幸せになる方法

 春の院子。
 鴛鴦が憩う池とは、また別の場所。
 それもまた池のほとり。
 青々とした柳が緋魚に影を差し出す。
 池の縁をなぞるように続く石畳を背の高い青年と小柄な少女が散策していた。
 違うのは背格好だけではない。
 二人の違いは、隠すことができないほど大きい。
 髪の色も、目の色も、肌の色も、話す言葉の微妙なクセも。
 何もかも違う。
 それでも二人はいがみ合うことはなく、時たま共に散歩をする。
 決まって、よく晴れた日に。

「幸せになる方法を探している」
 青年は穏やかに話す。
 ゆったりとした口調と、どこか遠くを見つめる双眸が、実際の歳よりも青年を大人びて見せた。
「鴻鵠は不思議なことを言うのね」
 風に舞う花びらのような少女が笑う。
 ほっそりとした体から伸びる腕は折れそうなほど細い。
 それが天を掴むように舞い伸びる。
 シャンと袖についた金の鈴が鳴る。
「鴻鵠は幸せになりたいの?」
 青年の先を行く、少女――水花は立ち止まる。
 右足を軸にしてふわりと振り返る。
 エイハンの衣は軽く、たっぷりとしていたから、蕾がほころぶように広がる。
 舞いにも通じた仕草は、少女が神殿で育ったためだろう。
「なりたい」
 鴻鵠と呼ばれた青年は、微笑んだままうなずいた。
「どうして?」
 青い瞳が問う。
 戦ばかりを見つめてきた青い瞳は、とても疑り深い。
 砂一粒ほどの偽りも許さないと、告げる。
「この世界が幸せになる方法を探すのは、仕事だからだ」
 鴻鵠は石畳を歩く。
 二歩分。
 恋人ではない、友人同士の二人には相応しい距離で、立ち止まる。
 これを埋める努力は、ずっとしてきたつもりだった。
 なかなか縮められない距離だ。
「立派ね。
 それが翼家の当主の務め?
 私だったら、ゴメンだわ」
 水花はひらりと袖をひるがえす。
 金の鈴が少女を追いかける。
「自由気ままに生きたいわ。
 行きたい、が良いのかしら?
 幸せにしてもらうのを待っているのは、合わないわ」
 水花は歩き出す。
 結い上げきれなかった解れ髪が、風に遊ばれる。
 陽射しを受けて、それよりも明るい色の髪がキラキラと輝く。
 鴻鵠は慌てて、その小さな背中についていく。
「ああ、戦をするための大義名分?」
 少女は苦々しい笑みを浮かべた。
 エイネンの斎姫たちは未来を予知する力を持っていた。
 そのため、利用され、略奪され、閉じこめられた。
「大変ね」
 水花は言った。
 空にかかる虹の端。藍の瞳が鴻鵠を見上げる。
 同情に満ちた眼差しだった。
「水花は手厳しいな」
 青年はそっと息を吐き出した。
 幸せになる方法の結論は他者からの強奪だった。
 全ての権利を取り上げて、ただ一人に持たせる。
 天下を治めるということは、そういうことなのだ。
「自己欺瞞なのだろう」
 鴻鵠は言った。
 どれだけ綺麗ごとを並べようとも、対立は避けられない。
 正論を振りかざしたところで、醜悪さは消せない。
「あら? それが悪いなんて言わないわ。
 人間には必要ですもの」
「それでも私は、幸せになって欲しいと願っている。
 その方法を探している」
 鴻鵠は言った。
 気ままな春の風が二人の間をすり抜ける。
 結い上げた髪を押さえながら、少女は風を見送る。
 共に天まで舞い上がりたい、というように。
 さわさわと柳の葉と金の鈴の音色が沈黙を取り繕う。
 三拍ほどの間。
 少女は青年に向き直る。
「誰の幸せを願っているの?」
 高く澄んだ声が問う。
「この小さな世界だ」
 鴻鵠は正直に答えた。
 今、目に映る全ての風景。
 まぶたを閉じ、思い出す人々の顔。
 それが青年の守りたいものだった。
「もしかして……」
 少女は小首をかしげる。
 その拍子に、チリンッと金の鈴が鳴る。
「私も入っているの?」
 無邪気に訊く。
「ああ、もちろんだ」
 鴻鵠はうなずいた。
「余計なお世話だわ。
 私は私の幸せがあって、鴻鵠に叶えてもらうような願いじゃないもの」
 水花は、ニッコリと笑う。
 優しい拒絶に、青年はためいきをつく。
 いつもこの調子。
 義兄の露禽に「スズメは狩が下手だ」とからかわれる始末だ。
 風に流れる花びらは、とらえどころがない。
 軽やかに、虚空へと舞い上がる。
 すぐ傍まで来たかと思うと、次の瞬間には手が届かない場所にいる。
 とても厄介だった。
「鴻鵠は本当に仕事熱心。
 だから、私が叶えてあげる。
 どうせ鴻鵠のことだから、その小さな世界に自分がいないんでしょう?
 私にできることがあるなら、叶えてあげる」
 細い腕が伸び、小さな手が青年の衣を握りこむ。
「どんな願い事があるの?
 幸せ探しをする人は、みんな願い事を抱えてる」
 水花は、水面に広がる波紋のようにささやく。
 耳に心地良い声が青年の胸の中に沈みこむ。
 ほんの少し手を伸ばせば、少女を抱きしめることができる。
 甘い誘惑。
 青い瞳は真っ直ぐに己を見つめる。
 愛を告げたら、少女はうなずいてくれるだろうか。
 ……勝算はなさそうだった。
「何もないよ。
 水花は優しいな」
 ありがとう、と感謝の言葉を口にする。
「そう」
 小さな手が衣を離す。
 また、ふわりと裳裾を広げて、少女は歩き出す。
 虹藍色の瞳が傷ついたように見えたのは、錯覚ではないだろう。
 少女は利用されることに慣れていた。
 未来を読み、助言を与える。
 そればかりを望まれ、そうやって生きてきた。
 だから、鴻鵠が断ったことを快く思わなかったのだろう。
「鴻鵠は馬鹿がつくほどお人よしで、間抜けのように真面目で、どうしようもないほど親切なのね。
 優しすぎるわ」
 少女は言った。
「水花ほどではないよ」
 鴻鵠は微笑んだ。


 この世界が幸せになる方法を探している。
 誰も傷つかない、苦しみの少ない世界になるように。
 ずっと探している。
 それは結局、目の前の少女が利用されない世界を作りたい。というものと、違いがないのかもしれない。
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