死生 命あり

 埃と汗にまみれた青年がチョウリョウの都にたどり着いたのは、報告を聞いて一週間後のことだった。
 南城から馬で駆けてきたことを考えると、驚異的な速さだった。
 フェイ・ホウスウは、しっかりとした足取りで、それに向かった。
 チョウリョウの民が持つには、淡い色の瞳は剣呑で、ふれたらハラリと切れてしまうような迫力があった。
 まさに、嵐の夜の色の目をしていた。
 上等の絹がよれ、襟首で邪魔にならないように結われた髪は、ほつれていた。
 見た目を気にし、いつも洒落た姿をしていた青年からは、考えられない姿だった。
 第一、人前に出るには礼を欠くような身なりだった。
 けれども、それを止めるものはいなかった。
 隙なく礼装を着こなす男たちは、ホウスウを押しとどめることができなかった。
 青年は、それに近づき、布を払う。
 人ひとり分の大きさの木箱が据えられていた。
 遠慮なく、ホウスウは箱を開けた。
 防腐剤になる草の香りが堂内を満たす。
 枯れた草花の中に、一振りの剣が納まっていた。
 主を喪った剣が、そこにあった。
 ホウスウはよろよろと崩れ、木箱の縁にもたれかかる。
「……兄上」
 親とはぐれた子どもの声。
 心細い、不安を訴える音が紡がれた。
「何故ですか……?
 ……兄上」
 ホウスウはもう一度、呟いた。
「コウレツ殿の亡骸は、火葬した。
 この季節だ。
 ここへ来たときには、すでに……腐り始めていた」
 後ろから声がかかる。
 落ち着き、誠意のある言葉は、そのままホウスウの心に入り込む。
 エンジャクだった。
 老人と呼ばれる年齢に差し掛かった男は、青年の傍に膝をつく。
 のろのろとホウスウは頭を上げる。
「少し休んだほうがいい。
 話したいことはたくさんあるだろう。
 焦りは禁物だ。
 早急に事を運べば、それだけ綻びやすくなる」
「……休む?」
「汗を流して、食事をするんだ。
 それぐらいの時間の余裕は、ある」
 エンジャクは言った。
 おそらくこの男にしか、言えないことを言った。
 ホウスウも、言葉に従う利点は知っていた。
 だが、居並ぶ百官を前にして、優しい言葉をかけ、労うことなどできるはずもなかった。
 青年は立ち上がる。
 父の代から仕えている者、兄にその才を見出された者。
 顔ぶれはさまざまだが、その集団には一つの特徴があった。
 ここにはチョウリョウの民しかいなかった。
「何故、兄上は亡くなられたのだ?」
 ホウスウは問いかける。
 自分より年長の人間たちに、尋ねる。
「何故、兄上は亡くなられたのだ?
 私は南城にいた。
 道すがら耳にした情報は錯綜し、役には立たない。
 お前たちのほうが詳しいだろう。
 何があったのか、見聞きしたもの全てを教えよ」
 ホウスウは言った。
 感情を抑えられた声に、臣下一同、言いよどむ。
 ある者はうつむき、ある者は唇をかむ。
 軍神にたとえられたチョウリョウの長の死は、いまだ克服できていないようだった。
 死から一番遠そうな男が死んだのだ。
 その衝撃は大きかった。
 百官の中から、ひとり前に出た。
 コウレツの参謀の一人だったシュウ・ハクヤが恭しく礼をする。
 教本どおりの動きは、気味が悪いほど礼儀に則っていた。
 わたわたと迷い、焦る臣下の中で、平常を保っているようだった。
 それもそうだ、とホウスウは思う。
 『榻(長椅子)の参謀』という二つ名を持つ若い男は、戦場に一度も立ったことがない。
 優雅に榻に座ったまま、戦術を献策するのだ。
 わずかな情報から現地の状況を読み、敵の現状を把握する。
 その上で、効果的な策をいくつも立てた。
 武烈の君がお気に入りの臣下だった。
「コウレツ殿が亡くなったのは、私たちが無能だからです」
 ハクヤは言い切った。
 眉一つ動かさず、淡々と告げたのだった。
 堂内に、どよめきが走る。
 ハクヤの言葉に怒る者、泣き出してしまう者、異論と反論とすすり泣きが渦になる。
 誰かがハクヤの長袍を掴みかかる。
 それを若い男は、片手でいなす。
「私たちが優秀であれば、コウレツ殿は死ななかった。
 いつものように生きて帰ってきた。
 ご覧のとおり、結果は以前と違います。
 理由は、一つしかありません。
 私たちは、コウレツ殿を助けられなかった。
 それだけの能力がなかったのです」
 無能といわずして、何というのですか。とハクヤは言った。
 事実だった。
「そうか、無能か」
 ホウスウは呟いた。
 気に食わない男だったが、ここまでくると逆に気持ちが良い。
 自分に正直で、権力に尻尾を振ることもない。
 後先を考えているのか、わからないが、自分の言動に後悔しない性質なのだろう。
「鴻鵠の提案どおりに、詳しい話は後で聴こう。
 事実を告げた者を正当に評価する。
 憶測や希望論はいらない。
 これから先のチョウリョウの話を考えて置くように」
 ホウスウは言った。
 解散を促すように片手を挙げる。
 様々な思惑を抱えて、百官たちは退出する。
 ホウスウにお悔やみの言葉をかける者もいた。
 正論を振りかざす者もいた。
 自分は悪くないと訴える者もいた。
 ハクヤは型どおりの礼をして
「人は誰でも死ぬものです」
 と、ホウスウに告げた。
 冷静を通り越した言葉は、異彩を放っていた。
 父のロシが慌ててやってきて、息子を引きずるように退出する。
 小言が好きな老人にしては、迅速な動きであった。

 ガタン

 木箱の蓋がしまる音に、ホウスウは驚き、振り返る。
 エンジャクはいつの間にか、立ち上がっていた。
 傍らの気配の変化に気がつけないほど、己は疲労しているらしい。
 ホウスウは呆然とする。
「いつまでも開けておくわけには、いかないだろう」
 男は困ったように小さく笑う。
 布の端を掴み、宙で振る。
 上質の絹がふわりと広がって、木箱にかかる。
 床に膝をつき、端を始末する。
 ホウスウが来る前の状態に戻った。
「実感が湧かない」
 青年は床に座り込んだ。
 棺の中に、兄がいないせいかもしれない。
 その最期の立ち会うことができなかったからかもしれない。
「私もだ」
 エンジャクは言った。
「身近な生命が消えるとき、いつも思う。
 私はまた代わることができなかった。
 ……シユウのときも、思ったよ」
 懐かしむように、エンジャクは言った。
「一緒に戦っていれば、兄上をお助けできたのだろうか?」
 ホウスウは呟く。
 そんなことは無理だと知っている。
 父が死んだ後の情勢は不安定で、対ギョクカンに備えておかなければならなかった。
 ホウスウが南城を離れることは難しかった。
「お前は良く頑張った。
 良い弟を持ったと聞かん坊も思ったことだろう」
 エンジャクは優しく言い、ホウスウの背を軽く叩く。
 トントンと二回。
「辛いときは泣くといい。
 神が人に与えてくれた特権だ」
 男の言葉に、青年はゆるく首を振る。
「……案件が山積している。
 嘆くのは、後回しにするさ」
 ホウスウは微笑んだ。


 フェイ・ホウスウが即位したのは、旧暦(エイネン暦)七月のこと。
 大陸の民たちに安寧が約束されるまで、あと数日まで迫っていた、そんな日のことだった。
 ホウスウは兄に対面した。
 その死を乗り越え、青年は建国する。
 国の名前は『鳥陵』。首都の名もまた『鳥陵』。
 同月に、玉棺に宣戦布告をする。
 三年に渡る戦の果て、鳥陵軍は勝利を収めることになる。
 それら全てのことが、この日、始まった。
 ホウスウ、時に二十四歳。
 年齢ほど大人になれていなかったことが証明されるまで、まだしばしの時間が必要とされる。
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