ただの鳥

 チョウリョウの本拠地の川向こう側。文人墨客を抱えこみ、風流を楽しむ人物たちが屋敷と定めた一区画。
 最奥の屋敷では、今日も琴の音が響いていた。
 欠けたところのない月が出る夜、この屋敷ではささやかながら宴が開かれる。
 琴の音色を解した者であれば、どのような身分の者であっても、その宴に参加できたし、琴の弦にふれることを許された。
 屋敷の主オウ・ユの書斎に風変わりな客人が訪れる日でもあった。
 誰よりも琴の音色に詳しいながら、決して糸にふれない若者。
 身に帯びた色彩から北方民族の出だとわかるものの、巧みな中央の言葉、粗野なところが一つもない仕草は、流れ者の持ち物としては荷が重過ぎる。
 どこの誰であろう、と他の客人たちは、若者に好奇の目を向けていた。
 
「立派すぎるな」
 青年は言った。
 弦楽器を思わせる艶のある声だった。
 琴の音色よりも、こちらを聴いているほうが楽しい。
 と思う者が屋敷の中にもいる。
 皇帝に琴の才を認められて『玉琴』と字を賜ったオウ・ユには頭が痛い状況であった。
「そうでしょうか」
 オウ・ユは卓に載せられている絹布を見つめた。
 漢詩が書きつけられた絹布を挟んで、向こう側に座っている青年は筆を取る。
 筆先に残っている墨だけで、側にあった紙に書きつけた。
 迷いのない筆運びは、流れる水のように澄んでおり、雅やかなもの。
 宮廷で見るのも難しいような、冴えのある所作であった。
 習い覚えたというよりも、生まれつき備わっている。
 そう感じさせるほど作為的なものがなく、自然だった。
「ハンチョウ」
 書きつけられた文字に、オウ・ユは息を呑む。
「これぐらいでちょうどいい」
 青年は筆を置く。
 この地に住まう人々とは異なる瞳が、寂しげに笑う。
 色が異なるから寂しいのか。
 それとも、その本質からして寂しいのか。
 まだオウ・ユには区別がつかなかった。
「ただの鳥ですか?」
 絹布にかかれた漢詩を揶揄するような文字に、オウ・ユはためいきをつく。
「違いはないだろう」
 青年は筆を置き、紙を絹布の上に滑らせる。
 水辺に遊ぶ鳥のように、するりとそれは滑空して、ふさわしいと言わんばかりの位置に止まった。
「人間という生き物は不思議なもので、同じであっても、名前が変われば価値が違うように感じるものなのです」
 オウ・ユは顔を上げ、青年を見つめる。
「必要以上に立派に見せてどうする?」
「何もかもご自分の才覚だけで乗り切りたいという気持ちもわからなくはないですが……」
 才能に恵まれていれば、一度は描く野心である。
 オウ・ユはためいきをついた。
 目の前の青年は、確かな実力の持ち主であり、努力を努力と感じない性質を持っている。
 数年もすれば世間が認める一角の人物となるであろう。
「見目というのも重要なものなのです」
「残念ながら、見た目は優れていない」
 青年はあっけらかんと言った。
 話をすりかえられたオウ・ユは……諦めた。
 本人がそれでいい、と言っているのだ。
 周りの忠告など、うるさいだけであろう。
「あなたを見て、そう思う女性は少ないでしょう」
 オウ・ユは青年の話に乗った。
「今まで容姿を褒められたことがない。
 性格もこの通りだから、褒めるのも大変らしい。
 実際、玉琴に褒められて驚いたぐらいだ」
 印象的な目をきらきらと輝かせて、悪戯を思いついた子どものように、青年は笑う。
「これまで一度も、誰も、あなたを称えたことがないのですか?」
 意外だったためにオウ・ユは尋ねた。
「ああ、誤解するな。
 親兄弟は褒めてくれた。
 無論、父の友人もな。
 それは身びいきなものだろう?」
「今に……、誰も彼もが、あなたのことを褒め称えるようになるでしょう」
「あの父の子だからな」
 そこに混じるのは、尊敬と憧れと……やはり寂しさであった。
 複雑な立場が、より寂しさを増しているのだろう。
「私はあなたの父親を見て、素晴らしいと思ったわけではありませんよ。
 あなたと話して、素晴らしいと感じたのです」
 オウ・ユは言った。
 青年は形ばかりの笑顔を作った。
「玉琴は誰も彼もと言っただが、絶対に褒めてくれない人物に心当たりがいる。
 しかも二人……いや、娘も合わせれば三人か?
 褒める前にけなされる予感がする」
「何か、ございましたか?」
 養女を引き合いに出されて、オウ・ユは眉をひそめる。
「久しぶりに会った妹に、お葬式でもあるの、と訊かれた」
 琴を弾いていたら、と青年は付け足すように言った。
「それは、また」
 オウ・ユは苦笑した。
 華のある調べも悪くはないが、青年の琴は秋の悲しみにこそ艶がある。
 余韻たっぷりに嫋々と鳴る琴は、葬儀の場にもっとも似つかわしい。
 少女らしい言葉ではないが『的確』な表現であることを否定できない。
「お目にかかりたいような、避けてしまいたいような妹君ですね」
「他は褒めても、妹から褒められない気がする」
 面白くなさそうに青年は言った。
「それも悪くはないでしょう。
 目標になりますよ」
「目標というものは達成できそうな予感がしなければ、意味がない。
 最初から匙を投げたくなるものは、効果が薄い。
 乗り越えようという気にならないからな」
 王者を導いてきた賢者のようなことに、青年は口にする。
 世俗のことに飽いたような。
 どこかに自分自身を置き去りにしているような。
「妹君にはお会いしたことはございませんが。
 努力の結果についてくるものが、笑顔であれば報われた気になりませんか?」
「玉琴は前向きだな」
「私はあなたの琴の音色が好きですから。
 聴けなくなるとしたら、寂しく思いますよ」
 オウ・ユは言った。
「弾かないとは言ってない。
 褒め称えられないだろう、と確信しているだけだ」
 青年は言った。


 オウ・ユの屋敷に訪れる若者の通り名はハンチョウという。
 ハンチョウという音色は、ただの鳥。凡庸な鳥と書く。
 字を知る者は、どこの誰ともわからない若者らしいと笑う。
 屋敷の主は、そっとためいきをつく。
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