最初の嘘

 「ちょっと意外な展開だな」
 気安い様子で、弦楽器のように麗しい声が入ってきた。
 乱入者に、部屋の中で作業をしていた下官たちがまごつく。
 書卓で奏上文に目を通していた部屋の主は、軽く手を上げる。
 下官たちは目配らせをして、一様にお辞儀をした。
 そそくさと、衣擦れが退出する。
「何の話だ?」
 ホウスウは乱入者に微笑みかけた。
 鳥陵が誇る八将軍のひとりギョウ・トウテツ。字は千里。
 身に宿す薄い色彩が示すように、朱鳳よりももっと北の地域の出身だ。
 若さ、才覚、出自。どれもが話題になるような人物だった。
「妹君の話だ」
 千里は愉快そうな面持ちで言う。
「ああ、それか」
 ホウスウはうなずく。
「他にもあるのか?」
 勧められる前に、若い将軍は椅子に座った。
「皇帝という職業は多忙だ。
 耳が痛くなるような話ばかりを聞くことになる」
 ホウスウは新しい奏上文を手に取る。
 竹簡に書かれたそれを端から開いていく。
「後悔しているのか?」
 千里が尋ねた。
「覚悟の上だ」
「あまり良い職業には見えないな。
 俺は一生なりたくない」
「それが正解だろう」
「緑の瞳の将軍。ありきたりだな」
 唐突に千里が言った。
 先のエイネン王朝にも、今の朝にも、将軍位を得たシキボの民は一人きり。
 シ・ソウヨウだけ。
 ホウスウは顔を上げた。
「菫の瞳の将軍もいるぐらいだ」
 前代未聞を創った皇帝は軽く微笑んだ。
「そうとも」
 千里は力を得たように、笑った。
 悪巧みをしている子どもの笑顔に近い。
「緑の瞳の大司馬。
 これは、あまりない」
「最初で最後かもしれないな」
 ホウスウは言った。
 これから先の歴史を紐解いても、記述されないかもしれない可能性。
 国の最大の要、軍事を司る長官に、シキボの民が選ばれる。
「重鎮たちの反対は?」
 楽しげに千里が訊く。
「鴻鵠は目の前で見ていた」
 カランカランと竹簡から乾いた竹の音がする。
 墨蹟は流れるように麗しく、書画にして掛けておきたい雰囲気があった。
 署名を見ずとも、誰のものか一目でわかる。
「良識派の宰相閣下が、皇帝の反対なんかするもんか」
「見解の違いだな。
 あれで鴻鵠は革新派だ」
「良識っていうのは、自分が正義だと思っている連中のことさ」
「自分に正義を持たない人間は、政に不向きだ。
 ……反対は出た。が、認めさせた」
 反対しそうな人物が賛成してくれたのだ。
 シュウ・ロシ。この国の太師にして、稀代の賭け事師。
 チョウリョウの豪族の長のひとりであり、先々代からの重鎮。
 何を思ったのか、彼は賛同した。
 親ほどの年齢の好々爺は、微笑んですらいた。
「黙らせたの間違いだろう?」
 千里がまぜっかえす。
「彼らの首はまだつながっている。
 十分だろう」
「邪魔にならないのか?」
「鳥陵を思ってのことだ。
 可愛いぐらいだよ」
 皇帝は心から言った。
「へー」
「私が彼らの立場なら反対していた。
 何も異民族にくれてやらなくっても、と思っただろう。
 それを差し引いたとしても、おべっか使いにやるにはもったいない、と思っただろう」
 異民族に権力が集中する。それは忌避すべきことだった。
 チョウチョウの宝は、チョウリョウのものだ。そんな意識もある。
 選民思想にもつながる民族の誇り。
 危険だが、同時に愛すべき性質だった。
「皇帝には利点があったのか?」
「ない。
 これから得られる日が来るかもしれないが、今は損が大きい」
「だったら、どうして?」
 青年の言葉に、ホウスウは手を休めた。
 奏上文を書卓に置く。
「千里には話してもいいか」
 声を落とした。
「秘密の話は大歓迎だな」
「私は十六夜をどこにもやる気はなかった」
 思ったよりも、すんなりと言葉は出てきた。
 誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
 誰かに言っておきたかったのかもしれない。
 懺悔だろうか。告解だろうか。
 赦して欲しいわけではないから、相手のいる独り言だろうか。
「ギョクカンの王は?」
「戻ってきただろう」
「織り込み済みってか」
 千里はニヤッと笑った。
「どこかに嫁がせろ、とは言われなくなる」
 手放した瞬間に後悔した。
 だから、取り戻そうとした。
 それすらも「運命」の一部だとしても、ホウスウは自分の意思で動いたのだ。
「なるほどね。
 そこまで愛している妹君をくれてやるわけだ。
 大司馬は短命かな?」
 青年は茶化すように言った。
 シ・ソウヨウが南城の主であったように、ギョウ・トウテツもまた才あって、北城の城主だった。
 戦場に立ちながら、政を知る必要性があった。
 だから、千里は笑みを深くした。
「誰にもやる気はなかった。
 ずっと手元に置いておくつもりだった」
 ホウスウは自分の気持ちに振り返る。
 それは記憶を辿るのにも似ている。

『お兄様、ありがとう!』
 赤茶色の瞳がきらきらと輝いていた。
 幸福できらきらと、宝石のように輝いていた。
『私は運命を見つけたのよ!』
 嬉しそうに告げた。

「運命というものは残酷だな」
 ホウスウは呟いた。
「チョウリョウの民お得意の『運命』か。
 皇帝陛下でも恋は止められないわけだ」
「そうだな」
「妹君には甘かった。って、世間の噂と差がないな」
「そんなものだろう」
 どこにもやるつもりがなかった。
 誰にもやるつもりがなかった。
 かわいい、かわいい……妹。
 赤茶色の髪と瞳。
 雲雀のように歌い、揚羽蝶のように舞う。
 ただ一人の、妹。
「かわいい妹だ。
 お願いされたら、望みのすべてを叶えたくなる」
 万難を排しても叶えたくなる。
 ホウスウは、ためいきをついた。
「本当に、妹君には甘いんだな。
 真冬に見上げる月のように無慈悲な南城の城主。
 それも過去のことか」
「あそこには、十六夜がいなかった。
 ……千里の言うとおり、過去のことだ」
「もう少し面白い話が聞けると思ってきたんだけどな。
 残念だ」
 青年は肩をすくめて、立ち上がる。
「期待に添えなくて、こちらも残念だよ」
 ホウスウは言った。
 明るい頭髪の青年は、部屋を出る二歩前で立ち止まった。
 ふいに何かを思い出したような調子で、振り返った。
「あ、結婚許可、ありがとうな。
 感謝してる」
 本来の用事はそちらだったのだろう。
 軽口を叩いていたときよりも、幸福そうだった。
「それぐらしかできない」
 ホウスウは言った。
「充分だって」
「千里に喜んでもらえて、私も嬉しいよ」
「それじゃあな」
 軽く手を振ってから、青年は駆けていく。
 ずいぶんと、相手を待たしているのだろう。
 その足音は軽い。
 ひとり部屋に残った皇帝は呟く。
「面白いような話がなくて、本当に残念だ」
 書卓に置かれた奏上文の文字は、ホウスウのものと大差ない。
 書き上げたばかりだ。と言えば誰も疑わない。
 良く似た文字。
 それ以外、特筆するべきところのない奏上文に問う。
「最初に嘘をついたのは誰だろうな」
 竹簡は沈黙を答えとした。
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