天と地の差

「――」

 喪われた時の中で、自分の名を呼ぶ声は高い。
 凍る空を割るように、鋭いまでに高い。
 そこには色も香りもない。
 混じりけのないほどに、高く澄んでいる。
 そう、それは頑是無き子どもの声。
 明日を疑わない、未来へと進む声だった。
 ロウタツは、この声を聞くのが、嫌いで……好きだった。
 カイゲツ最後の希望がつづる、自分の字が嫌いで好きだった。

「沖達!」

 ロウタツは目を開いた。
 光すら吸いこむのではないだろうか。
 そう思うほど、黒い色の目がロウタツを見下ろしていた。
 さらさらと、細い肩から髪が零れ落ちる。
 長く、癖のない髪が、淡い光を受けながら流れていくさまは、とても美しかった。
「沖達」
 凍った時の中でつづられた声よりも、幾分か優しく。幾分か軽やかに。
 少女は字を呼ぶ。
「夢を見ていたようです」
 ロウタツは上体を起こした。
 ずるりと掛け布が敷物の上に滑り落ちていく。
 軽い午睡のつもりが、思ったよりも長い眠りになったようだ。
 普段は見ない夢を見た。
「懐かしい、夢でした」
「幸せだった?」
 隣に座っているゲッカは、大きな目を瞬かせた。
 思い出の中の子どもは、未来ばかりを見つめていた。
 過去を振り返るほど生きていなかったのだから、当たり前だろう。
 青年は息をつく。
「今と変わらないほど幸せでした」
 かつては、胸が抉られるほど痛い記憶だった。
 少女がカイゲツを立ち去り、自分だけが戻ったあの日から。
 カイゲツが最後の希望を失ってから。
 時折、過ぎる思い出たちは『懐かしい』ものではなかった。
 身を焼くほど焦がれても、どれだけ叫んでも、取り返すことはできないとわかっていたゆえに、これ以上の責め苦はなかった。
 生きたまま煉獄につながれた囚人だと錯覚したまま、日々を送っていた。
 けれども……。
「幸せでした」
 ロウタツは幼い婚約者を抱き寄せた。
 衣越しにぬくもりが伝わってくる。
 大陸には、カイゲツという名前の国はなくなった。
 もう二度と史書に現れることはないだろう。
 少女に託された神託は『最後の希望』だったのだから。
「良かった」
 ゲッカは無邪気に笑う。
「沖達は幸せにならなくちゃいけない人なんだよ!
 たくさん頑張ったんだから、ちゃんとご褒美をもらわなきゃ。
 頑張った分だけね」
「私は自分に与えられた役割を果たそうとしているだけです」
「そういうのを頑張ってる、っていうんだよ。
 当たり前のことを当たり前のようにするって、一番難しいって言ってたよ。
 みんなに自慢したくなるんでしょ?」
 ゲッカは言った。
「誰の受け売りですか?」
 ロウタツは苦笑した。
「……」
 ゲッカは唇を閉ざし、目を逸らした。
 隠し事に向かない性格は健在のようだった。
 少女が青年に気を使い、名を出すのをためらう人物は一人だけだ。
「陛下がお好きな言い回し、ということですね」
 カイゲツを滅ぼした鳥陵皇帝。
 ロウタツと同い年でありながら、手にしている力の差は天と地ほど離れている漢。
 そして手にしている幸せの差も天と地ほど離れている。
「華月様。陛下は自慢していましたか?」
「え、鳳が?
 自慢って、どれを?」
 きょとんとした双眸がロウタツを見上げる。
「この大地から争いを消し去ったことを」
 生きている者の中で、何人が知っているだろうか。
 何人が覚えているだろうか。
 戦を告げる銅鑼がならない日を。
 姓を掲げた旗が砂塵にまみれない日を。
 悲鳴を、怒声を、生命を奪われる者たちの魂の旋律が響かない日を。
「鳳は」
 小さな頭の動きに合わせて、黒く長い髪が揺れる。
「いつも、戦うことを悔やんでいたよ。
 戦いなんてしないで、丸一日、詩を作ったり、笛を吹いていたりしていたんだって。
 もっと気楽な暮らしをしているはずだったのに、って」
 感じやすい黒い目の端に、透明な雫が宿る。
「一度も、自慢なんてしなかった」
 悲痛なつぶやき。
 気がつかなかったことをとがめる。
 自分を責める。
 少女は……かつてのカイゲツの総領は、己の国を滅ぼした皇帝に、深く……同情する。
 昔、己の民に向かって、差し出したように。
 見返りを求めない憐れみを寄せる。
 ロウタツは目を細めた。
 少女の頭上に、月の光で編んだような冠が見える。
 天が授けた子のみが許されるそれが、見えた。
「鳳がかわいそう。
 ボク、幸せだから、すごく思う」
 涙に潤んだ目が悲しみを訴える。
 ロウタツは少女の背を軽く叩いてやる。
 思い出の中で、何度もそうしてやったように。
「頑張った分だけ、褒美が貰えるのなら、陛下にも用意されているでしょう」
 青年は呟いた。
「うん」
 少女はこくりっとうなずいた。
 腕の中にある幸せを確かめながら、ロウタツはそっとためいきをついた。
 喪った時間を。
 これからも喪っていく時間を。
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