」
 夫の顔色は良くなった気がする。
 死の峠は無事、通り抜けたようだった。
 これからも、この人は戦場に立ち続けるのだろう。
 こんな日はまた来るのだ。
 そのときは、違う女性がここにいるのだろう。
「ずっと、ここにいたのか?」
「はい。
 家公が目が覚めるまでとおっしゃったので、それまでは。と」
 ずうずうしかっただろうか……。
 やはり、いない方が良かったのかもしれない。
 チョウアはうつむいた。
「ここにいろと言ったら、ずっとここにいるのか?」
「はい」
 チョウアはうなずいた。
 そんな言葉を言われたら、きっと舞い上がってしまう。
 嫌だと言われるまで、傍にい続けてしまう。
 そんなことを考えていたら、東南渡りの香に包まれた。
 チョウアの心臓は跳びはねた。
「どうして俺の妻になった?」
 耳元で低くささやかれる。
 熱が完全に引ききれないのだろう。
 自分よりも高い体温に驚きながらも、喜んでしまう。
「家公に憧れない娘は、我が里にはおりません」
 チョウアは緊張で声が裏返らないように意識する。
 こうして言葉を交わすのは、最後かもしれないのだ。
 瞬き一つが惜しかった。
「俺で良かったのか?」
「家公でなければ、嫌です」
 万感の想い。
 これが運命だったと伝えたかった。
 チョウアの瞳に涙が宿る。
「では、一生俺の傍にいろ」
 甘い言葉共に、ギュッと抱きしめられた。
「はい」
 チョウアの瞳から涙がこぼれ落ちた。
 まだ、これから先も一緒にいて良いのだと、わかった。
 栗色の瞳は優しかった。
 真っ直ぐとした視線に、チョウアはうつむいた。
 長い指先が涙を拭う。
「泣かないでくれ。
 どうしたら良いのかわからなくなる」
「はい」
 チョウアはコクンとうなずき、一生懸命に笑顔を浮かべた。
「俺の名前は、ロシ」
 ロシはチョウアの手を取ると、真字を書き付ける。

 

「名を呼んでくれまいか?
 私の愛しい人」
 そう言うと、チョウアの手の平にくちづけた。
 初心な女性は頬を染めた。
 それでも、恋する相手の願いだ。
「……様」
 呼び捨てにすることなど、勿体なくてできなかった。
 ドキドキしながら、名を呼んだ。
「チョウアは、どんな字を書く?」
 尋ねられて、チョウアはその大きな手の平に字を書く。
 名を交わしているのだ。
 この広い世界で、緊張しない娘などはいない。
 震えながらも『朝烏』と真字を書く。
「朝陽と言う意味だな。
 名まで綺麗だ。
 理想どおりの女人とは、朝烏のことを言うのだな」
 どうとっても褒め言葉にしか聞こえない言葉に、チョウアの心臓はますます落ち着かなくなる。
「今までの不貞を許してくれるか?
 これからは、唯一と誓おう」
 真摯な眼差しに、チョウアはうなずく。
 嬉しくして、どうしようもなかった。
 喜びで体中がいっぱいになってしまい、まるで酔っているようだった。
「愛している」
 最大級の甘い言葉だった。
 このまま、溶けてしまいたい。
 幸せすぎて、クラクラする。
「朝烏」
 そっと、顔が近づいてくる。
 三年前ほど物知らずではない。 
 恋の作法は、知っている。
 チョウアは緊張しながら、瞳を伏せた。
 優しいくちづけに、チョウアは至福を感じた。
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