鳥は南を顧みる

「鳥は翼を広げて、空高く飛び上がる。
 ひと羽ばたきは、地にて千里となる」
 子どもは立ち止まった。
 茶ではなく、黒に近い虹彩の目が、瞬く。
 長い詩のここで、何故か引っかかる。
 いつも、同じ場所だ。
「地にて千里となる」
 ゲッカはくりかえす。
 この次の連がするっと出てこない。

『鳥は南を顧みる。
 遥かになった故郷を振り返り、さらに飛ぶ』

 落ち着いた声がつづる。
 心の中。記憶の中。
 根気強く教えてくれた人の声を聞いて、ゲッカは振り仰ぐ。
「沖……」
 青い空が見えた。
 子どもは泣きそうな顔して、口を閉じる。
 ここは故郷ではない。
 傍で教え導いてくれた宰相はいない。
 いない、のだ。
 それを選んだのは自分。
 誰かに命じられたのではない。
「鳥は南を顧みる」
 ゲッカは歩き出す。
 口ずさめば、思い出す。
 カイゲツにいた頃の、あたたかい記憶を思い出す。
 クニは、寒く冷たい海ばかりが広がっていた。
 冬になれば波飛沫が凍るような、そんな実りの少ない土地だった。
 それでも、思い出はあたたかい。
「遥かになった故郷を振り返り」
 子どもは微笑んでいた。

   ◇◆◇◆◇

「――さらに飛ぶ」
 窓越しに高い声が入ってくる。
 部屋の主は、美しい眉をひそめた。
「華月ね」
 ホウチョウは不機嫌を隠さずに言った。
「暗唱するなら、場所を選んで欲しいわ」
「姫、こちらを」
 奥侍女メイワが茶器を差し出す。
「あら?」
 鳥陵皇帝の妹姫は、青磁の器を見る。
「薬湯でございます」
「苦そうね」
「飲んでいただかねば困ります」
「……」
「どうぞ」
 メイワはなおも言う。
 ホウチョウはしぶしぶと茶器を手に取る。
 窓から聞こえる高い声は、詩を暗唱し続ける。
 長い詩だ。
 すぐには終わらないだろう。
 不愉快だからといって、部屋を飛び出してやめさせるのも嫌だ。
 ちょうど、手の中の薬湯のようなものだ。
 ホウチョウは、ためいきをつく。
 子どもの声は時々、途切れ、言い直しながらも続く。
 大きな鳥が飛ぶ様を詠った壮大な詩。
 故郷を離れた鳥が、偲ぶ歌。
「鳥は南を顧みる」
 ホウチョウは呟いた。
 自分とは違う声が、耳の奥で響いた。
 少年の声がすらすらと詩を吟ずる。
「小さい頃、この詩を勘違いしていたわ。
 鳥は、故郷に帰れたんだと思っていたの」
 乙女は言った。
「『かえりみる』は、難しいですわね」
 メイワは言った。
「鳥は帰れなかったのよね」
 ホウチョウは茶器に目線を落とす。
 青磁の色は、思い出す。
「メイワ。
 器を変えてきてちょうだい。
 そうね、白磁にして」
 青磁は緑に近いから思い出してしまう。
 今はいない幼友だちを。
「かしこまりました」
 奥侍女はうなずき、茶器を引き取る。
 ホウチョウは一人きりになった部屋で、詩の続きをささやく。
 詩の類は兄が好きだったから、一通り覚えさせられた。
 一つ年下の少年と一緒に、覚えたばかりの詩をよく歌っていた。
 今の華月のように。
 廊下を渡りながら一緒に……。
「地は果てなく。
 天は終わりなく。
 鳥は――」

   ◇◆◇◆◇

「地は果てなく。
 天は終わりなく」
「カクエキ。
 そんな簡単なところで、引っかからないでください」
 緑みのある茶色の双眸を持つ将軍は、呆れた。
「そんなこと言っても、読めませんよ」
 旗下の部隊長は顔をしかめた。
「誰も読めなんて言っていません。
 丸暗記してください」
 ソウヨウは淡々と言った。
「うっ」
「シュウエイだって、これぐらいできるんですよ」
「だって、とは、どういう意味ですか?
 この程度は教養にもなりませんよ。
 常識です」
 カクエキの同僚である青年は、嫌そうな顔をした。
「だ、そうです。
 頑張ってください、カクエキ」
「どんな常識だ。
 坊ちゃん育ちと一緒にしないでください」
 紙を手にした大男は、ためいきをつく。
 同じように、詩が書きつけられた紙を持つユウシも、困りきった顔をする。
「無学なもので、申し訳ありません」
 人の好いユウシは言った。
「詩というのものは、人生を豊かにし、生き方を示すものです」
 ソウヨウは言った。
「誰の言葉です?」
 シュウエイが尋ねた。
「鳳様はそう信じているようです」
 ソウヨウは、鳥陵皇帝の名を出す。
「「「なるほど」」」
 調子の違う声が3つ重なる。
 一つは疑問が解けたように。
 一つは「やっぱり」と確信を深めたように。
 一つは感心したように。
「もちろん、覚えると便利なのは認めます。
 だから、カクエキとユウシも覚えてください。
 せめて鳳様が好きな詩ぐらいは、全部、覚えておいてくれないと困るんです!」
「全部って、あと何個あるんですか?」
 カクエキは、ひき潰された蛙のような声を上げる。
「十の子どもにもできたことなんですから、皆さんにはたやすいことでしょう」
 ソウヨウは言い切った。
 妙な沈黙が落ちた。
 捨て鉢な気持ちや同情や、知りたくなかったという思いがない交ぜになった無音だった。
「さあ、カクエキ。
 続きをどうぞ」
 南城の城主は私塾の教師のように、明るく言った。

   ◇◆◇◆◇

「――鳥は飛び続ける。
 羽を休める枝も遠く。
 陽も遠く。
 虚空をどこまでも飛び続ける」
 ホウスウは吟ずる。
 それを耳にした壮年の男性は微笑んだ。
「陛下は、その詩がお好きですな」
 エンジャクは言った。
「嫌いか?」
「私ですか?
 少し寂しい気がして、どうにも」
「そうか?
 この鳥は自由だ。
 どこまでも、自由に飛んでいける」
 書卓に肘をついて、皇帝は微笑む。
「そのかわりに、故郷には戻れません」
 エンジャクは新しい上奏書を書卓に載せる。
「もとより、そのようなものは持たない。
 それが渡り鳥だろう」
「そうですな」
 壮年の男性は寂しげに微笑んだ。

   ◇◆◇◆◇

 日は昇り、沈む。
 そのくりかえしの中で詩は歌われる。
 違う声で、違う調子で。
 こもる感情も、かかる気持ちも、のせられた願いも……意味も異なる。
 それでも、詩が詠う字は同じ。
 一字もそこなわれない。
 それは、鳥が空を今日も飛ぶように、同じこと。
 口ずさまれていく詩は変わらない。
 人だけが変わっていく。


 ――鳥は南を顧みる。
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