大切なもの

 宴もたけなわ。
 各々に回された杯は、何杯を数える頃か。
 管弦の音に拍子を加えて、踊りだす者が出てくるような時間のことだった。
 酒は、人間を思考を鈍くし、素直にするものだ。
 理性が緩んだ若い兵士が上官たちのもとへやってきたのは、度胸試しか軽い余興のつもりだったのか。
 物怖じというものをどこかに置いてきてしまった兵士は、尋ねた。
「人生ってヤツに一番、大切なものって何ですか?」
 ふらつく足元にふさわしく、ろれつの回らない舌が訊く。
 竹林に居を構える厭世者が好みそうな質問に、訊かれた青年は困ったように微笑んだ。
 緑の瞳の将軍は
「カクエキ」
 と、側にいた旗下の名を呼んだ。
 新しい甕の蓋を開けようとしていた大男の動作が一瞬だけ止まる。
「あなたの部下ですか?」
「まさか?
 こんな硬いことを考えるような奴はいないって」
 外した蓋を抱えたまま、カクエキは言う。
 そこに琴でも弾いてるほうが似合うような手が差し出される。
「お、悪りぃ」
 カクエキはシュウエイに蓋を手渡す。
「酔い覚ましに行ってくる」
 独り言にも、宣言にも似たことを口にして、シュウエイは立ち上がる。
 言うが早いか、しっかりとした足取りで院子のほうへ歩いていく。
 甕の蓋は通りすがりの下官に押し付けたのが見えた。
 カクエキはカクエキで、新しい酒に杯を突っ込んでいる。
 柄杓ですくうという、動作はどこかに捨ててきたようだ。
「それで将軍。
 答えはないんですか?」
 兵士は再び質問する。
「人生に一番、大切なものですか?」
 ソウヨウは考えこむような仕草をした。
「そうですね。
 たくさんありすぎて、難しい質問です」
 とてもまともなことを青年は口にした。
 曖昧な色と評される瞳の色も、今は篝火に照らされて緑だ。
 そこに、剣呑と表現するにふさわしい光が宿る。
 管弦の音が途切れ、浮かび上がる無音。
 人の立てるざわめきが絶えた瞬間。
 だから。
「忘れない」
 緑の瞳の青年の声は、どこまでも通った。
 複雑な意味を持つような言葉を言ったソウヨウは、微笑む。
 穏やかで優しい笑顔だったが、それだけの表情だった。
 作り物だと一目で知られるようなものだった。
 凍るような音を立てて、場は静まり返る。
「それが、一番大切なことでしょうか」
 管弦のない宵の空気に青年の声が響く。
「将軍は、何を覚えていたいんですか?」
 冷たい沈黙を破ったのは、明るい声だった。
 将軍直属の部下、ユウシ。
 ソウヨウが言った言葉の重みを取り替えるようなことを尋ねた。
 些細なことも忘れず、いつか裁く。
 ではなく、忘れたくない思い出がある。と。
 ホッとしたように、管弦が始まる。
 ざわめきの中、ソウヨウは笑む。
「姫と交わした約束は、全部、覚えています。
 果たした約束も、その後の笑顔も。
 果たせなかった約束も……全部。
 姫は……もうお忘れでしょう。
 それでも、私は覚えていたいんです」
 杯のふちをなぞりながら、ソウヨウは言った。
「将軍は、本当に公主がお好きなんですね」
 柔和な笑顔のユウシが言う。
 嫌味に聞こえないのは、その性質からだろう。
「大好きですよ」
 子どものようにソウヨウは言った。
 好きでもなく。
 愛しているでもなく。
 小さな子どもが格別のものを指すように。
 『大好き』だと告げる。
「将軍の人生で一番、大切なもんって、姫さんなんじゃねーの?」
 言った本人は、甕に右手をつけていた。
 先ほど注いだ分は、飲み干してしまったのだろう。
 大柄な男はソウヨウを見て、にやりと笑った。
「あの方は、私の生きている意味の全てですよ」
 さらりとソウヨウは告げた。
 真剣な言葉だったが、周囲からこぼれたのは和やかな失笑だった。
 惚気にしか聞こえなかったのだろう。
 緑の瞳の青年も気にせずに、杯に向かう。
 質問に来た兵士も、いつの前にか姿を消していた。
 チョウリョウらしい外見の若者だ。
 探そうと思えば、容易に見つかるだろう。
 だが、ソウヨウが口にしたのは別のものだった。
「ユウシは、人生で一番、大切だと思うことは何ですか?」
「……。
 ぱっとは出てきませんね。
 とっても大きすぎる話です」
 照れ笑いをしながら、ユウシは言った。
「あれも、これも。と思うのですが。
 一番、は難しいですね」
「カクエキは?」
「え、俺?
 そうだなー。
 生きるってことじゃねーの」
 死んだらおしまいだしな。と軽口のように大男は言った。
 甕から顔を出して
「伯俊の言いそうなことなら、わかるぞ」
 とカクエキは言った。
 北方出身の男にとって、この程度の宴会で出る酒は水のようなものなのだろう。
 甕ごと、おかわりするような勢いだった。
「あいかわず、仲良しですね」
 ソウヨウは言った。
「金」
 簡潔な男の言葉に、ソウヨウもユウシも噴き出した。
「風呼殿、いくらなんでも、失礼ですよ。
 伯俊殿が気を悪くしそうです」
「さすが、カクエキですね!
 シュウエイなら言いそうですよ!」
 ソウヨウはクスクスと笑った。
「だろ?
 絶対、それだって」
 カクエキは自信たっぷりに断言した。
「伯俊殿にだって、他に大切なものがあるはずですよ」
「ありえませんよ、ユウシ。
 シュウエイはそういう男です」
 上官のソウヨウも明言する。
「あるかもしれねーけど。
 金、って言うと思うぞ」
 カクエキはどっかりと腰を下ろした。
「伯俊殿が恥ずかしがり屋だから、ですか?」
 ユウシは尋ねた。
 笑いのツボに入ったのか、ソウヨウは声を上げて笑う。
「お、それ。面白いな。
 今度、本人に言ってみるか」
 カクエキが言う。
「そんなに変なこと、言いましたか?」
「良いんじゃねーの。
 宴会の席なんだしよ。
 誰も、まともに覚えてないって」
「大切なものを即答できるのは羨ましいです。
 私は、たくさんあって、まだ答えが見つかりません」
 ユウシは言った。
「それで良いんだと思いますよ。
 一番と決められないぐらいが……ちょうど良いんです。
 たぶん、ですけどね」
 酔いから醒めたような口調で、ソウヨウが言った。
 寂しく響いたその声を打ち消すように
「杯、空のまんまじゃないですか」
 とカクエキが言う。
 自分の杯からソウヨウの杯に酒を移す。
「柄杓を使うとか。
 新しく持ってくるとか。
 そういう礼儀はないんですか?」
「無礼講、無礼講。
 将軍だって、宴会の前に、そう言ってたじゃないですか」
 大男は陽気に笑った。
「それに、そんなにお酒は好きじゃないんですよ。
 誰かさんたちと違って」
「子ども扱いされたくないんだったら、早く味を覚えることですよ」
「これに関しては、子どものままでも良いですよ」
 ソウヨウは何杯目かの酒を飲み干した。
 混ざり物の多い酒は、それほど強くない。
 極寒と呼ばれる北で作られる酒に比べたら、水に近く、甘みも強い。
「どうせなら果実酒のほうがいいですね」
「1本、持ってきましょうか?」
 ユウシが尋ねる。
「カクエキに空にされそうなので、やめておきます」
 ソウヨウはためいきをついた。


 宴会は、すべての甕が空になるまで続いた。
 途中で姿を消したシュウエイは、当然、戻ってこなかったし、宴会場の酒の半数を飲んだと思われるカクエキは、次の日も変わらない調子で、調練に姿を現した。
 ほどほどにしていたユウシは頭痛に悩み、ソウヨウは自分の身から漂う酒の匂いに眉をひそめたのだった。
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