院子にて

 太陽が昇りたての院子は貸し切りだった。
 若き南城の城主は石畳を歩む。
 寒さも緩み「良い季節になった」と思う。
 甘い香りに包まれながら、ゆるりと散策を楽しむ。
 香りの元を探せば、花薔薇に辿りついた。
 鷲居城に咲く花薔薇と違い、四季咲きの花薔薇は薄紅色だった。
 ソウヨウは目を細める。
 朝露を宿したその花にそっとさわる。
 まるで極上の天鵞絨のような手ざわりがした。
 花薔薇は蓮緑から蒼鷹になって一番好きな花だった。
 視線を感じてソウヨウは振り返った。
 そこには花薔薇の花精のような乙女が立っていた。
 長い髪は結われておらず、そよと吹く風に揺れる。
 ホウチョウは真白な衣の上から、薄紅色の衣を肩にかけていた。
 この世で一番、美しい赤瑪瑙を磨いたような瞳が少年を見つめていた。
「おはようございます」
 心臓が高鳴り、声が震える。
「おはよう、シャオ」
 乙女は微笑んだ。
 それだけでソウヨウの心は満たされる。
 二度と会えないと思っていた。
 二度と話すことはないだろうと思っていた。
 自分以外の誰かと微笑みを交わすのだと思っていた。
 幻でも、夢でもなく、乙女は目の前にいる。
 幸福と言うのは、こういう瞬間なのだろうか。
 今、死んでもいいとさえ思った。
「シャオは早起きさんなのね」
 ゆっくりと歩きながら、ホウチョウは言った。
「日が昇りきるまでは自由な時間ですから」
「そうなの。
 城主は大変なのね」
 ホウチョウはソウヨウのすぐ隣まで近づいてきた。
 花薔薇のような甘い香りが鼻をくすぐる。
「鳳様に任されましたから」
「お兄様もだいぶ自分勝手よね」
「あの人はいつだって自分勝手でしたよ。
 一人で何でも決めて、誰にも相談しないで」
 十六歳で南城の城主を任された将軍は言った。
「そうね」
 ホウチョウは頷いた。
 長い髪が肩から流れ落ちる。
 ふれたい、と思う。
 でも、そんなことをしたら、この夢のような時間は終わってしまうだろう。
 だから少年は花薔薇の花弁をなでた。
「シャオ」
 乙女が小字を呼ぶ。
 十二歳のとき別れて以来、誰も呼ばなくなった名前だ。
 懐かしさのあまり、ソウヨウは微笑を浮かべる。
 ホウチョウに呼ばれるのは、好きだった。
 レンリューでもソウヨウでもなく、シャオと呼ばれるのが好きだった。
 再会をしても、それは変わらなかった。
 ホウチョウにシャオと呼ばれている間は、城主という身分も将軍という立場も忘れていられる。
 子ども時代に戻って、鷲居城で遊んでいた頃に帰る。
 そんな気がした。
 赤瑪瑙の瞳が見つめる。
「これからはずっと一緒にいましょうね」
 無垢な魂が言った。
 動乱の時代、剣を握って先陣を切る将軍には難しい注文だった。
 今まで、何度も約束を破ってきた。
 ほんの少し先の未来も約束はできない。
「はい、姫」
 ソウヨウは言った。
 嘘になってしまうかもしれない。
 それを知りながらも約束したのはソウヨウの願いだったからだ。
 ずっと一緒にいたい。
 花薔薇の香りよりも甘い約束だった。
 儚い口約束だ。
 やがてくる運命が二人を引き裂くだろう。
 抗う自信はなかった。
 乗り越える勇気はなかった。
 ソウヨウは自分の役割というものを知りすぎていた。
 便利な駒。
 皇帝であるホウスウが最愛の乙女を手放すとは思えなかった。
 ギョクカンを平らげた後、必ず呼び戻すだろう。
 分かりきっていた。
 けれども、今、この瞬間だけは自分だけのものだ。
 茶とも緑ともつかない瞳は、ホウチョウを見つめ返した。
「もう離れ離れになりたくないの」
 赤瑪瑙の瞳にかげりが落ちる。
「大丈夫です。
 ずっと一緒ですよ」
 ソウヨウは、できもしないことを言う。
 ホウチョウには笑顔が似合う。
 悲しい顔をして欲しくない。
 神など信じたことがないから、誰に祈ればいいのか分からない。
「本当?」
「はい」
「絶対?」
「はい」
 言葉を重ねる。
 次第にホウチョウの顔に笑顔が戻ってくる。
 それを見て、ソウヨウはホッとした。
 朝日に照らされたホウチョウは花薔薇の花精のようだった。
「もう時間切れかしら?」
 首をかしげる。
 東の空は明るい。
 今日も、天候に恵まれそうだった。
「そうですね」
「会えて良かったわ」
「私も姫に会えて幸運でした」
 ソウヨウは心から言った。
 部屋に戻れば、小言が待っているだろう。
 足取りも重くなりそうだったが、気分がいい。
 明日も、明後日も、ずっと先の未来も、こんな形で待っていればいいのにと思う。
 会えなかった時間の分だけ、傍にいたい。
 自分だけのものだと、独占したい。
 ホウチョウには不思議な魅力が詰まっていた。
「さよならは言わないわ。
 すぐ、また会えるもの」
 にっこりとホウチョウは笑った。
 それに釣られるように、ソウヨウも笑った。
 静かに太陽が二人の輪郭をなぞる。
 長い一日の始まりを告げていた。
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