ゲボク

 人生と言うものは不条理だ。
 一歩踏み出した先には何が待ち受けているかわからない。
 弱冠十八歳。
 カイゲツの宰相は……痛感していた。
 何のことはない、転んだだけである。
 寂しくなるような体裁だけが整えられた院子で、派手に転んだ。
 良くあることである。
 しかし、立ち上がる気力もなく、少年は地べたに座りこんだ。
 冷風が吹く、空を見上げた。
 時折、目眩がするような虚無感が胸を満たす。
 何のために生まれ、何を遺すのか。
 ……わからない。
 答えてくれるような相手もいない。
 少年の母は、彼が三つになる前に病で亡くなった。病名は風邪、直接の原因は栄養失調。
 このクニは貧しい。土地が痩せている上に、近年天候にも恵まれない。
 父は三年前に亡くなった。彼が成人する前だ。哀れに思ったのだろう。今際のきわ、枕辺に息子を呼び、字をつけた。

 

 痛ましいほど悲しく想う、という意味だ。
 その父の死因も栄養失調だ。
 先の宰相であった男の死因ですら、だ。
 滋養のある食べ物を取り、養生すれば病は治ったことだろう。
 このクニは、本当に貧しい。
 民は畑を作り、乾燥した大地で芋を育てる。それを他のクニに売って、自分たちは木の根をかじる。
 あるいは徒党を組み、賊となる。
 どうすれば良い?
 どうすれば変えられる?
 少年にはわからなかった。
 このクニの宰相なのに……わからなかった。
 どうしようもないクニの貧しさが、胸を突き刺す。
 ふいに、ロウタツの視界の端に黒いものが流れ落ちてくる。
 パサパサとした長い……髪だ。
 栄養が行き届いていないから長いのに、藁のようにパサパサしているのだ。
「何してるの?
 ちゅーたつ」
 子どもの声が降ってくる。
「沖達、だ」
 少年は顔を上げる。
 男装の童女がロウタツを覗きこんでいた。
 年の頃は六つ。このクニの、今のところ唯一の跡取りだ。
 小字は月姫。
 このクニで最も意味の深い字である『月』を特別に持つ子どもである。
「ちゅーたつ」
 何べん聞いても、きちんと発音しきれていない。
「ちゅーたつ、お腹痛いの?」
「……。
 人生の悲哀について、考えていたんだ」
 幼い子どもに正確な発音を求めたところで詮無いことだ。
 ロウタツは諦めた。
「ちゅーたつは、難しいこと考えてるんだね。
 地面見ていたら、答えは出た?」
「考え中だ」
「ふーん、そうなんだ。
 てっきりボク、ちゅーたつ転んで、足首でもくじいたのかと思った」
 童女はにっこりと笑う。
 どうやら、一部始終を見られていたらしい。
「ねー、ちゅーたつ。
 遊んで」
「私は忙しいんです」
「地面ながめているのが?
 宰相のお仕事じゃないよ、そんなのー。
 サボりだよ。
 そんなことしているヒマがあるなら、ボクと遊んでくんなきゃ」
「どうして、私が貴方の相手をしなければならないんですか?」
「だって、ちゅーたつはボクの下僕だもん」
「いつから、下僕になったんですか!
 私はこのクニの宰相で、貴方の父には仕えておりますが、貴方自身には仕えておりません」
「いずれは下僕になるんだろう?」
 嫌な未来である。
 将来の配下、もしくは子分であればここまで抵抗を覚えなかったであろう。
 ……下僕。
 響きからして嫌だ。
「総領に男児が恵まれなければ貴方が跡を継ぐでしょうが、まだわかりません」
 そんな未来はキッパリとお断りである。
「未来で下僕になるなら、今だって下僕だよ。
 おんなじ、おんなじ」
 ケラケラと童女は笑う。
「全然違います!
 それに貴方が跡を継ぐとしても、まだ九年あります」
「九年なんてあっという間だよ」
「まだ六つのクセに」
「女性に歳のことを言ってはいけないんだぞ」
「どこに女性がいるんですか?」
「目の前に」
 しれっとした顔で童女は言う。
「はあ?」
 ロウタツは思わず聞き返してしまった。
 妙齢のご婦人ならともかく、性別の区別すらない年頃の子どもである。
「そんな態度を取ると、あとで後悔するんだぞ。
 ボクがお年頃になってからじゃ、遅いんだからな」
 あと九年後。自分は二十七になっている。
 いくらなんでも、妻帯しているだろう。生きていれば……の話だが。
「そこまで女に不足していない」
 ポロッと本音が零れる。
「あー!
 また、神殿に行っただろう!
 節操なしだなぁ、ちゅーたつは」
 月姫は少年の髪を掴む。
 めちゃくちゃ、痛い。
「男の甲斐性です」
 小さな手から、己の髪を取り上げる。
 その際、数本抜けた。
「長続きしないんだから、止せばいいのに。
 本気にならないのは良くないことだ」
 どこで覚えてきたのか、実に達者である。
「そういう女性しか選んでません」
「違う。
 自分の気持ちに失礼だ。
 ちゅーたつにだって、心底大切に想える相手が現れるかもしれないんだから、軽はずみなことはしないほうが良いに決まってる」
 童女は説教をする。
 誰かの受け売りだろう。
 だが『かもしれない』で何年も待たされるのはごめんだ。
 十八年待っても現れなかったんだ。
 この先、現れるとは到底思えない。
「私の生き方に口出ししないでください」
「そんなことだから、人生って何だろう? とか、難しいことを考える羽目になるんだよ。
 ちゅーたつはダメダメだなー。
 いい?
 人生ってのは、今の続きなんだ。
 今が楽しくないヤツは、未来だって楽しいわけがないんだ」
 腰に手を置いて、童女は断言した。
 それも一つの真理である。
「じゃあ、人は何のために生きているんだ?」
 苛立ってロウタツは訊いた。
 子どもに解けるはずのない哲学的な問題を。
「そんなのわかるわけないじゃないか。
 人によって、全然違うんだから。
 まあ、ちゅーたつの場合は決まってるけど」
 印象的な瞳を輝かせて童女は言った。
「?」
 嫌な予感がする。
「ちゅーたつはボクの下僕になるために生まれてきたんだ。
 そして、死ぬまでボクの傍にいるんだよ」
 にっこり笑顔で、幼児に言い切られた屈辱。
 一生涯、下僕宣言。
 そんな未来はいらない……。
「さあ、ボクと遊んで。
 じゃないと、石につまづいて転んだこと、みんなにばらすよ」
 可愛らしい脅し文句だった。
「……わかりました」
 ロウタツはしぶしぶうなずいた。


 これでは、未来は決まりきったようなものである。
 童女に引きずられるようにして、弱冠十八歳の宰相は今日も遊び相手を務めるのだった。
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