ヒトジチ

 帰りたい。

 チョウリョウの都へ来て、もう一週間。
 都の人々は親切だった。
 ゲッカのような人質はここでは珍しくなかった。
 同盟を結ぶとき、盟主たちの親族はやり取りされる。
 表向きは遊学や行儀見習いとなるが、「人質」という響きがふさわしい。
 裏切りが起これば、その生命は消される。
 ゲッカの場合、やや特殊な形ではあったが、皇帝陛下の機嫌一つにかかっていると思えば、寵姫の心境にも近くなる。
 チョウリョウの飛一族は、病弱であるという理由により、一人も他のクニへ行ったことがないと聞く。
 それどころか、この鷲居城を離れたことがないという。
 クニの力の差だった。
 まだ12歳ではあったが、ゲッカにもそれは理解できた。

 回廊を通って、与えられた寝室に向かう途中だった。
 最低限と課せられた勉学の後、ゲッカはいつも一人で部屋に戻る。
 寝るまでの時間は書を読み解いたり、扇術の稽古に当てていた。
 海月はなくなってしまったが、「華月」は消えたわけではない。
 総領時代からの日課をこなす。
 一人でいることは寂しかったけれど、仕方がなかった。
 人質として都へ来ている少女たちとは、話が合わないのだ。
 彼女たちの興味は、着飾ることと豪華な暮らしをすることに向けられていた。
 刹那的な快楽に身をゆだねることで、彼女たちは精神の均衡を保っているともいえた。
 だから、ゲッカは一人ぼっちであった。
 わがままを言ってはいけない。
 何かしくじれば、海月の民たちに迷惑をかけてしまう。
 あの優しく、温かかった人たちに辛い思いをさせることになる。
「まあ。
 あなたが華月ね」
 そう声をかけてきたのは、この国、唯一の公主。
 胡蝶の君と呼ばれる少女だった。
 御年17歳。
 花の間を飛び舞う胡蝶のように、軽やかで美しい乙女だった。
 あと5年もしたら、自分もこのように美しくなれるのだろうか?
 きっと……なれない。
 公主は、とても美しいのだ。
 誰もが愛さずにはいられない。
 幸せで、光り輝いていた。
 公主の傍近くには、供人の姿も、侍女の姿もなかった。
 内宮の中では、一人歩きも危険ではないとはいえ気軽すぎる。
 飾り物に見える鉄扇でも、人を傷つけることはできる。
 無意識にふれていた扇から、ゲッカは手を離した。
「貧相ね」
 公主は、悪口にしか聞こえない言葉をにこやかに言う。
 それすらも綺麗なのだろう。
 正しい発音で放たれた言葉は、亡きエイネン王朝の宮女も敵わないように思えた。
「お初にお目にかかります」
 ゲッカは拱手をした。
「私は、あなたが大っ嫌いだわ」
 笑顔のまま、胡蝶の君は言う。
 敵意のない純然たる不快感を向けられる。
 ゲッカは困惑した。
 公主とは、好きだの嫌いだの、言われるような関係ではない。
 言葉を交わすのは、これが初めてなのだから。
 どう受け答えをすればいいのだろうか。
 機嫌を損ねてはいけない相手だ。
 混乱し
「ボクは、まだ公主のことを知りません。
 公主もボクの何を知っているというんですか!?」
 ゲッカは叫んだ。
 戦場に立てば、敵意にさらされる。
 だから、敵意は知っている。
 皇帝から贔屓されれば、妬まれる。
 だから、悪意は知っている。
 けれども、自分は不快を叩きつけられるようなモノじゃない。
 ゲッカは幼くても、海月の総領だったのだ。
 そんなものであっていいはずがないのだ。
 そんなものになってはならないのだ。
 ゲッカは、海月の誇りを背負っているのだから。
「私は大義名分とか、嫌いなの。
 国を背負うとか。
 そういう大層な文句が大っ嫌い」
 歌うように公主は言う。
 裳裾を揺らし、金の歩揺を鳴らしながら、歩いてくる。
 ゲッカは目を見張る。
 滑るように歩く公主には、足音というものがなかった。
「くだらないわ」
 公主は立ち止まった。
 ゲッカのすぐ目の前で。
 帯に挟んだ扇を抜くことはできない。
 近すぎる距離に、美しい乙女は立っていた。
 赤瑪瑙をくりぬいたような双眸がゲッカを見据える。
「自分ばかり不幸って顔をしているあなたも嫌い。
 逃げ場所なんて、どこにもないのよ」
 突きつけられた。
 ゲッカは耳を塞ぎたかった。
 大声で泣き出したかった。
 けれど、できなかった。
 そういったものは、海月の総領になるときに禁じられたのだ。
 今でもゲッカを縛りつける絶対の律。
「帰る場所なんて、どこにもないのよ。
 ここで、生きていかなきゃいけないの」
 公主はなおも言った。
 その口調は強くもなく、激しくもなかった。
 ゲッカは、走り出した。

 帰りたい。

 ここではない場所へ。
 失ってしまった故郷へ。
 帰りたい。
「待ちなさい! 華月」
 公主の声が静止するが、ゲッカは振り切った。
 逃げ場所など、どこにもない。
 公主の言葉に嘘は一つもなかった。
 それだけに辛かった。
 ゲッカは寝室に駆け込むと、寝台に突っ伏した。
 涙の流れないうめき声を上げる。
 歯を食いしばり耐える。
 やがて、つかんだ薄手の毛布ごと、床に滑り落ちる。
 身を折りながらも、ゲッカは泣かない。
 きちんと理解したつもりだった。
 ……つもりだけだった。
 死ぬよりも辛いことがこの世にはあふれている。
 ずっと守られていたから、今まで気がつかなかった。
 いつだって、守られてきた。
「沖達」
 海月の宰相だった青年の名前を呼ぶ。
 呼べば、駆けつけてくれた。
 ゲッカが幼い頃から、ずっと、ずっと……助けてくれた。
 今は、いない。
 ここにはいない。
 それが悲しかった。

 それでもゲッカは泣かなかった。
 約束だったからだ。
 総領になるときに、宰相の青年と約束したのだ。
 それを守るためにゲッカは泣かなかった。
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