ミカン

 「沖達、沖達、沖達」
 色も香りもしない澄んだ声が呼ぶ。
 一度は喪われたものだった。
 だから、二度と喪えないものだった。
 カイゲツの伝統衣装を身にまとった少女が部屋に飛びこんできた。
「どうかしましたか?」
 ロウタツは開いていた竹簡を片付ける。
 火鉢を挟んだ向かい側にゲッカは腰をおろす。
「はい」
 懐から蜜柑を取り出す。
「沖達、好きだったよね。
 今年最後の蜜柑だって」
 小さな手の上に乗せられた蜜柑は甘い香りがした。
「どうしたのですか?」
 ロウタツは受け取りながら、尋ねた。
 柔らかな皮を揉む。
「鳳から送られてきた荷物の中に、入ってたの」
 少女は懐から、もう一つ蜜柑を取り出す。
 青年を見習うように、同じように皮を揉む。
「そうか、陛下からの下賜か。
 礼状を認めなければならないな」
 ロウタツはためいきをついた。
 フェイ・ホウスウは同い年だとは思えない人物だった。
 見事に動乱の世を収めた鳥陵皇帝。
 遊戯の駒を操るように戦をする。
 褪めたような目をした男性だった。
 ロウタツも生命のやりとりを命じる立場に立ったことがあるが、心が痛んだ。
 喪われていく生命の数を、数えてしまった。
 皇帝になった青年には、それが無かった。
「お手紙書くの?
 ボクも書きたいな」
 ゲッカはニコニコと笑顔で言う。
「陛下も喜ばれるでしょう。
 真珠と一緒に贈りましょう」
 ロウタツは蜜柑の皮をむく。
 パッと甘い香りが広がる。
「こっちにあって、あっちにないものってそれぐらいしかないよね。
 もっと献上品になるものがあればいいのに」
 かつてカイゲツの総領であった少女は、残念そうに言った。
 蜜柑の皮をむいて、一房を口に運ぶ。
 紅も置かれていない唇だったが、艶めかしく見えた。
「甘い!
 沖達も食べなよ!」
 無邪気な笑顔で勧める。
 こちらの気も知らずに楽しげに、蜜柑を食べる。
「どうして蜜柑なのでしょか?」
 ロウタツは疑問を口にした。
 鳥陵の国土は広がり続けているが、南の物を腐敗させずに、手にするのは苦労するだろう。
「それは沖達が蜜柑が好きだから」
 ゲッカはケロリと言った。
 虹彩と瞳の差がほとんどない双眸が鉄色の双眸を見つめる。
「嫌いになちゃった?」
 少女は小首を傾げる。
 邪魔にならないように結い上げられている黒髪が揺れる。
「いや、蜜柑は大好物ですよ」
 誤解されないように、青年はキッパリと告げた。
「だが、それだけの理由で」
 ロウタツは蜜柑に視線を落とす。
「鳳に話したんだ。
 覚えていてくれたんだね。
 さすが皇帝陛下。
 下々のことまで気配りができているんだね」
 ゲッカは言った。
 物怖じしないところのある少女だ。
 鳥陵広しと言えども、皇帝陛下の字を呼び捨てにできる人物はどれほどいるのだろうか。
 いや、字自体を知る人物は両手で足りてしまうのではないだろうか。
 海月郡を預かる身としては、大きすぎる慈悲だった。
 特別扱いされる理由は、たった一人の存在のためだ。
 カイゲツと名乗っていた頃からの。
 唯一無二の最後の希望と謳われていた頃からの。
 ロウタツにとっても、カイゲツにとっても、天から授けられた子。
 今までも輝かしい月の光だ。
「沖達、食べないの?
 みんなお腹いっぱいご飯を食べられるようになったよ。
 ちょっとぐらい贅沢しても大丈夫になったんだよ」
 剣を交えず、投降してから、カイゲツは冬の寒さに怯えずにすむようになった。
 総領不在の小さなクニは鳥陵の一部になってから、格段に暮らしやすくなった。
 歴史の大きな渦に呑みこまれた結果、人民たちは健やかな生活を手にすることができた。
 最後の総領だった少女の声が沈む。
「皇帝からの下賜品だと思ったら、気後れしてしまいました。
 ありがたく頂くとしましょう」
 ロウタツは蜜柑を口に入れる。
 爽やかな酸味とまろやかな甘みが広がる。
 少女がいない間でも、蜜柑を食べる機会がなかったわけではない。
 だが、あえて食べないでいた。
 甲高い声を聴くことができないという事実を突きつけられるようで、避けていた。
 久しぶりの蜜柑は、想い出の中の蜜柑よりも美味しく感じた。
「あっという間に平らげてしまいそうですね」
 素直な感想をもらす。
「でしょ?
 蜜柑を食べる度に、沖達と一緒に食べたいと思っていたんだ。
 願いが叶って嬉しい!」
 ゲッカと視線が合う。
 ロウタツの顔にも笑顔が浮かぶ。
 青年もまた、少女と一緒に食べたいと思っていた。
 二人分の願いが叶ったことになる。
 鳥陵皇帝に感謝しなければならない。
「私も嬉しいです」
 ロウタツは手を伸ばし、ゲッカの頬をなでる。
 月を喪ったような夜のような双眸が細められる。
「沖達と一緒にいられて幸せ」
 閨で聞く睦言のような口調で少女は言う。
 甲高い声も、しっとりと耳朶を打つ。
「そうですね。
 幸せです」
 二度と手に入らないと思っていた。
 手放したことを何度も悔いた。
 それが、今、すぐ傍にある。
 これを幸せと呼ばないなら何を幸せと呼ぶのだろうか。
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