サクゲツ

 朔日(ついたち)。
 姿を見せない月に焦れる。
 今宵は星の瞬きがぞっとするほど華やかで、明るかった。
 眠ろうとしたのだが、眠れない。
 ロウタツは仕方がなしに、上体を起こした。
 まんじりともできないのでは寝台にいる意味がない。
 さて、どうしたものか。
 人のぬくもりでもあれば眠れるのだろうが、今は中夜。
 ご婦人を誘うには少しばかり遅い時間である。
 神殿に行こうかと一瞬考えるが、今日の月が新月であることを思い出して、やめる。月の加護が得られない夜に出歩くのは得策ではない。彼は歳のわりに信心深いのだ。
 書でも読むか。
 ロウタツは寝台から滑り降りると、竹簡を一つ、二つ抱える。
 外袍を肩に引っ掛けると、院子に出る。
 キリキリとした空気に肌が粟立つ。
 晦(つごもり)の月であれば、当然だ。
 吐く息すら凍る最後の月。
 後一回満ちて、欠ければ月は新しく生まれ変わる。
 ロウタツは適当なところに腰を下ろすと、竹簡を開く。
 星明りを頼りに書を読む。
 晦の朔日である。
 月明かりは到底望めず、書を読むのも一苦労であった。
 寒さでかじかまりがちな指先をこすり合わせながら、読み始める。
 芯まで凍りつく寒さ。
 夜はこの貧しいクニには少しも優しくない。
 食うに事欠く民たちである。隙間風が吹くあばら家で、お互いの身を寄せ、暖かい寝具などあるはずもなく、カタカタを震えながら夜を過ごすのだろう。
 容易に想像がつく。
 これで雪が落ち始めたらどうなる。
 餓死者に凍死者、毎年のことだが胸が痛くなる。
 何もできない己。
 宰相の立場でありながら、民に施してやれるのは僅かな、本当にささやかな富。
 古の賢人の教えを紐解く。
 あるいは賢者と呼ばれる古老の元を訪れ、教えを請う。
 『仁を欠くことなく』
 それが肝要だと言う。
 人は愛だけでは生きられない。明日食べるものが必要で、夜眠れる場所が必要なのだ。
 飢える民に精神愛を説いても始まらない。
 ロウタツの欲するのは『今』どうすれば良いのかということだった。
 税を軽くしても民は満たされない。
 天候が全てを台無しにする。
 国庫を開くのにも限界がある。
 他のクニと交易をはかり、騙すようにして手に入れてくる穀物も限度がある。
 それでも、民は口々に言う。
 この地は女神の加護がある、と。
 幸せそうに言う。
 ひもじいだろう。辛いだろう。
 それなのに、民は言う。
 この地に生まれて幸いだ、と。
 ここ六年。
 民たちの顔には絶えず笑顔がある。
 希望があるからだ。
 『奇跡の子』が健やかに育っているためだ。
 総領の子、月姫。
 彼女は月の女神の娘であり、海の女神の養い子である。
 カイゲツを祝福するように、年が改まって初めての満ち月の日に生まれた。
 ……。
 それが救いだと言う民が哀れだった。
 ロウタツは幾つかの事柄について知っており、それは民の心を悪戯に混乱させることだということも知っていた。
 だから、ためいきも深くなる。
 ぺたぺた ぺたぺた
「?」
 ロウタツの背後に気配。
 ぺたぺたと軽い足音。
 まるで、裸足で床を歩くような音。
 ロウタツは鉄色の目を遣る。
「……」
 あっけに取られた。
 そこには月姫がいたのだ。
 御歳六歳の祝福の御子は泣きべそである。
 寝着一枚で、べそをかきながらロウタツに抱きついてきた。
「ちゅーたつ」
 体は凍るほど冷たかった。
 ロウタツは途惑いながらも、童女を抱き寄せ、外袍を掛ける。
「どうしたんですか?」
「……怖い夢」
 月姫はそれだけ言って、ロウタツの胸に耳を当てる。
 いくら怖い夢を見たからといって、ここまで一人で歩いてこなくても……。
 人恋しかったのはわかる。
 誰かに助けを求めたくなるのも、理解できる。
 だが。
 何故、ここまで来るんだ。
 女官はどうしたんだ。
 職務怠慢というものではないか。
 ロウタツは憤慨していた。
「迷惑?」
 ロウタツの心を感じ取ったのだろうか。
 月姫は涙で潤んだ瞳を向ける。
 ギクリと背筋を冷たいものが流れた。
「ごめんなさい。
 ボク。
 ……帰る」
 涙声で言う。
 瞳には新しい涙が湧いており、まるでロウタツが苛めたような具合である。
「いえ。
 大丈夫です」
 少女を逃さないために抱きしめる力を加える。
 ここで帰したら、間違いなく新年早々から針のむしろである。
 ロウタツは片腕で少女を抱き上げた。
 驚くほど軽い。
 恵まれた暮らしではない。
 月姫とて例外ではないのだ。
「ここは凍えます」
 ロウタツは泣き出したいほどの切なさをこらえて、言った。
「ごめんなさい」
 腕の中の童女は歳には似合わぬ瞳で呟いた。
 ロウタツは優しく月姫を寝台に下ろした。
 昼間そうするように抱きかかえるようにして添い寝をする。
 抱くため以外に女を閨に入れたのは初めてだ。
 そんなことをロウタツはふと思った。
 ようやく本来の体温に戻ったのだろう。
 月姫の体はロウタツよりもあたたかかった。
 そのことにひどく安堵する。
 このクニ、最後の希望はゆっくりと眠りの波に引き込まれていった。
 ロウタツ自身も眠りの海に浮かぶ一艘の小船になった。
 

「公はずいぶんと趣味を変えたのだな」
 温かみのある声が皮肉るように降ってきた。
「あまりに遅いので様子を見に来たのだが、お邪魔虫であったようだ」
 その声にロウタツは目を覚ました。
 びっくりして起き上がろうとするが、体は不自然に重く身動きが思うように取れなかった。
「おはよう、宰相殿」
 初老の男が笑う。
 温かみのある笑顔だ。
 が、ロウタツは感激できなかった。
 カイゲツの総領、その人である。
 その背後には明るすぎる光。
 そう、これは昼近くの明かりだ。
 朝議というのは朝するものだから、朝議という。
 終わるのは昼近くになる。
 つまり、そんな時間にロウタツは眠っていてはいけないのだ。
 このクニの宰相なのだから。
 しかも、歳が改まったばかりの日だ。
 貧しいカイゲツでは都のように儀式らしきものはないが、それでも寝過ごして良いような日ではなかった。
 顔色を失ったロウタツに総領は笑顔を崩さない。
「疲れが溜まっていたのだろう。
 よくあることだ。
 無理を重ねて、体を壊すよりは良い。
 私の、懸案はそのようなものではない。
 男らしく責任を取ってもらおうか」
 総領は茶化すようにわざと重々しく言った。
「?」
 ロウタツはようやく自分の体が思うようにならなかった理由に気がつく。
 月姫に腕枕をしていたのだ。
 いや、まるで宝物を必死に守ろうとするかのように、がっちりと小さな体を抱きしめていた。
 そんなことは他の女にしたことは一度たりともない。
「わが娘にも異論はなさそうだが、どうかね?」
 その声には不可思議な真剣みがあった。
「歳が離れすぎています」
 ロウタツは童女を起こさないように気をつけながら、体を起こす。
 小さな頭を自分の膝に置きなおす。
「十二ぐらいなら、あと数年もすれば気にならなくなる。
 男と言うのは若い女が好きなものだ」
「はあ」
 ロウタツには実感の湧かないことだ。
 だが三十、四十の男が成人間もない若い娘を囲うのは珍しいことではない。親子どころか孫ほどの歳の差もある乙女を妾にする話も聞く。
「ですが、成人する前に私が妻帯してる可能性も大いにあると思うのですが」
 正妻にするのは難しい。
 それとも、あと九年も独身でいろというのか。
「妾でもかまわないさ」
 気楽に総領は言う。
 そんなことをしたら、ロウタツはカイゲツ中の民に叩き殺されてしまう。
 総領の娘、それも『奇跡の子』を妾扱いしたら。
「そういうわけには」
「公が一番、相応しいような気がしてな」
 総領は寂しげに笑った。
 何が言いたいかは察しがつく。
 ロウタツの父と総領は腹違いの兄弟だった。
 一応、血統上ロウタツと月姫は従兄妹になる。
 ロウタツの父である前宰相は、神殿巫女が産んだ子であり、婿養子に行ったために、ロウタツ自身が総領の跡取りになるのは難しい。
 けれども月姫は女児であり、総領には月姫以外の子はいない。
 月姫が成人する前に総領が亡くなった場合、どちらを総領に据えるかで大揉めになるのは目に見えている。
 二人が夫婦であれば、あるいは婚約者であれば、男であるロウタツがすんなりと総領に納まれる。それが自然であり、民も納得する話である。
「私は宰相としての身分を果たします。
 職分からは、でしゃばりません。
 約束いたします」
 ロウタツは言った。
「あまりに重い役目だ。背負わせるには忍びなくてな」
 総領は娘の頭を撫でる。
「このカイゲツでは難しいだろうが。
 ……幸せになって欲しい」
 総領といえども、人の親。
 子の幸せを願う。
 それは当然の権利であろう。
「そうですね」
 ロウタツはうなずいた。
 健やかに眠る月姫の寝顔に苦い気持ちを抑える。
 このクニは貧しい。
 それが辛かった。


 幸せに。
 どうか、幸せに。
 さざめくような祈り。
 それは『仁』の根源である。
 『仁を欠くことなく』
 それはロウタツの施政の要であった。
 人々の顔から憂いが取り除かれるまでは、多くの犠牲と時間が足りていなかった。
 まだ、未来の話だった。
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