立ち去る春の宵

 リュウエイには姓はない。
 それどころからリュウエイという名も真字も神殿の斎姫が決めたのだ。
 赤子の頃、神殿前に捨てられた。
 それを斎姫が拾い上げた。
 それだけがリュウエイの全てであり、神殿にいられた理由だった。


   ◇◆◇◆◇


 リュウエイには幼い頃から見続けている夢があった。
 花ではない甘い香り。
 痛み止めの草の香り。
 薄暗い夜の室内。
 男というものは夜に忍び込んでくるもの。
 斎姫として神殿に迎えられたリュウエイと言えども、貴人に求められたら応じなければならない。
 このクニの女というものは財産でしか過ぎない。
 その後、捨てられたとしても、文句の一つも許されていない。
 記憶にない両親がリュウエイを捨て去ったように。
 子どもでも孕んで、男の家に引き取られたら御の字だろう。
 利用価値があって生きながらえていくだけだった。
 一つ歳を重ねる度に。
 一夜、時が流れていく度に。
 ぼんやりとしていた夢は、どんどん詳しくなっていく。
 まるで皇帝のお側に仕えるような典雅な発音で、聞き慣れない名前でリュウエイを呼ぶ。
 大人になってからつけられる名前だろうか。
 不思議に思いながらリュウエイは夢を見続けてる。

「月が綺麗だったんだ。
 君の髪のように」

 輪郭がおぼろげな、歳上の男性だと思われる人物は言った。
 リュウエイにとって、どこか違和感のある言葉だった。
 『恋』を告げる言葉だったが、不自然だ。
 綺麗だから綺麗だ、と言った。
 その程度の軽さだった。
 口説いているようには思えなかった。
 たとえ一夜の『恋』だとしても、もう少し情熱的に言うものではないのだろうか。
 それが情けというものだろう。

「泣かないで欲しい。
 こんな怪我はすぐに治る」

 おぼろげな男性は言った。
 ……自分は泣いているのだ。
 この薄暗い室内は怪我人のための部屋だ。
 それなのに輪郭があやふやな男性は、微笑んでいるようだった。
 泣いているリュウエイにふれようとしない。
 手すら伸ばさない。
 まるでリュウエイの気持ちを尊重するように。
 ……これは夢ではない。
 確実に訪れる未来だ。
 幼いリュウエイは詳しくなっていく夢に怯えた。

「今まで怪我ひとつしなかったじゃない!」

 夢の中のリュウエイは、はしたなく声を荒げた。
 神殿でやったら大問題になりそうな大声だった。
 怪我人に対する態度ではない。

「たまたま運が良かっただけだ。
 それに自分のために泣いてくれる人がいるのは、得難いな」

 家族に縁が薄いのだろうか。
 よく分からないものの、慣れた調子で言うのが切なかった。
 自分の無力さを思い知らされたような気がする。
 未来を見ることができる斎姫だというのに。
 これは……自分に対する夢なのだろうか。
 まるで『恋』をしているようだった。
 幼いリュウエイには遠すぎる感情だった。


   ◇◆◇◆◇


 姓すら持たないリュウエイは、その後も未来を見続けた。
 それはどれも的確だった。
 エイハンのクニの王が認めなければならないほどの能力だった。
 やがて、リュウエイは側仕えをすることが決まった。
 エイハン王の娘に。
 少し年上の斎姫でもある少女に。
 その侍女となった。
 本名で呼ぶのは穢れに当たるだろうと与えられた名前は水花。
 蓮の異名であり、君子のための花だ。
 夢で、男性が呼んだ通りの……名前だった。
 時間はゆっくりとだが、確実に流れていく。
 リュウエイは一つの夢を見た。
 主として仕える麗しい少女について南の大地に向かう、というものだった。
 許されざる『恋』だった。
 主は、やがて異母兄に嫁いで、子を成すはずだった。

 エイハンを裏切る。

 死罪に問われてもおかしくない未来だった。
 だが麗しい主がとても嬉しそうに「運命に出会ったの」と告げてきたのだ。
 それで、リュウエイの腹は決まった。
 どうせ血縁なんて持っていない。
 斎姫として、利用価値のある存在でしか過ぎない。
 夢に従う、とリュウエイは決めたのだ。
 駆け落ちを手伝う。
 周到な準備が必要だろう。
 主である姫様は半分、夢の中なのだから。
 小柄で幼い少女は、誰にも悟られずに入念な計画を立てた。
 どうすればいいのかは全部、夢が教えてくれた。
 リュウエイは斎姫としての才能に感謝した。
 夢と現実がぴたりと重なった日。
 月のない夜だった。
 あの夢でしか出会ったことのない男性は、こんな時でも『綺麗な月だった』というのだろうか。
 馬鹿みたいに。


   ◇◆◇◆◇


 時間は流れるものだと思っていた。
 ちょうど花びらが水に流れるように。
 パッと咲いて、散るようなものだと思っていた。
 異郷に来たというのに、夢は続く。
 いくつかは仕える姫様とその夫君に役に立ったようだ。
 戦ばかりの血なまぐさいものではあったけれども、幸いなことにリュウエイは慣れていた。
 自分のための夢は穏やかなものだった。
 背の高い青年らしい。
 いつでも小柄なリュウエイは見上げていた。
 あるいは東屋で甘いお菓子を食べながら、お茶を飲んでいた。
 エイハンではありえないぐらいの贅沢をしていた。
 夢は少しずつ、現実に重なっていく。
 エイハンを出た時には子どもだったリュウエイも成人した。
 初めて見て、いまだに見続けている、リュウエイだけの夢。
 その夢の中に出てくる男性が誰かなんて、一目でわかったのに、認めたくなかった。
 『恋』なんてしたことを。
 馬鹿な青年に。
 鈍感で、おせっかいで、誠実で。
 天から何でも与えられているように見えて不器用な青年に。
 その頃、リュウエイは残酷な夢を見た。
 春の、……桃が咲く頃だ。
 病が大流行して、大陸中が動乱になる。
 南の地ではさほど被害は出ない。
 尚武のクニだ。
 健康な人間が多い。
 体の作りが根本的に違うのだ。
 その病の中、姫様の大切な子が傷つく。
 その子の幼なじみや、友人と呼んでもいいような子たちも亡くなる。
 ……リュウエイ自身も生命を落す。
 これは眠っている間に見る夢だ。
 斎姫が見た夢ではない。
 戦が続くから、不安から見た夢だ。
 この気持ちは『恋』ではない。
 一生、姫様に仕えていくのだ。
 独り身を貫くのだ。
 きっと青年の隣には、この地に多い癖を持つ黒髪で茶色の瞳を持った健康的で、華やかで、嫋やかな美人がいるだろう。
 リュウエイのような貧しくて、後見を持たない、姓すらない捨て子で、礼儀作法も知らないガサツな小娘でなくてもいいはずだ。


   ◇◆◇◆◇


 青年の親類が『斎姫として夢を見て欲しい』と言ってきたのは冬の近い秋のこと。
 綾羅と言えば美しい。錦繍と言えば華やかだ。
 まるで血のような、燃えるような『恋』の色をしている葉が落ちようとしていた。
 このクニの地盤でもある血の直系が途絶えることを不安に思っているのだろう。
 それとも異民族の小娘に気をかけているのが心配なのだろうか。
 嫌になるぐらいに筋書き通りの夢だった。
 だから、リュウエイは知っていることを話した。
 斎姫として求められている、その真実を。


   ◇◆◇◆◇


 鳥の名を持つ者たちが見る夢は必ず叶うでしょう。
 それを翼家の当主殿は一番身近で見ることになるでしょう。
 人臣の極めにつき、賢帝に仕えることになるでしょう。
 誰も彼もが惜しみながら、多くの愛に囲まれて、眠るように息を引き取るでしょう。
 争いのない世界の中で。


   ◇◆◇◆◇


 リュウエイは嘘をつかなかった。
 隠し事はしたものの。
 『運命』というものを歪めたくなったのかもしれない。
 斎姫としてはあるまじきことだった。
 そして、戦が一段落する冬がきた――。
 リュウエイの元に、血相を変えたエンジャクがやってきた。
「勝ち戦だったのしょう?
 まるで幽鬼にとりつかれたようね」
 リュウエイはクスクスと笑った。
「叔父上たちに何を話したんだ?」
 エンジャクはリュウエイの肩をつかみ、詰問をする。
「斎姫として鴻鵠の未来を話しただけよ」
 本当に背の高い青年だ。
 幼かったから、大人の男性なんてそんなものだろうと思っていたけれども。
 リュウエイがあまり背が伸びなかったのが原因だろう。
 首が痛くなるぐらいに見上げなければならない。
「それだけか?」
「ええ、もちろん。
 私の見た未来に不満でもあったのかしら?
 嘘をついてはいないわよ」
 リュウエイは堂々と言った。

「私が愛しているのは水花だけだ」

 エンジャクは言った。
 誰もが通るような回廊で。
 城の中で。
 さすがに近くを通っていた供人たちも驚いているようだった。
「鴻鵠、口説いているようには見えないのだけれども。
 いくらチョウリョウの民でも、もう少し華美な言葉でささやくものだと思っていたのだけれど?
 まるで私を殺しそうな勢いだわ」
 リュウエイは唇に微笑みを乗せた。
「君の心が手に入らないのなら、この場で殺したいぐらいだ。
 そうしたら、他の男のものにならないだろう?」
 エンジャクは真剣に言った。
 変に着飾ったりはしない。
 愚かしいほどの愛の言葉だった。
 リュウエイは、この場で殺された方が幸せなような気がする。
 そう思ったが笑みを深くする。
「こんなところで話すことではない、と私は思うわ。
 天下一の柿が実る庭がある小さな屋敷があるのでしょう?
 季節外れで食べられないのが残念だけれど。
 どんな味かしら?」
「……どこで、それを」
「私を連れて行ってくれるのかしら?
 翼家の当主様は?」
 リュウエイは無邪気さを装って尋ねた。
 きっとその庭では、綺麗な月が見えるだろう。
 舞台は整いすぎるぐらいに整った。
 『運命』に殉ずる覚悟は決まった――。
 初めて見た夢を現実にする。


   ◇◆◇◆◇


 気の早い花が咲いていた。
 蝋梅だろうか。白梅だろうか。
 リュウエイは小さな屋敷の院子で月を見上げた。
「返事がききたい」
 エンジャクは言った。
「私は嘘をつかなかったけれども、隠し事はしたわ。
 私が斎姫に選ばれた、とっておきの秘密よ。
 今まで誰も話したことがない未来。
 エイハン王にも、姫様にも、神殿にいた人々すら知らない、私だけの未来。
 物心がつく前から見続けていたの。
 だからこそ、その未来を変えてみたくなったの。
 ……返事になったかしら?」
 リュウエイは振り向いて、エンジャクを見上げた。
「本当にエンジャクはお馬鹿さんね。
 夜更けに、独身の男性の屋敷に上げてくれ、って頼む娘って早々いないと思うんだけど?
 真字で呼んだら気がつくのかしら?」
 リュウエイは小首をかしげる。
 明るい月の下だからこそ、この地に多い茶色の瞳が目立つのだろうか。
 自分の虹藍色とは違う。
 本当にかけ離れている。
「あなたは多くの愛に囲まれて眠るように天へと召される。
 偽りじゃないわ。
 翼家がなくなることもない。
 むしろ、これから先も重きを置かれるわ。
 ただ少々、奇妙な家にされるでしょうね。
 この屋敷に住む者は、この地にはない瞳の色をしているもの。
 ……そして翼家の直系は、あなたの代で途絶えるの。
 嫌でしょう?
 そんな事を愛する男性に教えるのは。
 確実に訪れる未来だとしても」
 リュウエイは微苦笑をした。
 『運命』に抗おうとしても無駄なのだ。
 斎姫は夢という形で未来を見てしまうのだから。
 しかも、リュウエイがリュウエイとして生を繋いでいくために、見つめ続けてきた未来であり、苦々しい結末だった。
「養子をとればいいだけだろう?
 別段、珍しいことではない。
 水花の真字が知りたい」
 エンジャクは言った。
 本当に夢に見たままだった。
 現実が追いついた。
 ならば一生、黙っておくしかないだろう。
 麗しい花たちが咲きそろう季節。
 桃が咲く頃だ。
 何度、リュウエイはこの小さな屋敷で目にすることができるだろう。
「そうね。
 教えてもかまわないけど、今夜の月の感想を聞きたいわ」
 リュウエイは泣きそうになるのを堪えて尋ねた。
 意味のない問いかけだった。
 遠い異郷の文化など知らないだろう。
 ただの自己満足だ。
 それでもリュウエイは聴いておきたかった。
「むしろ、月が出る夜のごとに、鴻鵠の口から聴かせてちょうだい。
 そうしたら、チョウリョウの民で言うところの生涯ただ一つの『恋』だと誓いを立てるわ」
 慰めにもならない言葉の積み重ね。
 声が震えないように気をつけながら。
 微笑みを絶やさないように気をつけながら。
 リュウエイは景色の一つになる。
 夢を見るような美しい春の象徴として。
 想い出の中では幸せであって欲しい。
 それだけしかリュウエイは残していけないのだから。
「とても綺麗だと思う。
 でも、それ以上に水花の方が綺麗だ」
 馬鹿な男は、こんな時まで馬鹿らしい。
 それでもリュウエイにとっては充分な答えだった。
「男性の方から真字を手の平に書くのでしょう?
 名を交わす時の作法だ、と訊いたのだけれども」
 リュウエイは手の平を差し出した。
「ああ、そうだな」
 エンジャクは頷いた。
 指先が名を綴る。
 知っていた未来だったけれども、リュウエイの鼓動は自然と早くなる。
 知っていた字の並びだったけれども、新鮮だった。
 くすぐったい感じがしたけれども、リュウエイは字を見続けた。
 『燕雀』という真字を。
「これでエンジャクと読む」
 顔を上げたエンジャクは嬉しそうに笑った。
 それから、リュウエイに手を差し出した。
 肉刺だらけの大きな手の平だった。
 血を知っている。
 生命を救い続ける。
 痛みが刻み込まれている手だった。
 戦場を知らないリュウエイとは違う。
 未来を見ても、夢のように曖昧なものだ。
 あたたかさも、鼓動も、銅鑼の音も、最期の叫びを知らない。
 緊張しながらリュウエイも真字を書いた。
 『流詠』と。
「これでリュウエイと読むの。
 あなたと一緒なら月はもっと綺麗に見えるものね」
 リュウエイはエイハン流の答えを返した。
 財産扱いされるエイハンの娘は『月が綺麗ですね』と問われても答えない。
 一夜の慰めに『愛している』と言われても虚しいだけだからだ。
 例外があるとしたら、意中の相手に問われた時。
 いくつかの決まり事があった。
 チョウリョウの民が生涯ひとつの『恋』だと名を交わす時のように。
 その中でもリュウエイが選んだのは『自分もあなたと同じ気持ちです』という意味だった。
 いつも見ている月でも、あなたと一緒だとより綺麗に見える。
 『特別』だということだ。
 最後の手紙には書いておこう。
 きっと鈍い青年が気がつくはずもないのだから。
「このまま私は、あなたの物になるのかしら?」
 リュウエイは意地悪く問う。
「そういうのは、きちんと式を挙げてからだろう」
 大真面目に青年は言った。
 チョウリョウの民らしい発言だった。
「あら、名を交わしたのだから夫婦になったのでしょう?
 さすがに翼家の当主が駆け落ちしたら、大騒動になるから、周囲は折れるわね。
 説得しまわるエンジャクが見られるなんて、面白そうね。
 最高の見物だわ」
 リュウエイは朗らかに笑った。
「水花」
 たしなめるようにエンジャクは言った。
「せっかく真字を教えてあげたのよ。
 二人きりの時は、そちらを呼んでちょうだい。
 さすがに城の中では、侍女名で呼ばなきゃいけないでしょうけど」
 リュウエイは言った。
 そう何度も呼ばれる名前ではないだろう。
 水花という侍女名ですら、怪しい。
 未来は決まり切っているのだから。
 手放す気はなくなった。
 残りの人生を、神様が描いた筋書き通りに生きていく。
 できるだけ幸せな想い出を増やしていくのが、リュウエイが自ら選んだ未来だ。
「流詠。ずっと傍にいて欲しい」
 エンジャクが途惑いながら呼ぶ。
「私が死ぬまであなたの物よ、燕雀。
 いえ、死んだとしても、魂になったとしても、あなただけの物」
 リュウエイは『幸せだ』と感じながら告げた。
 多くの犠牲を生みながら、鳥たちの見た夢は叶う。
 そのための一歩だ。
 みなが犠牲になる過去の夢だ。
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