シュンショウ

 春の宵。
 祝宴が開かれた。
 主役の一人は杯を片手に不機嫌さを隠せずにいた。
 並々と注がれた酒を一気に呷る。
 喉を強い熱が下る。
 そんなもので気分は晴れそうになかった。
 あちらこちらで交わされる噂話。
 こういった席で自分の評判が良くないことを再確認するのは、慣れた。
 しかし、誰一人して祝っていないことを目の当たりにするのは辛い。
 この宴会にこんなにも多くの者がいると言うのに、一人も心から祝ってはいないのだ。
 それどころか、非難の眼差しが投げつけられる。
 『政略もいいところだ』
 『海月太守は上手いことやったな』
 『海姫は主上のお気に入りの娘だったと言うのに。とんだ横槍だ』
 『十五を待って立后の話もあったな』
 『一番の后がねだった』
 そうしてこの話の締めくくりは揃ってこうだ。
 『海姫もかわいそうに』
 限界だった。
 沖達は立ち上がり、宴会会場から逃げ出した。

 茶番に過ぎない。
 こんなことは。
 そう、形ばかりの婚約だ。
 ……わかっている。
 いちいち人の言うことに反応を示していても意味がない。
 足元をすくわれてしまう。
 沖達は守らなければならないものがあるのだ。
 それを投げ出すわけにはいかない。
 ……わかっている。
 沖達は歩くのにも疲れて、立ち止まる。
 満開の桜の幹に身を預ける。
 華やかな薄紅色の花は月夜に映える。
 沖達は目を閉じ、ためいきをついた。
 いささか酒が過ぎたようだった。
 酔いが指先まで支配している。
 これは形ばかりの婚約なのだ。
 沖達は自分に言い聞かせる。
 一番、穏便にすませる方法だ。
 帰りたい、と泣いた少女のための茶番劇。
 故郷に着いたなら、すぐさま少女に自由を与えてやれる。
 海月は鳥陵の東の辺境。
 皇帝の威光も程遠い地。
 軽々しく足を運ぶことも叶うまい。
 舌先三寸で丸め込むのは得意だ。
 これで、自由に。
 ……犠牲にしてしまった少女に自由を返してやれる。
 それまで、沖達は婚約者を演じるだけだ。
 ……。
 容易に思えたことができそうになかった。
 気がつかなければ良かった。
 そうすれば、話は簡単に終わったのだ。
 しかし、自分の想いに気がついてしまったのだ。
 稚い少女を己のものにしたい。
 茶番ではなく、真実にしたい。
 その激しい想いが彼から冷静さを失わせた。
 初めて感じる飢餓感に沖達は眩暈を覚えた。


「沖達?」
 彼のすぐ傍で声がした。
 目を開けなくても、誰だかわかる。
「気分が良くないの?」
 声に不安が宿る。
 沖達は鉄色の瞳を開ける。
 欠けた月が地上に投げかけるわずかな光。
 それに縁取られ、清らかな少女が立っていた。
 赤を基調にした衣装は今宵が祝宴のため。
 海を姓に持つのだからと、皇帝から贈られた宝飾は全てが真珠。
 趣味の良い皇帝だけあって、見立ては完璧。
 良く似合っていた。
 これ以上に似合う格好は思いつきもしない。
「大丈夫?」
 華月は顔を覗き込んでくる。
 微かに香る化粧と……南渡りの香木。
 この香料を好むのは、皇帝だけだ。
 何もかもが、皇帝のものであるという証明に見えてならない。
 それが苛立つ。
「……沖達?」
 返事が返ってこないために、華月の不安は増す。
 どうして良いのかわからず、少女は困惑を顕にする。
 沖達は手を伸ばし、少女を掻き抱いた。
 力を入れすぎたら、簡単に折れてしまいそうな体だ。
 少女は多少驚いたようだが、特に抵抗を示さない。
 そこに沖達は皇帝の陰を見つけ出してしまう。
 男に抱きしめられることに、慣れすぎている。
 苛立ちは次第に募っていく。
 身勝手なのは、頭の片隅で理解している。
 全てが茶番なのだ。
 華月が沖達を意識していなくてもしょうがないのだ。
 二人は愛し合って、婚約したのではない。
 少女が別の誰かを想っていても、仕方がないことなのだ。
 ……わかっている。
 だが、許せない。
「沖達、どうしたの?」
 黒い目が恐れもせずに、沖達を覗き込んでくる。
 そこには恥じらいも、喜びもない。
 ただ心配して彼を見ているだけだ。
 何かが弾け飛ぶ。
 それは理性と言う名の箍であったかもしれない。
 沖達は華月の唇を塞いだ。
 少女は驚き、もがく。
 が、そんなことはお構いなしに沖達はくちづけを続ける。
 華月は体を仰け反らし、手当たりしだいに沖達の体を叩く。
 男と女の体格差はそんなことではびくともしない。
 やがて、絶望したかのようにぱったりと抵抗が止む。
 華月は従順に身を預ける。
 沖達はその反応に歓喜する。
 真っ白な処女雪に足跡をつけるのにも似た、快感だ。
 おそらくふれあうだけのくちづけすら知らない少女の唇を貪る。
 思う存分その初々しさを堪能すると、唇を離した。
 華月は新鮮な空気を求めてゴホゴホと咳き込む。
 喘ぐ少女の唇に、やがて身につけるであろう嬌態を見る。
「沖達、酔ってる……。
 ひどいよぉ。
 酔ってこんなことするなんて」
 夜の海のような瞳は潤んでいた。
 それがどんなに官能的に見えるか幼い少女は知らない。
 だからこそ、真っ直ぐ見据えるのだ。
「酔ってなければかまわないと?」
 沖達は少女の耳元でささやく。
「酔ってなきゃ、ボクなんかに。
 ……こんなことしないでしょ」
 華月は呟く。
 その声は掠れ、昼に聞くものよりも格段に艶めいて耳に響く。
 甘いなじりを受け、沖達は笑む。
「そうでもありません」
 不満そうにする唇に素早くくちづける。
 少女の頬にぱっと赤みが差す。
「他の人に見つかっても知らないんだからね」
 照れ隠しに怒っているのが手に取るようにわかる。
「かまいません。
 では、目を閉じて」
 沖達は優しく言う。
 少女は静かに瞳を伏せた。
「沖達はもう知ってるだろうけど」
「ん?」
「ボク、沖達のことが一番好きなんだよ」
 可愛らしいことを少女は言う。
 その唇を沖達は味わった。
並木空のバインダーへ >  「海月」目次へ >  「鳥夢」本編目次へ