夢の中で

 真っ白な光を感じて、ソウヨウは目を覚ました。
 焼けつくような強い光でもない。
 弱々しくて不安になるような光でもない。
 光り輝くという言葉が似つかわしい、純粋な朝の光だった。
 眩いけれども、目が回るわけでもない。
 一瞬で駆け抜けてしまう初夏の光だった。
 緑とも茶色ともつかない瞳が穏やかに笑む。
 爪の先まで、じんわりとした熱が広がっていた。
 ソウヨウはそれが逃げ出さないように、ゆっくりと手を握る。
 それから大きく息を吐き出した。
 夢を見た……ような気がする。
 どんな夢だったかは、覚えていない。
 ただ、その夢の中で己が幸せであった。
 それの残り香で胸が満たされていた。
 身を起こし、寝台から滑り降りる。
 黄色に偏った茶色の髪がさらりとそれに従った。
 腰まである髪は、チョウリョウの民にしては長い。
 肩まで切ろうかと何度か思ったのだが、髪に刃を入れることなく、この歳まできてしまった。
 意味ありげな視線を投げてよこす者もいるけれど、面と向かって文句を言う者はいない。
 偉大なる皇帝陛下は民族の文化に理解がある方で、それを守れるようにと、いくつかの法律を作ったぐらいだ。
 だから、ソウヨウは髪を切ることなく、高い位置でくくることもなく、日々を過ごしていた。
 寝台から降りた青年は卓の上に用意されていた、緑の飾り紐と櫛を手に取る。
 立ったまま梳ると、襟元でさっと髪を結ぶ。
 水差しに入った水をたらいに移し、軽く洗顔をすませてしまう。
 靴を突っかけるように履き、衝立に掛けられていた衣を羽織ると、そのまま戸を開いた。
 寝坊をするのが得意の大司馬が、まさか早朝に起きるとは誰も思っていないのだろう。
 控えの間にも、廊下にも、人影はなかった。
 ソウヨウは足音に気を配りながら院子に向う。
 自分を目覚めさせてくれた朝の光を体いっぱいに受け止めてみたかった。
 それだけの理由だ。
 できるだけ人が通らない道を歩き、お目当ての場所に向う。

 白鷹城、内宮。その奥庭。
 長い花期で知られる花薔薇たちが咲く、花薔薇の院子。
 仲の良い恋人同士がやっと並んで歩けるほど細い小道をソウヨウは歩く。
 さまざまな角度で花薔薇を楽しめるようにと、色石が敷き詰められた道は、くねくねと蛇行している。
 朝露を花弁に置く花薔薇は、常よりも色が濃く見える。
 そよと吹く風に揺れれば、甘い芳香を漂わせる。
 地上の楽園とささやかれるだけはある美しい庭園だった。
 初夏の日差しを受けて輝く花々は凛として、艶やかだった。
 曖昧な色の瞳がそれをぼんやりと追う。
 表情というものが抜け落ちた顔で、青年は朝の院子を散策する。
 目元にも、口元にも、感情というものが欠けていた。
 それを見る者がいたら、頭を抱えてためいきをつくかもしれない。驚いて、ソウヨウの視線を避けるかもしれない。あるいは、諦めたように微笑むかもしれない。気味悪がって、眉をひそめるかもしれない。
 平素の青年とは違う雰囲気を見つめるのは、物言わぬ草花ばかりであった。
 ソウヨウは大きく息を吸い込んだ。
 朝の光を取り込むように。
 目覚める前に見た夢を思い起こすように。

「シャオ」

 曖昧な目が瞬く。
「おはよう」
 朗らかな声に驚きながら、
「おはようございます、姫」
 ソウヨウは微笑み、振り返った。
 地紋も麗しい純白の衣に、清々しい緑の衣を重ねた装いの乙女が立っていた。
 赤茶色の髪は緩くまとめられていて、飾りらしい飾りはなかった。
 薄く施される化粧の気配がないところを見ると、身支度前のようだった。
「ずいぶんと早いんですね」
「目が覚めたの。
 花薔薇が呼んだのかと思ったんだけれど」
 赤瑪瑙の瞳が院子の花々を一渡りする。
「呼んだのは、シャオだったのかしら?」
 小首をかしげながら、ホウチョウは尋ねる。
 ほつれた細い髪が肩に落ち、しどけない。
 青年の心臓はドキリッと弾んだ。
「光栄ですね」
 ソウヨウは鼓動を落ちつけようと、息を吸い込む。
 ゆるりと吐く間に、ホウチョウは笑う。
 長いこと待ちかねていた子どものように、頑是無い笑みを見せる。
「夢を見たの」
 極上の赤瑪瑙の瞳が真っ直ぐとソウヨウを見上げるから、青年の心臓は落ち着きを忘れてしまった。
「とても幸せな夢だった。
 全部の夢がこんなに幸せなら、毎日が心が浮き立つわ。
 そんな気持ちの良い夢だったの」
 ホウチョウは嬉しそうに言うと、歩き出した。
 胡蝶の二つ名にふさわしく、軽やかに。
 子ども時代からそうであったように、ソウヨウはその背を追いかける。
「だから、夢を叶えてあげたくなったの。
 ねえ、シャオ。
 私があなたの夢を全部、叶えてあげるわ」
 ホウチョウは唐突に立ち止まり、振り返った。
 夜に見る夢も、昼間に見る夢も。
 乙女にとっては、わずかな違いもないものなのだろう。
「どんな夢も。
 私が叶えてあげる」
 夢幻のような景色の中で、乙女は手を広げる。
 この国唯一の公主である彼女であれば、叶わないもののほうが少ないだろう。
 どんな願いも叶えることができるだろう。
 夢見るような瞳でささやかれた言葉は、おとぎ話のように甘い。
 綺麗で、儚げで、砂糖菓子のように溶けてしまいそうなほど、もろい。
「必要ありませんよ」
「どうして?」
 ソウヨウの言葉に、ホウチョウは不満げに尋ねかける。
「夢なら……」
 初夏の光を感じながら青年は口を開く。
 遠い昔、というほど昔ではない過去。
 ソウヨウは来る日も来る日も、空を仰いだ。
 自分では果たすことができないと知っていたから。
 だから、願った。
 ただ一人の幸いを、ずっと祈り続けていた。
 どこまでも広がる空の下、一つ年上の少女の幸せだけを願っていた。
 その純粋な願いの隣に、ソウヨウは小さな夢を描いた。
 口に出してしまったら消えてしまう。
 誰かに話せば、馬鹿にされる。
 朝に目を開いて、夜に目を閉じるまでの間に、そんな夢を見ていた。
「夢なら叶いました」
 ソウヨウは喜びを強く感じた。
 叶った、と言える時の流れに感謝したいと思った。
 誰よりも幸せになって欲しいと願う、大切な人の笑顔を間近で見ていたい。
 彼女が間違いなく幸せだということを、この目で確認したい。
 それがソウヨウの夢だ。
「私は見果てぬ夢を見ているところなのです。
 姫が叶えてくれたんです」
 ソウヨウは言った。
「そう。それなら良いわ」
 ホウチョウはニッコリと笑った。
 真っ白な光に染まる乙女は、夢のように美しかった。
 それに、ソウヨウも笑みを深くした。



 終わらない夢を見ている。
 それは、幸せなのだろうか。
 それとも悪夢のようなものなのだろうか。
 夢から覚めるその時まで、それはわからない。
 見果てぬ夢を紡ぎながら目覚めの朝を待つ。
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