ここにしかいない

 鳥陵皇帝の居城、鷲居城の後宮の一室。
 世話をする天官すらいない、警護する夏官もいない、食べ終わった昼餉を下げに来た侍女たちも、茶を淹れた後、退がっていった。
 完全に人払いをされた二人きりの空間の中にカイ・ゲッカはいた。
 皇帝として即位したフェイ・ホウスウの字を呼び捨てできる唯一の人物だ。
 王宮では、姓からとった号で海姫と呼ばれる。
 まだ成人年齢に達していないけれども、扱いだけなら後宮夫人であった。
 皇后を迎えていない皇帝の寵愛を一身に集める幼い少女だった。
 成人である十五を待って立后されるのではないか、と後宮の外であっても噂されている。
 それを知らぬ皇帝ではなかったが、その噂を肯定することもなく、否定することもなかった。
 だから、野放しになった噂は広がるばかりだった。



 昼餉を食べ終わって、お茶を飲んでいた時のことだった。
「鳳も食が細いね」
 ゲッカは口を開いた。
「誰と比べた?」
 不機嫌さを隠さずに、ホウスウは尋ねた。
 どうにもカイゲツ最後の総領が見つめ続けている男の影が過る。
 対面したのは一度きりだったが、話を聞けば聞くほど、その男の影響を少女の中から見つけてしまう。
 自分にはできなかったことだ。
 これから、先にもできないことだろう。
 皇帝として即位したものの、それほどの度量が己にはないことを見せつけさせるようだった。
 それが苛立たせる。
「……ごめんなさい」
 ゲッカは視線を落とす。
 虹彩も瞳も差異が見つからないような黒い双眸が卓を見つめ続ける。
「謝ってほしいかったわけじゃない。
 単純に興味があっただけだ」
 ホウスウは、ためいきをついた。
 八つ当たりもいいところだ。
 少女自身にはまったく非がない。
 ゲッカはパッと顔を上げる。
「この前、ファンとお茶したんだけど、全然お菓子に手をつけなかったから。
 エイハンの血を引くとそうなるのかなって?」
 ゲッカは思い出すように小首をかしげる。
 長い黒髪がさらりと流れた。
 それがなんとなく想い出に重なるようで、ホウスウには好ましく思えた。
 少女の午睡の時間にふれると、色こそ違えども、細い絹糸のようで心地良かった。
「ずいぶんと仲良くなったんだな」
 ホウスウは感心した。
「そうでもないよ。
 ファンはずっと怒ってっばかりいたし」
 ゲッカはお茶会の様子を思い出したのだろう。
 少女は憤慨していた。
 あの胡蝶のように気まぐれで、十六夜の月のように繊細な妹がお茶会に招くぐらいだ。
 だいぶ気に入られているようだ。
「ファンと呼ぶようになったではないか」
 ホウスウは言った。
「ボクが十六夜公主って呼ぶと訛りが酷くって、聞き苦しいからって」
 ゲッカはうなだれた。
「それでファンか。
 懐かしい音だな」
「鳳は呼んであげないの?」
 ゲッカは不思議そうに尋ねる。
「そう呼ばれて嬉しい歳でもあるまい。
 それに小字で呼んだことも一度もなかったな」
 ホウスウは過去の記憶を振り返る。
 妹の小字は正しくはファンファンだったが、それを呼ぶ者はほとんどいなかった。
 今は亡き父や兄は、胡蝶と呼んでいた。
 臣下たちも、それに合わせて胡蝶の君と呼んでいた。
 病に伏せがちな母は、私の可愛い花薔薇と呼んでいた。
 ホウスウが宴の席で何となしげに吟じた詩から、十六夜の綽名の方が通りが良くなってしまった。
 もちろんホウスウ自身が意味合いが気に入り、即位前から呼び続けた影響も大きかったのだろう。
 皇帝として即位した際、妹に十六夜を号として贈るのは当然の成り行きだった。
 ただ一つの例外があるとしたら、鳥陵が併呑したシキボの総領である絲一族の少年ぐらいだろう。
 一貫として『姫』と呼んでいた。
 小字でもなく、胡蝶の君でもなく、花薔薇でもなく、十六夜公主でもなく。
 ただ一つの宝物のように今でも『姫』と呼び続けているだろう。
「冷たくない?」
 ゲッカが尋ねる。
「そうだな。薄情だったな。
 もう昔の話だ」
 ホウスウは薄く笑みを浮かべる。
 南城の城主として対玉棺に備えてから妹と会うことはなくなった。
 妹が十三歳になった後は、南城から鷲居城に戻ってきても顔を見ないようにしてきた。
 即位して顔を合わせるまで、四年間。
 それだけの歳月を無駄に過ごしてきたのだ。
 可愛い妹として記憶にあるのは、ちょうど目の前の少女と同じ歳ぐらいだろうか。
「ファンの剣舞は鳳が教えてあげたんでしょ?」
 ゲッカは一切の欺瞞を許さないように、真っ直ぐにホウスウを見据える。
「必勝祈願には良いだろう。
 ただのあの白い手には……琴の方が良く似合う。
 尚武のクニに生まれたから、と剣を覚える必要なないだろう」
 ホウスウは言った。
 それは父も兄も同意見だったのだろう。
 最低限の護身術以外は、武芸と呼ばれるもの全般を教えなかった。
 馬術すら教えなかった。
「前線に立ってほしくないから?」
 鋭くゲッカは問う。
「……そうか。
 華月は私以上に前線に出ているのだったのだな」
 ホウスウは幼い少女を見やる。
 自分自身の初陣は遅く、十七歳の時だった。
 カイゲツ最後の総領の初陣は八歳の時だという。
 南城の城主として残してきた少年よりも、幼い頃から生命のやり取りをしていたということだろう。
 少女は亡き父の跡を継ぎ、それ以降ずっと戦場にいたのだ。
 鳥陵に投降するまでの間。
 今も扇術の稽古は止めてはいない。
「助けられない生命もあったよ。
 でも、一人でも救い上げたかった。
 総領だったら当然だよ」
 ゲッカはキッパリと言った。
「華月は強いな。
 私は、そこまで強くなれなかった」
 自虐的にホウスウは笑った。
「今は違うの?」
 稀有な黒い目が見つめてくる。
 まるで、心の内を見透かすように。
「どうだろうな」
「鳳だって前線に立ったことがあるのでしょ?」
「その時は父上も兄上もいらっしゃった。
 もうどちらもいない」
 ホウスウは言った。
 剣を握るのはあまり好きではない。
 自分が死なない程度に動ければ良かった。
 実際のところ、軍神と称えられた兄の剣技の前では己の剣技など子どもの遊びみたいなものだった。
 三つしか離れていなかったはずなのに。
 ホウスウは、棋のように人の生命を使った遊戯の方が得意だった。
 それすら兄が気に入っていた『榻(長椅子)の参謀』と二つ名で呼ばれた習家の嫡男の伯夜に負けていた。
「……寂しいね」
 ゲッカはポツリと言った。
「代償というものだ。
 それに皇帝というのは孤高な存在だ。
 この国の親になったのだからな。
 民はみな子どもだ」
 ホウスウは『礼然』を引き合いに出す。
「孤独を背負って一人で過ごすの?
 早く皇后をもらいなよ。
 鳥陵の民は一生に一度の『運命』の『恋』をするんでしょ。
 鴛鴦みたいに一生涯の『運命』に出会うんでしょ。
 そうしたら嬉しいのは二倍になって、悲しいのは半分になるよ」
 ゲッカは哀しそうに笑った。
 それがあまりに危うくて、歳よりも大人びて見えた。
 きっとカイゲツ最後の宰相である、海月郡最初の太守を思い出したのだろう。
 全幅な信頼だった。
 今の少女を作り上げた自分と同じ歳の男だ。
 親の代わりに惜しみない愛情を与えて、幼い総領が施政であっても、戦場であっても、立ち止まらないように、厳しく教え諭してきたのだろう。
 たとえ自分が先に死んでも平気なように。
 遺していく覚悟があったのだろう。
 殉ずる覚悟が決まっていたのだろう。
 幼い総領を守るためなら、生命すら惜しくはない。
 それほどの『愛』だった。
 賢君が残していった『礼然』の基本中の基本の『仁』であった。
 鳥陵の民が味わうという『運命』以上に重くて深い絆だった。
 ホウスウが同じ立場でも、できることではない。と断言できてしまう。
 自分自身の心を制して、粉骨砕身の忠義を示せることはできなかっただろう。
「今は華月がいる。
 寂しくはないよ」
 ホウスウは微笑んだ。
 太平の世を望んだのは偽りではなかった。
 それを果たすのは父か兄の役割だと思っていた。
 気楽な次男坊として、平和の中で好きなだけ琴を弾いて、のんびりと漢詩を作って、愛する乙女を妻に迎え、時には父や兄の内政を諫言して、悠々自適に過ごす。
 そんな未来を描いていた。
 所詮、夢のような儚い未来だった。
「そうは見えないんだけど」
 ゲッカは言った。
「そういうことにしておいてくれ」
 ホウスウは言い聞かせるように微かに笑った。
 別々の方向を見ていたとしても、二人はここにしかいないのだから。
 寂しさの連鎖だった。
 どちらもここにはない夢の身代わりにしている。
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