セツボウ

 願いは叶わない。
 それは誰よりもロウタツ自身がわかっていたはずだというのに、人は夢を見る生き物だから、都合の良いように解釈した。
 期限付きの、戦いだった。
 ずいぶん前から期限は切られていたというのに。
 わかっていた。
 知っていた。
 けれど、最後まで足掻いた。
 信じたくなかった。
 願いが叶わない、そのことに絶望したくはなかった。
 『海月』がなくなることは、知っていた。
 この小さいクニは、大国に呑み込まれることだろう。
 そんなことは、わかっていた。
 それが哀しいんではない。
 ただ、それが今だから悲しいのだ。



 小さな船が大河を下る。
 海を、海を、目指して、船は下っていく。
 空は晴れ渡り、風は気持ちよく吹いている。
 甲板と呼ぶには手狭な場所に、一人の青年が座り込んでいた。
 空を見るでなし、海を見るでなし、青年はじっとうずくまっていた。
「よう、鉄鎚(てっつい)。
 しけた顔しているな」
 声をかけられて、墨色の髪を持つ青年はようやく顔を上げた。
 姓は海。名は朗達。親しき者は彼を『鉄鎚(かなづち)』と呼ぶ。
 海月の民であるのに、月の加護だけしか得られなかった青年を揶揄して。
「ああ」
 青年は珍しく素直に答えた。
「海月ももう終わりかぁ」
 暢気に男は言う。
 男の通称は慈恵(じけい)。
 元は河賊(せんぞく)だったが、今は孤児院の院長をしているという変わった経歴の男だ。
 今、大河を下るこの船の持ち主でもある。
 良く陽に焼けた男は、船縁に体を預けて、遥か西を見遣る。
 西にあるのは、海月ではない。
 あるのは、鳥陵がシキョ城。
 海月の総領だった少女がいる、場所。
「ああ」
 鉄鎚はうなずいた。
「後悔するな。
 お姫さんが選んだことだろうが」
 慈恵は青年を見た。
「そうだな」
「総領が決めたことに従うのは、臣の役目だろう?
 お前さんが、くよくよすることではないだろうに」
 慈恵は笑い飛ばす。
 鉄鎚はその鉄色の瞳を少しだけ和ませた。
「十一年は、長かったのか、短かったのか。
 正直、よくわからない」
 独白のように青年は言う。
 海月の民ではよくある色の瞳は、大河を眺める。
 鉄鎚には海の女神の加護がなく、彼自身には決して優しくない水に救いを求めるように、その瞳は大河に注がれる。
「フツーに考えたら、充分長いんじゃないか?」
 慈恵はためいき混じりに言った。
 友の気持ちはわからなくはなかったが、どうすることもできない事柄はある。
 とかく、運命と呼ばれるものには、人は逆らうことなどできはしない。
「もう少し、長くても良かった気がする。
 たった、十一だ。
 あと、四年あれば。
 せめて、あと四年あれば、ここまで後悔しなかった」
 青年は言った。
「そうかい?
 そんときも後悔してそうだがな」
 慈恵はにやり笑った。
 後悔せずにはいられない。
 それほどまでに、かけがえのないものを失ったのだ。
 海月の民の故郷が消えたわけではない。
 魂に刻みつけられた思想をなくしたわけではない。
 一人の少女がいなくなっただけだ。

 彼女は『海月』そのものだった。

「海月、最後の希望……か」
 慈恵はしみじみとつぶやいた。
 今はシキョ城にいる十一歳の少女は、そう呼ばれ続けていた。
 『最後』の希望、と。
 海月の終末はとっくのとうに、宣託されていたのだ。
 それから、十一年。
 よく、持った方だろう。
「こんな結末を望んだわけではない」
 青年は言った。
 彼自身は気づいていないだろう。
 そして、多くの人々にもわからないだろう。
 その声が涙に濡れていることに。
 海月が失われるときに犠牲になるのは自分のはずだった。
 そう、その声は言っていた。
 慈恵はなぐさめる言葉も尽きて、ためいきをついた。


 願いは全て叶うわけではない。
 けれども、この願いだけは叶って欲しかった。
 友のため、自分自身のために。

 どうか、どうか、一粒の真珠が幸せでありますように。

 慈恵は遥か西を見遣る。
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