チュウダツ

「ボクは大丈夫だから」
 その声が耳について離れない。
 子どもらしい高く澄んだ声。
 平坦で抑揚すらない、価値のない声。
 それが囚えて、己を放さない。
「これからもみんなを守ってね」
 努めて明るく、努めて朗らかに。
 何でもないことのように言う。
 黒い瞳が自分を見つめる。
 月を喪った夜空とは、このような色をしているのだろうか。
 長い睫毛がわなないているのが確認できるほど近くにいるというのに、慰めの言葉一つ言えずに立ちすくんでいる。
 泣くのをこらえて笑う少女を抱きしめてやることすらできずに、一体何にすくんでいるというのか。
「ボクは大丈夫だよ。
 そりゃあ、心配なのはわかるよ。
 ボクは常識知らずだし、そそっかしいし。
 だけどさ、もう少し信頼してくれても良いと思うんだ」
 少女は少しばかり怒った表情を浮かべる。
 それは仮初めのものであることは、一目でわかる。
 わかってしまう。
 それだけ、一緒にいたのだ。
 自分は一体に何に恐れて、すくんでいるのだ?
 簡単なことだろうに。
 別れの言葉をかけて、その小さな背を叩いてやれば良い。
 それだけだ。
 それだけが、できない。
 内心の葛藤をよそに、時間は過ぎていく。
「じゃあね」
 少女は嬉しげに微笑み続きを言った。

「月華!」

 男は己の声で目を覚ました。
 この地方で最も多い色である鉄色の瞳を開いていた。
 天蓋なんて洒落たもののない寝台である。すぐさま天井が目に入る。十年間見続けた、見慣れた天井だ。
「夢か……」
 男は呟いた。
 あれは夢ではなかったことも同時に確認する。
 何度も繰り返すのは、過去の情景。
 確かに起こってしまった過去を、繰り返し夢に見る。
 一切の変容もなく、そのまま。
 己の記憶力の良さを恨むばかりだ。
 着ていた衣の柄まで、絵に描いて見せることができるほど詳細に覚えていた。
 後悔、しているのだろう。
 自分は後悔している。
 せめて、名の一つでも呼んでやれればよかった……と。
 どうして、その手を離してしまったのか……と。
 だが、過去は変えられない。
 夢の中ですら、変わってはくれないのだ。
 ならば、進むのみ。
 あのときの決断が間違いではなかったと知らしめるために、未来に向って進むだけである。

『沖達』

 夢の中の少女の声がささやく。
 男は顔を歪めた。



 建平二年 晩秋

 海月太守――姓は海。名は朗達。字は沖達――は、シキョ城に登城した。
 皇帝から直々のお言葉がけがあると、内宮まで通される。
 内宮……しかも、そこは後宮である。
 妙に閑散とした一角を通り抜ける。
 鈍い青の布がかかった部屋の前で案内役の下官は頭を下げ、無言で退がった。
 人払いのすんだ部屋で皇帝はくつろいでいた。
 身分につりあわない簡略な装いで、敷物の上に腰を下ろしていた。
 敷物の上には細々としたものが散乱していた。
 おはじきに、花薔薇、綺麗な色のはぎれに、精巧にできた手の平大の調度。
 皇帝の手には子どもが喜びそうな人形がある。
 そして、その皇帝の傍でちょこんと座っている……少女。
 人の気配に気がつき艶々とした黒髪が振り返る。
 黒い双眸がロウタツを見た。
 夢の中の少女とは違う。
 歳月は確かに積み重ねられていくものであるから。
 会えなかったのはたったの十七ヶ月。
 それだけの時間しかたっていない。
 しかし、少女は成長する。
 子どもにしか見えなかった姿から、歳相応の姿に。
 匂い立つ色香はまだないが、いずれ大輪の華になることはわかる蕾。
「沖達」
 少女は呟いた。
 ロウタツはドキリとした。
 高いだけのキンキン声が、いくぶんかしっとりとした響きに変化していた。
「驚いたか?」
 皇帝が優しげに問う。
 素直に少女はうなずく。
 冷徹無比の皇帝と近隣で鳴り響いている人物と同一人物に見えないほど、皇帝は柔らかく微笑んだ。
「それは重畳」
「鳳は驚かせるのが上手だね」
 あどけない少女の言葉。
 二人の間には親しげな者同士の打ち解けた空気が存在した。
 ロウタツだけが蚊帳の外。
 少女が絶大な信頼を寄せて見上げる相手は、自分であったはずだ。
 それが二年にも満たない歳月で、変わってしまったのだ。
「少し、彼と話がある」
 皇帝の言葉に、少女はニコッと笑う。
 辺りに散らばるものを螺鈿の箱に収めると、パタパタと席を外した。
「急に呼び立ててすまなかった」
 同じ歳の男は余裕の笑みを浮かべる。
「いえ。
 お言葉がけに臣は、心から感動しております」
 ロウタツは膝を折り、平伏する。
 こうして頭を垂れるのは、何度目だろうか。
 他人に頭を下げるのは苦痛ではない。
 ただ、何度目だろうかと思考を巡らせるだけだ。
 頭を下げた分、救われたもの、守られたものがある。
「私は礼儀が嫌いだ。
 形ばかりのものは、いずれ瓦解する。
 人払いはすませてある。
 顔を上げてくれ」
 皇帝は言った。
「ですが」
「そういうのが嫌いなんだ。
 わかるだろう?
 侮られながら、頭を下げられる。
 それぐらいなら剣の切っ先を突きつけられるほうがましだ。
 話がわかる人間だと思っているのだが、違うか?」
 皇帝は言う。
 ロウタツは顔を上げた。
 嘲るような笑い顔があった。
 これが鳥陵の、この国の皇帝の尊顔だ。
「呼び出したのは他でもない。
 兵を貸して欲しいのだ」
「それでしたら、いくらでも。
 海月は主上のものです」
「ああ、知っている。
 私の欲しいのは一騎当千の兵だ」
「一騎当千とは……。
 我が領地に、そんな剛の者がいるようには」
 ロウタツは微かに笑う。
 独立意識の強い土地柄だけに、女こどもでも武器を握る。しかし、一騎当千というと話は変わる。職業軍人でも一戦場では五十が精々、百も斬れば伝説の英雄である。
「いるだろう?
 明晰な頭脳と天下に並ぶ者無しと誉れの高い武を持つ者が」
「はあ」
 ロウタツの脳裏に幾人かの名前が挙がる。
 優秀な武将たちだが、皇帝の望むような人物ではない。
 一騎当千は、高すぎる要求水準だった。
「私は貴殿に出兵を依頼しているのだよ」
 皇帝は笑った。
「命令の誤りでは?」
 ロウタツは切り返した。
「無理やりではかわいそうだろう?
 私が言い訳ができない」
 誰に? とは問わなかった。
「褒賞はそれなりのものを考えておいてやろう」
 皇帝は機嫌良く言った。
 どこにも選択肢はなかった。
「かしこまりました」
 ロウタツは頭を垂れた。
 そうするしかなかったのだ。



 戦は勝ち戦。
 三度の訪問。
 この城には良い思い出がない、ロウタツはそう思った。
 足取り重く、海姫の待つ部屋に向う。
 面会の許しが出たのだ。
 言葉を交わすのは、久しぶりだ。
 人質として差し出したその前の晩に交わしたきり。
 あの、夢で繰り返される過去以来だった。
 これが褒賞ではなかった。
 これが褒賞であったら、嬉しかった。
 ロウタツに与えられた褒賞は、この都の女性を好きに選ぶことのできる権利であった。
 つまりは縁談である。
 海月を鳥陵は飲み込もうとしている。
 太守の自分が鳥陵の娘と結婚すれば、民の絶望は重いものになるであろう。
 だが、穏便に断る理由は見つからなかった。
 受けるしかない。
 この城にまつわる決断は、選択肢がない。と、ロウタツは思う。
 絶対にないわけではない。
 ロウタツ自身に限ってしまえば、断ってもかまわないのだ。
 どこで行っても、上手く暮らしていく自信はある。
 あの小さな領地のことなど忘れて、逃げてしまえばよかったのだ。
 ……あの時も!
 だが、そうすることはできなかった。

『みんなを守って』

 呪縛のように巡る言葉。
 彼女の望みを叶えずにいられないほど、囚われてしまった。
 不安げに揺れる夜の海の色。
 自分を見つめる瞳に。



 明るく雰囲気の良い部屋に、ロウタツは足を踏み入れた。
 人の暮らす匂いがない部屋だ。
 二人が会うために急遽用意された部屋なのだろうか。
 飾り立ててあるものの、どこかよそよそしい。
「沖達!」
 快活な声が呼ぶ。
「お久しぶりです、華月様」
 ロウタツは字の方を呼ぶ。
 『名守り』として、真字を呼ぶ権利は与えられているものの呼んだ試しは一度もない。
「沖達は変わらないな」
 少女は頬を上気させ、ロウタツの目の前でニコニコとする。
「おかげさまで」
 ロウタツは言った。
「そういう時は笑って言うもんだぞ。
 ホントに、沖達は変わらないや」
 満面の笑みで華月は言う。
 言葉遣いも仕草も、二年前と変わらない。
 それでも違って見えるのは、どういうことだろうか。
 とても少女が遠く見える。
 手の届かない場所に行ってしまったような気がする。
「沖達、自ら戦争に行ったんだって?
 弱っちぃのに、何考えているの?
 沖達は体力がないんだから、本陣で参謀やってなきゃダメだよ!」
 海月がまだクニであった頃、繰り返し言われた言葉だった。
「戦争はもう終わりました。
 人々がいがみ合うことはもうありません。
 鳥陵の名の下に、大地は治まったのです」
 ロウタツは言った。
 あの時、武器を取ったのはクニを守るためだった。
 天下の覇権を争う気はなかった。
 ただ、あの小さな平和を守れればよかった。
「うん」
 華月は嬉しそうに笑う。
 この笑顔が守れればよかったのだ。
「みんな元気にしてる?」
「はい」
 ロウタツはうなずいた。
 領地内にはいざこざがなく、平和である。
「そう、良かったぁ!」
 華月は笑おうとして、失敗した。
 表情が声を裏切った。
「……華月様?」
 ロウタツの袖を華月は掴む。
 顔を伏せ、呟く。
「ボク、みんなに会いたい」
 絞り出された悲痛な声。
 ロウタツはギクッとした。
「ボク……。
 帰りたいよぉ」
 華月は言った。
 ロウタツの袖が濡れる。
 ポタポタと透明な雫が、袖を濡らす。
「ここのみんなはとても良くしてくれる。
 でも……ボク。
 沖達と一緒に帰りたい」
 涙でにじむ声。
 震える小さな肩。
 二年前の彼女は泣かなかった。
 二年前の自分は何一つできなかった。
 だが、今は二年前ではない。
 ロウタツは小さな体を抱きしめた。
 折れそうなほどに細い体だ。
 夢の続きだ。
 あの時できなかったことを果たせた。
 ロウタツは満足げに息を吐き出した。
「私と共に帰りましょう。
 何とかしてみせます」
 ロウタツは断言した。
 泣き濡れた瞳が見上げる。
「お任せください」
 その言葉に華月はうなずいた。



 二人の婚約が整ったのはそれから間もなくのことだった。
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