琴一面

 鳥陵では翔の姓を持つ一族がそれなりの勢力を長らく持っていた。
 羽振りの良い一族で、辣腕で知られていた。
 フェイ・シユウが鳥陵に帰還した後、降った豪族の一つだった。
 同時期に、翼家、習家が降ったとはいえ、優れた判断力である。
 翔の舵を取る当主の名は、キンア。
 恵まれたとはいえない幼少期の経験を活かして、精力的に力を広げていっている。
 時は群雄割拠するとはいえ、頼りになるのは武ばかりではない。
 飛一族に足りないものを補う、良き臣下であった。


 慶龍十年。ホウスウ、18歳の年のこと。
 キンアはホウスウに挨拶に上がる。
 正式に会見するのは、このときが初めてとなる。

 ホウスウは私室で、書きものをしていた。
 剣の稽古よりも、こうして書斎で静かに過ごしている時間のほうが楽しかった。
 人は易きに流れるものだ。
 ホウスウもただの人の子であった。
 書斎の置物か、それともホウスウの影か。
 側に控える少年は寡黙だった。
 それが、フッと顔を動かした。
 10を数えたばかりの子どもの緑の瞳が、書斎の出入り口に集中した。
 気配の変化を読んで、ホウスウは手を止めた。
 少年は武の道でも神童だった。
 年齢差も体格差も埋めるだけの俊敏さと残酷さを持っていた。
 今も無意識だったのだろう。
 ホウスウの手が止まったことに気がつき、無表情のまま視線を几帳から外した。
 来客があるらしい。
 青年の耳が下官の足音を聞くより先に、少年は気がつく。
 便利だな、とホウスウは思う。
 灰色がかった瞳は、書卓の上の紙を見つめる。
 書きあがるのが先か、来客が先か。
 ホウスウは大人しく中断した。
 筆を硯の上に戻す。
 程なくして、足音が近づいてきた。
 几帳の絹がわずか風に揺れる。
 足音が止まる。
「申し上げます、鳳様。
 翔殿がいらしております」
 下官の声が告げる。
 意外な名前に青年は、顔をわずかに伏せた。
 辣腕の翔家の当主殿が運んでくる用件は、波風が立つ気配を携えていそうだった。
「ソウヨウ。
 遊びに行ってもかまわない」
 傍らにいた少年に声をかける。
 その顔にようやく、子どもらしい笑みが零れた。
 どこへ行くか、わかりやすいほどであった。
「はい。
 ありがとうございます」
 少年は恭しく礼をして、退出する。
 それを見送った後
「翔殿をお通ししろ」
 ホウスウは言った。
 しばしのやり取りの後に、翔家の当主はやってきた。
「お初にお目にかかります。
 シャン・キンアと申します」
 貧相な小男が拱手した。
 なるほど噂どおりの人間だ。とホウスウは納得した。
「私に何の用だ?」
「飛ぶ鳥を落とす勢いのフェイ家との誼を深くしておこうと思いまして、参ったしだいでございます」
 宮廷でも聞けないような雅やかな発音で、キンアは言った。
「それ自体は、悪くない判断だろう。
 が、私の元へ来たのは誤りだな」
 ホウスウは小さく笑った。
「我が家は、兄上がお継ぎになる」
 誰もが知る事実を口にした。
 青年には、兄に成り代わろうというような野心はない。
 尚武のクニだ。
 当代一の剣の使い手に、総領の座は任せたほうが良いだろう。
 足りないところがあるなら、周囲が補えばよい。
 今もそうなのだから、未来もそうであってかまわないはずだ。
「それはそうでしょう。
 なかなかご立派な若君だと、感心いたしました。
 ですが、けんもほろろと振られてしまいましてな。
 それで鳳様に会いに参りました」
「なるほど、二番目か」
「そうなりますな」
 キンアは重々しくうなずく。
 小男が恰幅のよい男のような仕草をするものだから、おかしい。
 感情が出にくいホウスウも、それには失笑した。
「私には、翔殿のお力は必要ない」
「それはそれは。
 ご判断が甘くていらっしゃる。
 まだお若いですな……と、言いたいところですが、まあ確かに。
 鳳様には必要ないでしょうな」
 困ったものです、とキンアは大真面目に付けたした。
 どうにも憎めない男だった。
 被った猫の皮の枚数を数えてみたくなる。とホウスウは思う。
「愚痴を言いに参ったようなものです。
 武烈様がおっしゃるには、私めの力は必要ないと。
 ご城主殿にお仕えしているというのに。
 それでは代替わりしたら、私はお役御免でしょうか。
 我が一族の献身は、届いていないのでしょうか。
 と、さらに泣きついてみたところ、『弟がいるから必要ない』とおっしゃるのです。
 それで話はおしまいなのです」
 キンアは演技たっぷりに語る。
 大げさな身振りが寸劇よりも面白かった。
「兄上とて、悪気があったわけではないだろう。
 少々、身内贔屓なのはこの時代ゆえ。
 血族に頼るのは、珍しくはない。
 どうか兄を許してやって欲しい。
 翔家を侮ったわけではない」
 ホウスウは言った。
 あの兄に頼られるのは、悪くない。
 他人から伝えられるのは、いささか面映かったが、青年は素直に喜んだ。
「兄弟思いでいらっしゃる。
 実に感動的なお言葉ですな。
 もちろん身骨を砕きまして、お仕えいたします。
 たとえ僻地に追いやられましょうとも、翔はご城主のものでございます」
 翔家の当主はなおも言う。
「鷲居城での扱いについて、話に来たわけではないだろう。
 何が望みだ?」
「望みだなんて滅相もありません。
 私はただ、お役に立ちたいだけにございます」
 恐縮しきった表情で、キンアは言う。
 ホウスウは椅子の背に身を預ける。
「金塊か? 玉か?」
 そんなものを今さら欲するはずはない。
 とりあえずの礼儀として、青年は尋ねた。
「いいえ。
 そのような物はいただけません。
 いただく理由がございません」
 キンアは首を横に振る。
 臆病で、警戒の強い小動物のような振る舞いであった。
「では、人脈か」
 ホウスウは言った。
 翔家の当主でも持ちえないモノをホウスウは持っていた。
 それが目当てだろう。
 どの伝手が欲しいのか。
 それは間もなく知るところになるだろう。
「私は、ただ……。
 翔一族をご城主に覚えていただければ、けっこうにございます」
「これから先、頼ることもあるだろう。
 褒賞の前払いだ。
 それに兄が非礼をした。
 その償いとして、受け取って欲しい」
 貸し借りを作るときは、時期を見なければならない。
 今でないといけない理由があったはずだ。
「では……お言葉に甘えまして。
 鳳様は、文に親しみ、芸術に造詣が深いとお聞きしました。
 私には12を筆頭に子が三人おりますが、あいにくと私自身、文のなんたるかがわかりません。
 琴の音色もわからぬような按配でございます」
 キンアは切々と言った。
 青年は心の中で、薄く笑う。
 政治に直接関与してこない文人墨客たちとの交流は、難しい。
 彼らは、はた迷惑な存在だ。
 詩を作り、書を残し、思想をばらまいていく。
 無視はできない。
 また、そういった人物と交流するのが上流階級のたしなみというものだった。
 伝統は一朝一夕で膝を屈したりはしない。
「では、玉琴を呼んで、良いものを贈るとしよう。
 ご子息の琴の腕が上がられると良いな」
 意を汲んで、ホウスウは言った。
「よろしいのですか?」
「もちろんだとも。
 その代わり、我が一族への忠誠をお忘れなきように」
「そのようなことをおっしゃらずとも、翔家は裏切ったりはいたしません」
 キンアの声は、感極まったというように震えていた。


 この会見の後、シャン・キンアの長男のシュウエイに名琴が贈られた。
 シュウエイが良家の子弟としては、特筆するほどの腕前ではなかったので、その琴の本来の音色を世間の人が知るまで、半世紀ほど待たなければならなかったのは、琴にとって不遇の人生であっただろう。
 こうしてキンアは、文人との交際のきっかけをつかんだのである。
 後に皇帝となるホウスウにとっても、エイネン王朝と縁ある翔家の後ろ盾は大きかった。
 慶龍十年以降、翔家と飛家の癒着は大きくなる。
 これの弊害が生まれてくるのは、もっと先の話。
 ホウスウの孫が死んで、さらにその先の話である。
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