蒼い鷹

 エイネン王朝・慶龍九年。
 大陸東部では、大きな動きがあった。
 鳥陵の色墓侵攻。
 フェイ・シユウが率いる鳥陵軍は、色墓を攻め入った。
 戦は半年にも及び、色墓の総領シ・フリューの死により終着する。
 色墓は、鳥陵に併呑された。
 この戦には、大儀も名分もなかった。
 領地を拡大するためだけの戦であった。

 シユウの次子・ホウスウ、時に十七歳。
 初陣であった。



「長閑」
 字代わりの名を呼ばれ、少年は顔を上げた。
 シユウの次子は、嵐の色の瞳を持っていた。
 青みの強いその色は、生粋のチョウリョウの民が決して持ち得ない色であった。
 それに、ヨク・エンジャクはためいきをついた。
 くすんだ色合いの衣は、絹のはず。
 染めも、織りも、刺繍も特級品で、皇帝の献上品に勝るとも劣らない品。
 それが無残に、しわをつけられ、床に広がっていた。
 少年が床に腰を降ろしているために。
「そう呼ばれているのだな」
 エンジャクも床に膝をついた。
 椅子に座って、読んだらどうだ。と言ったところで、効果が出ないのは知っている。
「翼爺(翼家の旦那さん)帰ってきたのか?」
 ホウスウは言った。
 離れている間に、声変わりがすんだらしい。
 雲雀のように高く澄んでいた声は、しっとりと深みを増していた。
 極上の琴に張られた弦のように、艶やかで幅が広かった。
 伸び盛りの肢体とちぐはぐで、ひどく危うい。
 この年頃だけの魅力だろう。
「帰ってきたのは、お前たちのほうだろう。
 私は、ずっと都にいたのだからな」
 エンジャクは苦笑した。
 シキボ侵攻戦で、半年もの間、少年は都から離れていたはずだ。
「この二年、顔を見せなかったから、嫌われたのかと思っていた」
「まさか。
 私には、私に仕事があるのだよ。悪戯っ子」
 エンジャクはホウスウの頭を撫でる。
 当代きっての槍使い、そう讃えられる男が戦場に立たなくなって、もう九年。
 チョウリョウにとって、大きな損失であっただろうが、誰も何も言わなくなった。
 その代わりにと、内向きの仕事を山のように与えられる。
 手のかかる子どもが手を離れて、二年。
 仕事は増加傾向にあった。
「そういうことにしておこう」
 少年は機嫌良く、目を細めた。
 二年前と変わらない表情に、エンジャクは笑みを深める。
「結婚でもするのか?」
 エンジャクは尋ねた。
 少年の手の中の竹簡には、縁起の良い名前が並ぶ。
 どれもこれも『鳥』の字が含まれていた。
「相手もいないのにか?」
 きょとんとした瞳に、エンジャクは肩をすくめた。
 成人して、二年。
 いつ妻を娶ってもおかしくはないのだが、運命には出会っていないらしい。
 焦っても仕方がない事柄だが、のんびりしているのも困りものだ。
 エンジャクは、この歳になって、子を持つ親の焦りを知る。
「子どもでもできたのかと思ったが……。
 ようやく、自分に字をつける気になったのか?」
 成人した子どもに、親は字を与える。
 親がいなくても、後見になるような人物がいれば、字は授けられる。
 少年にも、字は用意されていた。
 が、しかし。何が気に喰わないのか、ホウスウは字を受け入れなかった。
 だから、ホウスウは未だ字を持たない。
「……ああ、これか。
 自分のためではないんだ。
 名を与えたんだが、意味の確認をかねて見ていた」
「誰に名を与えたんだ?
 ギョウエイの子か、それともキュウ家の子にか?」
 エンジャクは、少年と比較的仲の良い子どもを挙げる。
 名を与えるのは、褒賞の一つ。
 大変、名誉な事柄だった。
「いや、違う。
 シキボの絲一族だ」
 ホウスウは言った。
「名を、与えたのか」
 敵であった者に、滅ぼしかけた者に……名を与えた。
 その意味は――。
 エンジャクは、マジマジと少年を見つめた。
「ソウヨウ。
 蒼い鷹と書く」
 水鏡のような澄んだ視線が男を見つめ返す。
 綺麗だとか、純粋だとか、無垢だとか、そんな感想は湧き起こらない。
 ただただ、痛々しい。
 エンジャクは、ホウスウを抱き寄せた。
 九年前、そうしてやったように、その背を軽く叩いてやる。
「そうか」
 エンジャクは呟くように、言った。
 蒼い鷹は、法の番人を意味する。
 裁かれることを、孤独な魂は望んでいるのだ。
 戦乱の世であれば、罪なきクニを攻め入るのは当たり前。
 弱いということ自体が悪である。
 だが、ホウスウには、その考えが受け入れられないのだろう。
 エンジャクは胸をえぐられたように、辛く思えた。
「良い名だろうか?」
「ああ、良い名前だ」
 エンジャクはうなずいた。


 父や兄が、名も知らぬ誰かに、そうしたように。
 私は大義名分もなく、誰かに、殺されてもかまわない。
 それが天意なら、私は逆らわずに受け入れるだろう。


 色墓の総領シ・フリューには、子どもが一人いた。
 たった一人の跡取りは、シ・レンリューといった。
 人質として差し出された子どもに、ホウスウは名を与えた。
 蒼い鷹、と書いて「ソウヨウ」と読む。
 シ・ソウヨウ、八歳。
 童子は、名づけられた意味を知らない。
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