ワヘイ

 建平元年 七月。
 カイゲツ、チョウリョウに降る。
 カイゲツの総領、皇帝に会う。


 ……できるだけ多くの命を救うために。



 話には聞いていたが、実際に見ると驚く。
 鳥陵皇帝ホウスウはカイゲツの総領を見た。
 子どもだった。
 利発そうだとか、明朗そうだとか、つけるべきだろうが、ホウスウの前にいたのは十二の子どもだった。
 カイゲツの総領ではなく、守られるべき立場にいる痩せぎすの子ども。
 この辺りでは見ない風変わりな衣裳を着た黒髪黒目の少女。
 ホウスウは平伏するカイゲツの総領に声をかけ、立ち上がらせた。
 青年は椅子から立ち上がる。
 咎めようとする宰相のエンジャクを手で制す。
「名は?」
 ホウスウは問う。
「姓はカイ」
 カイゲツの民は、皆『海』を姓にする。
 それほど小さなクニだ。
「名はゲッカ。
 字は華月」
 少女の声は震えていた。
 緊張か、不安か、それとも恐怖か。
 ゲッカは十二の子どもだったが、字を持っていた。
 それは彼女が一人前の証である。
「良い名だな」
 ホウスウは微かに笑った。
 剣を握ってクニを守る総領には相応しくない字だ。
 春を意味する美しい字をつけた人物は、幼い総領を深く愛していたのだろう。
「鴻鵠。
 剣を」
 控えていた宰相に向って、ホウスウは言った。
 ホウスウは剣を持ち歩かない。
 文に秀でるが、武には通じていない、証だとされる。
 が、それは誤りだ。
 ホウスウは持ち歩く『必要性』を感じていないだけだ。
 尚武の血筋の男子が剣を扱えないはずがない。
 エンジャクから剣を受け取ると、ホウスウは鞘払う。
 最小の軌道で、真剣を振り下ろす。
 少女は悲鳴を上げなかったし、逃げなかった。
 彩虹まで黒い目が瞬きもせずに、青年を見ていた。
 剣はピタリと細い首筋で止めた。
 少し動かせば、命を刈ることができる。
 そんな状態で、ホウスウは意地悪く問うた。
「怖くないのか?」

   ◇◆◇◆◇

「怖いよ。
 ……死にたくないもん」
 ゲッカは声の震えを止められなかった。
 カタカタと歯が鳴る
「でも、ボクは責任を全うしなきゃいけないんだ。
 ボクの一言で、たくさんの人が死んだ。
 その人たちだって、死にたくなかったはずだよ。
 とっても、痛かっただろうし、辛かっただろうし。
 だから、ボクは逃げない。
 逃げちゃダメなんだ」
 そう決めたんだ。
 だから、泣かない。
 自分はカイゲツの総領なんだ。
 死の瞬間まで、父のようにカイゲツの総領なんだから。
 名に恥じないように、総領にふさわしくあろうと、思う。
「良い覚悟だ」
 ホウスウは口元に笑みを刷く。
「あと一言喋らせてやろう。
 何か遺す言葉はあるか?」
 ホウスウは言った。
「ごめんなさい」
 ゲッカは言った。
「誰に対して謝る?」
「みんなに。
 叶うことなら、沖達に伝えてください」
 十分だった。
 もう、充分だった。
 ゲッカは瞳を閉じた。
 まぶたの裏に浮かぶのは楽しかったことばかり。
 幸せの断片ばかり。
 そんな最期なら、怖くない。
 ごめんなさい。
 みんなにごめんなさい。
 ボクに優しくしてくれてありがとう。
 大好きな人たちに、ありがとう。
 充分だから、ごめんなさいとありがとう。
 幸せだった、と。
 みんなに。
 こんなに心は満ち足りているから、大丈夫。
 怖くない。
 最後に思い浮かんだのは宰相の沖達の顔だった。
 ゲッカがチョウリョウに行くことを最後まで反対していた。
 最後まで、ゲッカのために反対してくれた。
 こんなにも想われていた。
 大切にしてもらった。
 自然に顔がほころぶ。
 少女は死の瞬間を待った。
 剣先が離れていく。
 振りかぶられる……はずだった。
 カシャン
 剣が鞘に戻される音。
 いぶかしがってゲッカはそろそろと目を開けた。
 剣を宰相に返す皇帝の姿が目に入る。
「?」
「気に入った」
 皇帝は嬉しそうに笑った。
 全開の笑顔だった。
 沖達と同じ歳ぐらいなはずだが、そういう笑い方をすると子どもみたいに見える。
「命を助けてやろう。
 もちろん、華月の民も全部だ。
 今より豊かな暮らしを約束してやろう」
 機嫌良く皇帝は言う。
 降って湧いた幸運である。
 『豊かな』暮らし
 その言葉にゲッカは惹かれた。
 カイゲツはとてもとても貧しいのだ。
「それってみんなのご飯が困らないってこと?」
 ゲッカは目を瞬かせた。
「欲がないな。
 聞いたか? 鴻鵠」
 皇帝は宰相を振り返る。
 剣を剣帯に戻していた宰相は苦笑していた。
「自分のことよりも、民のことが一番だとは。
 古典に出てくる賢帝のようだな」
 皇帝は言う。
「当たり前のことじゃないの?」
 ゲッカはきょとんとする。
「誰に習った?」
 皇帝は面白そうに尋ねる。
「沖達」
「宰相だった男か?」
「うん。
 政の基本は『仁を欠くことなく』って。
 クニのために民がいるのではなくて、民のためにクニがあるから。
 総領は民のために、常に考え、己の足りなさを省みるようにって」
「耳が痛くなるほどの正論だな。
 実践する人間がいるとは、信じられないが。
 ここにいる」
 皇帝はゲッカをひょいと抱き上げた。
 急に視界が変わって驚いたが、同時に懐かしかった。
 慈恵は元気だといいな。
 無事に海に帰りつけばいいな。
 ……沖達と一緒に。
「カイゲツの民が喰うに困らない豊かさを保障してやろう。
 そして、華月には帳尻が合うほどの贅沢をさせてやろう。
 その代わり、私の話相手をしてもらう」
「そんなことで良いの?」
「ああ」
 皇帝はうなずいた。
「私はフェイ・ホウスウだ。
 鳳と呼ぶが良い」
「鳳?」
 皇帝の字を呼ぶ権利を与えられた少女は、その光栄さをいまいち理解せず、その音の並びを口に乗せた。
「ああ、そうだ」



 この日。
 カイゲツはなくなった。
 その名を持つクニはなくなった。
 けれども、カイゲツの民は残ったのだった。
 皇帝がかつてのカイゲツの領地と、その周辺の海辺の地域を一つにまとめて郡を置くのは、それから間もなくのこと。
 その郡の名を『海月』と言う。
 そして、その郡の太守(長官)には沖達が選ばれた。
 クニが滅びても、確かに残るものがある。
 その精神は消え去ることはないのだ。
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