カゲツ

 重い沈黙が流れた。
 彼は言わなかった。
 このクニのために、犠牲になって欲しい……とは。
 決して言わなかった。

『戦う準備と覚悟はできています』

 そう言った。
 涙が出るほど嬉しかった。
 彼は、沖達はこのクニの宰相。
 子どものゲッカの代わりにクニを治めている大人。
 このクニのことを一番良く知っている人物だった。
 今、このクニは重要な決断を迫られていた。
 チョウリョウに降るか、それとも最後まで抗戦するか。
 わかっているのは、確実にこのクニが負けること。
 国力に差がありすぎる。
 戦ったら、民のほとんどが失われるだろう。
 そして、沖達は罪を問われるだろう。
 鉄色の瞳に宿るのは、命を捨てる覚悟だ。
 そのことがたまらなく嬉しかった。
「チョウリョウに降伏しよう」
 ゲッカは笑顔で言った。
 失うわけにはいかない。
 自分一人が犠牲になるだけですむなら、安いものだ。
 このクニは小さなクニだった。
 領地に住むみんなが顔見知りだ。
 誰一人傷ついて欲しくはなかった。
 もう、十分だった。
「華月様。
 私たちにも誇りと言うものがございます」
「わかってる!
 ありがとう、気持ちは嬉しい。
 でもね、ボクはこうした方が良いと思うんだよ。
 血を流してまでも守りたいものなんて、持たない方が良いよ」
 ゲッカは笑う。
 自分を守るために、誰かが傷つく。
 それを「平気」にするのは、嫌だった。
 たくさんの死を築いて、守られて、それで残るのは自分一人だ。
 民を失った総領に、どれほどの価値があるというのだろうか。
 そんなものに自分は、なりたくない。
「ありがとう、沖達」

   ◇◆◇◆◇

 揺すり起こされて、ゲッカは目を覚ます。
「大丈夫か?」
 極上な弦楽器の音色も敵わない美声が耳をくすぐる。
 とても綺麗で、哀愁を帯びた声。
 故郷では珍しかった楽器と同じ色がする。
 ゲッカは身を起こした。
 すっかり眠ってしまったようだった。
 黒く大きな瞳は、素早く周囲を確認する。
 身についてしまった癖は、なかなか抜けない。
 ここは戦火から遠いというのに。
「起こしてすまなかったな」
 寝乱れたゲッカの黒髪を男は優しく直す。
「ううん、大丈夫。
 懐かしい夢を見ただけだから」
 ゲッカは笑って、男の膝に頭を乗せる。
「ならば良いが……」
 優しい手がゲッカの頭を撫でる。
 とても気持ちよくて、瞼が重くなってしまう。
「一番好きな人が夢に出てきたから嬉しい」
 また夢を見たい。
 悲しい記憶の再現だとしても、かまわない。
 会えるのなら、それでもいい。
「沖達……か」
 不機嫌に男は確認する。
「うん」
 ゲッカはうなずいた。
「そんなに良い男か?」
「うん」
「私よりも?」
「うん」
「……複雑な気分だ」
「ボクの一番は、沖達なのは仕方がないんだよ。
 沖達はボクの名を知ってるんだから。
 鳳だって諦めてくれなきゃ」
 ゲッカは男を見た。
 時の皇帝、ホウスウは笑む。
 大好きな宰相の沖達と同じ歳の男。
 海月が降った先の総領。
 何かもかも違うのに、よく似ていると思う。
 沖達と皇帝は、兄弟のように似ている。
 諦めきれない何かを抱え、運命の前で立ち尽くす姿が。
 その背中に漂う痛みが似ている。
 国を導く役目を持つ者は、誰でも同じようなものを持っているのかもしれない。
「そんなに沖達が好きなのか?」
「うん、大好きだよ!」
「じゃあ、沖達の下へ帰るか?」
「え?」
 優しい問いかけにゲッカは驚く。
 体を起こして、皇帝を見た。
 嵐にたとえられる灰色みの強い双眸は、穏やかだった。
「帰りたいのだろう?」
 優しい手はゲッカを難なく抱き寄せる。
 他人の体温は、居心地が良い。
 一人ぼっちだということを忘れさせてくれる。
「でも……。
 迷惑でしょ?」
 ゲッカは唇をかむ。
 これ以上の迷惑はかけられない。
 たくさん迷惑をかけたのだ。
「さあ、どうだろう?
 私は沖達ではないから、沖達の気持ちはわからない」
「……いい。
 ボクはここで暮らす」
「一生、私の傍で?」
「それじゃあ、鳳の奥さんに迷惑だよ」
「幸いなことにまだ私は独身だ」
 ゲッカは言外の意味を汲み取る。
 灰色の瞳が少女を優しく見つめる。
 そうなったら、とても素敵なことだと思う。
 でも、そうならないことを直感的に知っている。
「ダメだよ。
 鳳は好きな人がいるんだもん。
 ボクは正妻じゃなきゃ嫌だよ」
「では立后しようか?」
「思いつきだけで喋るのって良くないと思うよ。
 鳳は後で絶対後悔するよ。
 好い加減、ボクで遊ぶのやめて欲しいよぉ」
「華月は面白いからな」
 皇帝は笑う。
 ゲッカが誰かの身代わりだということは知っている。
 それに怒るつもりはない。
 少女もまた皇帝を身代わりにしているのだから。
「沖達のところに簡単に戻れる方法を教えよう」
「?」
「簡単なことだ。
 沖達と結婚すれば良い」
 実に魅力的なささやきだった。
「華月が望むなら、叶えてやろう」
 その誘惑から逃れるように、ゲッカは首を横に振る。
「華月がうなずくだけで良いんだよ」
「……でも」
「遠慮することはない」
「ダメだよ、そんなこと。
 ボク、沖達に嫌われたくないもん」
 弱々しく少女は呟いた。
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