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「鳥たちの見た夢」シリーズ ログ

 並木空の日記で書かれた[小話]のログです。
 「鳥たちの見た夢」並びに、その外伝、番外編の小話のみで、他のログは「日記のログ」にあります。

 タイトル横の登場人物の名は、本名&カタカナで統一します。
 以下の目次クリックで、お好きな話へどうぞ。

01.花薔薇の君//ソウヨウとシュウエイ(鳥陵)
02.降雪//ロウタツとゲッカ(海月)
03.玉棺王に寄せる//ライカイ(玉棺)
04.命運のような白と黒//ハクヤとコウレツ(鳥陵)
05.嘆息//ソウヨウとホウスウ(鳥陵)
06.疾風よりも早く!//シデンとケンソウ(鳥陵)
07.静かなる追憶//ホウスウ(鳥陵)
08.もうすぐ果てる身体//ライカイ(玉棺)
09.死地に赴く//カクエキとシュウエイ(鳥陵)
10.課せられた使命//カクエキ、シデン、ケンソウ(鳥陵)
11.引き裂かれた絆//ゲッカ(海月)
12.払拭した過去//ソウヨウとユウシ(鳥陵)
13.永劫回帰//ホウチョウ(鳥陵)
14.嘘//ハンチョウとリョウジ(鳥陵)
15.約束//ホウチョウとソウヨウ(鳥陵)
16.誰かのための蓮の花//ヒエンとハクヤ(鳥陵)
17.見果てぬ夢//ホウチョウとヒエン(鳥陵)
18.区別のつかない夢//ソウヨウとモウキン(鳥陵)
19.涙//ロウタツとゲッカ(海月)
20.思い出が呼ぶ//ソウヨウとモウキン(鳥陵)
21.進むべき道//ソウヨウとホウチョウ(鳥陵)
【01.花薔薇の君】

「今、考え事をしているんです」
 うっとりと青年は言った。
「仕事してください」
 旗下であるところのシャン・シュウエイは言った。
「できそうにありません」
 万年春にいるような口ぶりでソウヨウは言う。
「……いい加減にしてください!
 絲将軍!!」
「一気に自分の立場を思い出しました」
 ソウヨウはためいきをつく。
 思い出したくなかった、と青年はつけたす。
 そうしたところで目の前の旗下には、何の効果もないことはわかっている。
 秀麗な顔立ちに、洗練された立ち居振る舞いができる翔朗(シャン家の坊ちゃん)は、同情というものを持ち合わせていなかった。
 割り切りの良すぎる性格は、自分の旗下に置いておくのには危険すぎる。
 彼はなんのためらいもなくソウヨウを裏切ることができるだろう。
 そして、裏切ったことを後悔もしないだろう。
 揺るがない価値観を弱冠にて確立しているあたり、さすがは翔家。
 でも、彼はまだソウヨウを裏切らない。
 ソウヨウはチョウリョウのために働いているし、忠誠を誓っている。
「姫を花薔薇以外にたとえるなら、どんな花がいいのか。
 それを考えていたんです。
 面白そうだと思いませんか?」
 ソウヨウはにこやかに言った。
「花薔薇ではいけないんですか?」
「姫は花薔薇のようだから、それ以外にたとえてみたいんです。
 それ以外の花なら、何が似合うと思いますか?」
 南城の花瓶の管理をしている青年に、ソウヨウは問う。
「白い芍薬が似合いそうですね」
「白限定ですか?」
「赤瑪瑙に映える色は白ですよ」
 シュウエイは断言した。
「確かに、お似合いかもしれませんね」
 ソウヨウは恋人が芍薬を持つ姿を想像してみる。
 真っ白な花弁が幾枚も広がり、ほろほろと咲く芍薬。
 乙女の長い髪に映えるに違いない。
 牡丹よりもすっきりとしているところが、あの小柄な姫によく似合う。
 趣味が良いと納得するものの、少し面白くなかった。
「では、メイワ殿には何が似合うんでしょうね」
 ソウヨウは無邪気に意趣返しをした。
 恋に関してだけ晩生な若者は、逡巡を見せる。
 弱冠の将軍は、心の中でにやにやと笑う。
「碧桃です」
 シュウエイは決まり悪そうに答えた。
「私の記憶に間違いがなければ、シュウエイの一番好きな花でしたよね」
 ソウヨウは追い討ちをかける。
 口うるさい旗下は、何も言わなくなった。
 青年はゆっくりと恋人に似合う花を考えるのだった。
 白い芍薬以外の花を。

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【02.降雪】

 大陸の北東。海に面した場所に『海月』というクニがある。
 ここの住まう者は『海』という姓を持ち、そのほとんどが顔見知りだった。
 それほど小さく、同時に貧しいクニだった。
 群雄割拠する時代、海月の主は華月という字を持つ女児であった。
 まだ、十歳。
 統領と呼ぶには、まだまだ幼い少女だった。

「沖達〜!」
 華月は宰相の字を呼ぶ。
 駆け足でその部屋に上がりこみ、信頼を寄せる宰相に報告するのだった。
「雪が降ってきたよ!」
 その言葉に、細面の青年が顔を上げる。
 カイ・ロウタツ。
 二十二歳の宰相だった。
 若いからといって彼の能力を侮るものはいない。
 父である前宰相の跡を継ぎ、もう七年になる。
「今年は、雪降らないかと思っていたよ」
 少年のような衣服をまとった少女は、にこっと笑う。
「雪が落ちてきたか」
 沖達はためいきをつく。
 華月は、火鉢の傍により、手をかざす。
 凍りつきそうに冷たくなっていた指先は、赤を通り越して、紫。
「あ、うん。
 ボク嬉しいな。
 これで、他のクニが攻めてこないでしょ?
 だから、雪が嬉しい」
 華月は言った。
 青年の鉄色の瞳は、竹でできた笛を凝視していた。
「沖達?」
 不安げに、少女は青年を見上げる。
「いや、少し考え事をしていました。
 確かに、雪の間攻めて来るクニはないでしょう」
 一騎当千と称えられる将でもある青年は断言した。
 パッと少女は顔を輝かせる。
 沖達の言うことに間違いはない。
 ことに戦や政で失策をしたことがない。
 海月の誇りであり、『月海』を贈るにふさわしい相手だった。
「冬の間の行軍は、無駄が多いのです。
 隣接している。
 強大な戦力を保持している。
 短期で攻落する自信がある。
 それでもなお、冬の間に軍を進める利点は少ない。
 もちろん、大陸南部であれば事情は変わります。
 現に、チョウリョウとギョクカンは交戦中ですね」
 淡々と沖達は言う。
「どうして戦うんだろう」
 華月は思う。
 クニを守るための戦いはわかる。
 先祖伝来の地を守ること、そこに住む人を守ること。
 そのために、戦場に立つ。
 けれども、他の領地を奪おうとするのは、何故なのだろう。
「正義は、人の数ほどあります。
 誰かの正義は、誰かの正義を踏みにじるものでしょう」
 沖達は火鉢に竹笛をかざす。
「弱さは、時に罪です。
 そういう時代なのです」
「このまま冬であればいいのに」
「そうしたら、種をまくことができません。
 収穫することもできません。
 人間は四季の中で生きているのだから」
 青年の細い指先は笛の具合を確かめる。
「あ、忘れてた」
 華月はおなかのところに隠し持ってきたみかんを二つ取り出す。
「はい。
 沖達、みかんが好きでしょ。
 二つもらったから、半分こ。
 一つあげる」
 少女はニコッと笑い、みかんを一つ差し出す。
「ありがとうございます、華月様」
 公式の場でするように、恭しく宰相はみかんを受け取る。
「沖達、竹笛なんて珍しいね。
 これから吹くの?」
「しばらく戦場へ赴くことはありません。
 鉄笛よりも、竹笛が好きなんです」
「へー、そうなんだ。
 ボクはただの扇よりも、鉄扇の方が好きだけどね」
 華月は言う。
 誰よりも早く大人にならないと。
 誰よりも強くならないと。
 少女は焦る。
 守りたいもののために、焦るのだった。
「久しぶりに沖達の笛が聞きたいな」
「かしこまりました」


 海月に雪が落ちる。
 それは凍死者が出ることを意味する。
 戦で死ぬのと、貧しさで死ぬのと、……どちらも変わらないだろう。
 どちらも辛く、どちらも悲しい。

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【03.玉棺王に寄せる】

 史書は曰く。
 ギョク・ライカイは、ギョクカンの王とも思えぬほど野蛮で、皇帝を詐称した愚かな人物であった。と。
 ライカイは敗者であり、歴史という舞台を途中で降りた役者である。
 彼の半生は、正妃の遺したただ一人の子どもであり、嫡男であったギョク・レイテイの手記からうかがうことができる。
 あとは、彼が皇帝の名で出した法令ばかりが残る。
 史書に編纂に当たった者たちの中に、ライカイに憐憫の情を持つ者がいなくはなかったが、それはほんの一握りのこと。
 ライカイ個人について好意的な文面を探すのは、難しい。
 チョウリョウ王朝の史書も、すでに御伽噺になりつつある。
 大陸史上、もっとも人民が豊かであった、その王朝。
 それに飲み込まれたギョクカンという地域の王。
 くりかえしになるが、ライカイは比較的恵まれている。
 列伝も立てられ、その編纂の冒頭を担当した執筆者が非常に好意的であったためだ。
 彼の名が史書に残された、その始めはこうである。

 ギョク・ライカイは、ギョクカン(後の双調)の人。
 黄武五年に、豪族ギョク家の長男として生まれる。
 黄武二十一年、ライカイ十七の歳に父を亡くす。
 ギョク家の総領となり、エイネン王朝に伺候する。
 鎮安将軍の官位を賜る。
 この秋、ライカイは皇女を賜る。
 御名を幽姫という。
 御歳十五歳の皇女であった。
 ライカイは至宝として、皇女に名を贈る。
 稀なる珠と書き、稀珠姫とする。
 後に、昭珠皇后と追贈する。

 当時のエイネン王朝は、腐敗の極みであった。
 皇帝の親政もなく、欲にまみれた官僚たちの限りの知ることない民への摂取で、その財政は成り立っていた。
 傀儡の皇帝たちの趣味は、子作りだといって過言ではない。
 昼間から後宮へ通い、飲めや歌えの大騒ぎが繰り広げられていた。
 ある年など、三人の皇女と二人の皇子が誕生したこともあった。
 毎年のように増える皇族であったが、何故か男児が育ちにくかった。
 正妃腹の二皇子を残し、成人することはなかった。
 後宮で生い育った皇女は五十人を数える。
 もちろん全ての皇女たちが、手厚く育てられるわけではない。
 生母の官位が低ければ、公主と認められることはない。
 幽姫も、名太傅と名を残すシャン・シュウエイの母も、そのような哀れな皇女の一人であった。
 姫と呼ばれるのがせいぜいの皇女たちの末路は、暗い。
 宮中でひっそりと暮らせれば、重畳。
 多くは謎の死を遂げ、残りは衰弱死する。
 劣悪な環境から、市井に出て物乞いになる者までいたという。
 幽姫とライカイの出会いは、どういったものか。
 史書には残されていない。
 二人の間に、どんな言葉が交わされたかも、残っていない。
 子であるレイテイが三つを数える前に、幽姫は儚くなってしまったためである。
 歴史が語るのは、ライカイが生涯にかけて、妻と呼んだのは一人きりであったということ。
 正妻、正妃、皇后。
 その位は全て幽姫のものであった。
 その事実だけが歴史に刻まれている。

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【04.命運のような白と黒】

 碁盤が鳴る。
 それは気持ちの良い、打ち据えるような音ではなく、どこか間の抜けた音だ。
 幼子が碁石をパチッと並べるのと同じ音だった。
 その音を聞いてた青年――ハクヤは、壷から白石を握る。
 パチンッ! と碁盤を鳴らし、打つ。
 無表情な青年は幼馴染みであり、主君を見やる。
 若者は困ったように髪に手をやる。
 癖の強い暗褐色の髪は、チョウリョウの民に多い髪質だった。
 若者――コウレツは、悩んだ末にパチッと黒石を置く。
 ハクヤは、遠慮なく白石を打つ。
 そのくりかえし、だ。
「ハクヤ。
 もしの話だ」
 コウレツは切り出した。
 青年は歳の近い主君を見つめる。
 言いよどむというのも珍しい。
 ずいぶんな用件を押しつけられるのだろう。
 そんな予感がした。
「俺が死んだら、どうする?」
 コウレツは言った。
 赤茶色の双眸は落ち着いていた。
「順当に、鳳の君にお仕えいたします」
 ハクヤは間を空けずに答えた。
 迷うような要素はどこにもなかった。
 コウレツには未だ子がない。
 やや病弱ではあるが成人した弟がいるのだ。
 兄の死後、弟が家督を継ぐのはそれほど珍しくはない。
「そうか。
 その言葉を聞いて、安心した」
 コウレツは破顔する。
「それは良かったですね」
 青年はうなずいた。
 ふと思いついたことがあったが、ハクヤは口を閉じた。
 戦場に一度も立ったことがない己が言うようなことではないだろう。
 ハクヤは碁盤の上を見る。
 黒石には逃げ場がなかった。
「勝負はついたようですね。
 コウレツ殿の負けです」
 青年は事実を告げる。
「そうみたいだな」
 ああ、と残念そうに息をつくと、コウレツは後ろに倒れこむ。
 ドサッと音がする。
 床に転がった主君を見ながら、ハクヤは思う。
 痛くはないのだろうか、と。
 敷物が敷いてあるとはいえ、下は冷たい石だ。
 硬く、寝心地はそれほど良いとは思えなかった。
「なあ、ハクヤ。
 鳳に嫌われたら、どうする?」
「嫌われるも何も。
 すでに嫌われています」
 ハクヤは壷に碁石をしまっていく。
「……何でだ?
 接点がほとんどないだろう」
 コウレツは肘をつき、体を少し起こした。
「さあ?」
「理由が思い当たらないのか?
 榻(長椅子)の参謀でも」
 興味を持ったのか、主君は嬉々として尋ねてくる。
「私が習家の嫡男であり、あのような父を持つからでしょう」
 ハクヤは白石を壷に落としていく。
 パチパチとぶつかり合う音がする。
「それはハクヤのせいではないだろう」
「私が従軍しないことも、理由の一つでしょう」
「それも、ハクヤのせいではないだろう。
 ハクヤの才は、我が軍の役に立っている」
 コウレツが言う。
「一番の理由は、私が気に食わないようです。
 私がいるために、コウレツ殿の役に立てないと思い込んでおられるようです」
 ハクヤは碁盤の中央に、黒石を集める。
「あの方は、複雑な思考を持っておられる。
 色々と大変なのでしょう」
 黒石を壷にすべて落とす。
「それでも、鳳に仕えてくれるのか?」
 コウレツが確認する。
「はい。
 あなたの死後に」
 ハクヤはうなずいた。
 そもそも「仕えない」という選択肢が与えられていない。
「約束だ」
 コウレツは言う。
「はい」
 かまわない、とハクヤは思い、うなずいた。
 碁盤の上に石の入った壷を二つ載せる。
 黒と白。
 まるで命運のようだ、とハクヤは思った。

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【05.嘆息】

 ある昼下がり、白鷹城に朱鳳から皇帝が訪れた。
 城主である大司馬は、それを出迎える。
 秋になれば兄弟になる二人である。
 意気投合……とは、ならないのが不思議なことであった。

「自分の存在意義が見出せなくなったか?」
 意地悪くホウスウは尋ねた。
 緑の瞳を持つ青年は堪えたそぶりも見せずに、首をかしげる。
 童子のようなそのクセは、だいぶ大きくなってから身についたものだ。
 そのことをホウスウは知っていたが、特に何も言わなかった。
「どうしてですか?」
 頑是無き子どものように、ソウヨウは尋ね返す。
 恵まれなかった幼少期を取り戻そうとするかのように、大司馬である青年は幼子のような真似をする。
「お前よりも剣に優れた者がいる。
 自信を喪失したか、と思っただけだ」
 ホウスウは言った。
「はあ」
 興味なさそうにソウヨウはうなずく。
 青年は、目の前に置かれた茶碗のふちをなぞる。
 黄金を帯びた鈍い緑の茶が波立つ。
 曖昧な色の瞳が嬉しそうに和む。
「では、私は何度も自信を喪失しなくてはなりませんね。
 それは大変です」
 ちっとも大変ではない口調で、ソウヨウは言った。
「世界で一番優れた剣客が、戦術に長けているとは限りません。
 いえ、大切なのは戦術ではありません。
 戦略もあるほうが良いでしょうが」
 ソウヨウは口元に笑みをはく。
 効果的に一呼吸置いて、
「大司馬に必要なのは、決断力です」
 顔を上げ、告げた。
 柔和な笑みのまま、その口調は力強い。
 大きくはないが、清涼感のある若々しい声はよく通る。
 それが言い切った。
 これから戦場へ立つ者にとって、どれほどの勇気となるだろうか。
 迷いのない眼差しに、酔ってみたくなる。
「なるほどな」
 ホウスウは微笑んだ。
「今更、どうなさったのですか?
 私は降格ですか?」
 微塵も不安に思っていないくせに、青年は問う。
「気まぐれだ」
「そうですか。
 鳳様は、変わっていますね」
 それも今更でしたね、と付け足すように呟く。
 ソウヨウの指先は、茶碗のふちをなぞり始める。
 波紋作りは、青年にとって楽しい遊びらしい。
 ホウスウは卓に肘をつき、ためいきをこぼした。
「自慢できるようなものを見つけるのは、難しいな。
 誰が見ても、そうだといえるような。
 一番になるのは至難だ」
「私は一つ持っていますよ」
 嬉しそうにソウヨウは言った。
 中途半端だといわれる色の目が、キラキラと輝いている。
「姫のことをこの世で、一番愛しているのは私です。
 これだけは譲れません」
 幸せそうにソウヨウは断言した。
 嵐色の目が微かに見開かれ、それは微苦笑となる。

 数年前、何も持たない幼い少年がいた。
 守るものも、大切なものも、執着するようなものも、持っていなかった。
 少年は多彩な能力を秘めており、その片鱗はすでに同世代を凌駕していた。
 成人した暁には、大陸史上に残るような優秀な暗器になるだろう、ということが一目でわかった。
 暗殺者になる者が、喉から手が出るほど渇望する能力をすでに、備えていたのだ。
 殺すには惜しかった。
 二人目を見つけるのは苦難な才能だった。
 けれども、そのまま利用することはできない。
 少年は諸刃の剣。
 何も持たないからこそ、紙の裏と表をひっくり返すように、簡単に裏切れる。
 脅しは効かない。
 弱点はない。
 自分の命すら執着していない。
 ホウスウが手始めに行ったのは、弱点作りだった。
 何にも執着しないなら、執着させればいい。
 利用しやすいように、自分の命よりも大切なものを作らせればいい。
 少年の心は小気味良いほど、空っぽだった。
 ホウスウの妹であるホウチョウは、うってつけの人物だった。
 我がままで、情にもろく、美しかった。
 ホウチョウに、心動かさない人間はいない。
 他者の心よりも、己を優先させる傲慢さ。
 他者の痛みを、己のように感じる繊細さ。
 ホウチョウと言葉を交わし、憎しみも、妬みも、怒りも湧かない人間はいない。
 少女は、実に無神経だった。
 ホウチョウと言葉を交わし、喜びも、希望も、憧れも湧かない人間はいない。
 少女は、実に人間らしかった。
 ソウヨウの空の心に、ホウチョウはさまざまな感情の種をまいた。
 徹底した主従関係の中、強制的に過ごした時間。
 一年経つころには、ソウヨウはホウチョウに惹かれていた。
 ほんの数年で、抜き差しならないところまで、少年は少女に執着した。
 ここまでは、ホウスウの読み通りだった。
 ホウチョウが、ソウヨウに惹かれたのは計算外だった。
 妹の好みは、父や兄のようなチョウリョウらしい男性だったはずだ。
 強い意志を持ち、求心力があり、武勇に優れている。矜持高く、強引な面を併せ持つ。
 それが蓋を開けてみれば、異なる結果に終わった。
 理由はわかっている。
 ホウチョウは状況に酔ったのだ。
 夢身がちな胡蝶は、物語のような恋に憧れていた。
 いつか、さらわれるようにして、愛を告げられたい、と心の隅で思っていたに違いない。
 さらに、ホウチョウは同情心が豊富だった。
 ソウヨウの身の上は、おあつらえ向きだった。
 自分が死ぬまで同情ができて、何でも言うことを聞いてくれる玩具。
 我がままな少女が手放すはずがない。
 他の女にくれてやるのは我慢ならないだろう。

 ホウスウはためいきをつく。
 二人の関係は果たして「恋」なのだろうか。
 他者に仕組まれて、計算された上で成り立つ感情。
 当人たちが幸せを感じているのだから、余計なお世話なのだろうが……、仕組んだ張本人は思う。
 これで良かったのだろうか、と。
 くりかえし、くりかえし。
 何度でも考える。

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【06.疾風よりも早く!】

「おい、どうする?」
 側の存在に問う。
 状況は逼迫していて、芳しいとはいえない。
 気弱な問いかけは、焦りが紡がせた。
 切り抜けられるのか。
 握りこまれた剣の柄は答えをくれなかった。
 緑の瞳が青い瞳を見つめる。
「突破する」
 明確な答えが返ってきた。
 表情と同じように、声に感情は読み取れない。
 青い瞳の少年、ヤオ・ケンソウはいつもそうであった。
 焦りとは無縁だ。
 ケンソウは、おもむろに外套の留め金を外した。
 丈夫な胸当てや足をおおう脛(すね)当ても脱ぐ。
 食料の入った麻製の袋も地面に捨て去る。
 身軽になった少年は、剣の柄を握りなおす。
 シデンもまた、それに習う。
 金を出して買える物を捨てていくのは惜しくない。
 これから、どんな金を積んでも購えないもののために、最大限の努力をするのだ。
「確かに」
 ユ・シデンは笑みを浮かべた。
 突破するしかない。
 いつまでも物陰に隠れていても、埒が明かない。
 敵が多数いる中に、置いていかれたのは不運だったが、隊長を恨むつもりはない。
 戦というのは、そういうものなのだ。
 自分の力で生き抜くことができない弱者が来る場所ではない。
 シデンもケンソウも志願して、ここにいるのだ。
 成人する前の子どもであるとか、異民族だとか、関係ないのだ。
 チョウリョウの名の下で戦う兵士。
 その事実は己が選び取ったもの。
「できるか?」
 シデンは尋ねた。
「やる」
 簡潔な答え。
 頼もしい戦友だった。
 その腕前は信頼を置くに値する。
 歳ばかり無駄に重ねた兵とは違う。
 ケンソウは自分と同じぐらいに強い。
 一人では絶望的な状況だが、二人なら違う。
 宙で二人の視線が会う。
 それが合図だった。
 少年たちは、生き残るために走り出した。
 前方。
 敵陣の層が最も厚い場所を狙う。
 ど真ん中、指揮官がいる中央を強襲する。
 否、突き抜ける。
 浮き足立つ敵軍。
 できる隙。
 指揮系統が狂う。
 統率のない軍など、無力。
 飛ぶ号令は、まちまちとなる。
 どれに従えば良いのか、下級の兵士たちはわからなくなる。
 剣も槍も振るえない。
 味方ばかりだから、味方を傷つけてしまう。
 シデンとケンソウは、たった二人だから相手を傷つけることはない。
 勝つつもりなどない。
 敵軍を殲滅するつもりもない。
 二人の少年は、生き残るために走っているのだ。
 チョウリョウ軍に合流するまで、敵軍を引き連れながら、全力で走る。
 馬で追いかけてくる将兵もいる。
 が、シキボは戦火にさらされる地。
 侵入を防ぐための手段は講じられている。
 馬防柵の他にも、天然の要害が存在していた。
 重たい防具を持つ敵の歩兵に追いつかれることはない。
 ただ、未来に命をつなぐために、走る。
 隊長は、少年たちを置き去りにした。
 シデンもケンソウも階級が低いためだ。
 犠牲を払ってまで、助けなければならない命ではない。
 隊長は一人でも多くの兵士を助ける義務を背負い込む。
 切り捨てられても当然の命だった。
 だから、少年たちは信じていた。
 合流すれば加勢してくれる、と。
 助ける必要がある。
 そう周囲を納得させるほどの価値が自分たちにあれば、良いだけだ。
 優勢な状況で、尻尾を巻いて逃げるほど、少年たちの隊長は馬鹿ではない。

 そして。

 チョウリョウの陣営が見えた。
 いち早く駆けてくる騎馬が一騎。
 槍につけられた細い布は、鮮やかな紅。
 それが絹で出てきていることを、二人の少年は知っていた。
 東南渡りの香りを好む騎馬の隊長は、大金持ちの坊ちゃんだった。
 統制の取れた一軍は、少年を綺麗に避けて、敵軍に向かう。
 号令らしい号令は飛ばない。
 ひづめの音と甲冑、得物の音が響くだけだ。
 ギョクカン軍とチョウリョウ軍がぶつかり合う。
 その中、少年たちは隊長に合流した。
 舞う土ぼこり。
 目を開けているもの大変だった。
 赤い髪をした大柄な隊長は
「お疲れさん」
 と二人を労った。
「ただいま、戻りました」
「はい」
 シデンとケンソウは背を伸ばし、答えた。
「今のうちに休んでおけ。
 ここから先は、まだ長いからな」
 隊長は軽く二人の背を叩くと、走り出した。
 軽くそりのついた曲刀が翻るのが、視界の端に見えた。
 シデンは足を引きずりながら、天幕へ向かう。
 隣を歩くケンソウの足取りは平常と変わらない。
 同じ条件だったはずなのに。
 恨みがましくシデンはケンソウを見た。
「何で、そんなに元気そうなんだよ」
 シデンはふてくされた。
 悔しくて仕方がない。
 三呼吸分の間のあと。
「しゃべる気力もない」
 ケンソウは言った。
 それがいつものように無感情だったから、シデンを口をへの字に曲げた。

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【07.静かなる追憶 (ワンシーン・バトンより)】

 都には毎日、伝令が届く。
 戦勝報告ばかりに、群臣たちは浮き足立つ。
 長かった戦が、華々しい終わりを迎えようとしていた。
 戦場に関わらない者にとって、自軍の損害はただの数字だ。
 人間の命ではない。
 一つ一つに同情を寄せていたら、気が狂ってしまう。
 戦争は大きな消費行動だった。
 命、武具を始めとして、市場が活発化する。
 ほどほどであれば、支出が少なく、大きな利を得られる経済活動だった。
 人民の思想を制御するのもたやすい。
 国内の不満を外敵への脅威に変えるのだ。
 結束力も高まる。
 勝ち戦は、良いこと尽くめだ。
 ホウスウはためいきをつく。
 届いたばかりの書簡を卓の隅に押しやる。
「もうすぐ終わります」
 祈るように指を組み、呟く。
 果たせなかった夢が近づいていた。
 志半ばで倒れた父と兄の描いた夢が、すぐそこまで来ていた。
 犠牲はまだ続く。
 早く、早くと天に祈る。
 一刻でも早く、と戦争の終結を祈る。
 直接、指揮ができないのが悔やまれる。
 戦場が遠すぎる。
 また家族を失ったら、自分は立ち続けていられるのだろうか。
 灰色みが強い茶色の瞳が書簡を見つめた。

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【08.もうすぐ果てる身体 (ワンシーン・バトンより)】

 殺されるつもりなどなかった。
 生きて、生きて、生き抜くつもりだった。
 死は遠く、自分にはないものだったと思っていた。

 それが

 今

 ここにある。

「そろそろ、決着をつけましょうか。
 晩ご飯に間に合わなくなってしまいます」
 緑の瞳を子どもが微笑む。
 自分の半分も生きていない子どもは、楽しげに剣を鞘払う。
 一閃。
 稲妻のように早く、癖のある剣筋がライカイを斬る。

 死は遠いものだと思っていた。
 それが目の前にある。
 ここで死ぬ。
 現実感のない現実だった。
 都からこんなにも離れた異国で、果てる。
 認められるはずもない。
 ライカイは曲刀を握りなおす。

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【09.死地に赴く (ワンシーン・バトンより)】

 石畳を歩いていくと、顔見知りとすれ違う。
「よ」
 カクエキは軽く手を上げ、声をかける。
「ご苦労だな」
 ねぎらいにも聞こえない声が言う。
 機嫌が悪そうなのは、焦りがあるせいだろう。
 冷静沈着と評判の同僚は、実のところ激情家だった。
「将軍は見つかんねぇけど。
 まあ、そろそろ行くさ」
 軽い口調でカクエキは言った。
「どこに行ったんだ、あのクソ餓鬼は」
 シュウエイは呪うように、低く呟く。
 かなり怒っている。
 ずっと捜していたのだろう。
 ちょっとばかり、気持ちはわかるが、深く同情する気もない。
 将軍という地位が胡散臭く見える青年相手に、どうこう言っても効果がない。
 カクエキも出立前の挨拶をしたかったが、時間切れになってしまった。
「将軍でも落ち着かないってことがあんだな」
「士気に関わる。
 恋愛するべき人種ではないな。
 この非常時に」
「何とかなるだろ。
 今まで、何とかなったんだ」
 カクエキは笑う。
 自分よりも4つも年下の少年の旗下になったときに、運命は定まったようなものだ。
 どこへ向かうか、決めるのはカクエキではない。
 カクエキは与えられた場所で、より良くなるように努力するだけだ。
「そろそろ行く。
 じゃあな」
「またな」
 憮然としたままシュウエイは言った。
 こんなときに別れの言葉を口にしたがらないのは、戦場に立つには甘い性格だからだろう。
 ずいぶん長い付き合いになったな、とカクエキは思う。
「そうだな」
 カクエキはうなずいた。

 それで二人は別れる。
 目的地の場所へと足を向けるのだった。

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【10.課せられた使命 (ワンシーン・バトンより)】

「あんまり頼みたくはないんだがな」
 カクエキは困ったように笑う。
 首筋をかき、それから配下を見た。
 成人したばかりの少年たちは、カクエキとは正反対に、背をピンと伸ばしていた。
 よく訓練された兵士らしく、真剣な面持ちのまま、上官の話を聞く。
 それが、カクエキに苦笑を浮かべさせる。
 自分がこれぐらいの歳には、命をやり取りする場所にいた。
 最前線に立つのに若すぎるわけではない。
 ただ、この二人に与える役目は大きすぎるような気がした。
 策は成功するだろう。
 計略の奇才が編み出した策略が失敗することはない。
 緑の瞳の青年が人的被害をどこまで勘定したのか。
 それがわからない。
「紆迅雷」
 カクエキは、字を呼んだ。
 真緑色の双眸が喜色で輝く。
「絲将軍より軍団長に任命された。
 1両(25人)を率いて、玉金麗の首級を上げよ」
 カクエキは、詳細の書かれた命令書と任命書をシデンに渡す。
 表情豊かな少年は、満面の笑みを浮かべる。
 常識では考えられない作戦も、やりがいのある任務に見えるのだろう。
 戦いに身を置き続けるシキボの民らしい、少年だった。
 カクエキは向き直る。
「耀秋霜」
「是(はい)」
 青い双眸の少年は短く返事をする。
「副官はお前だ。
 伯俊から何か言われるだろう。
 ありがたく聴いておけよ」
 カクエキは肩をすくめた。
「是」
 ケンソウは拱手する。
「初陣というわけだ。
 死ぬなよ」
 カクエキは二人の少年に声をかける。
「はい!」
「是」
 迷いのない返事が返ってくる。
 それに少しばかり、カクエキは慰められた。

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【11.引き裂かれた絆 (ワンシーン・バトンより)】

 自分が選んだ未来。
 それが辛い。
 ゲッカは幾何学模様の格子に近づく。
 玻璃のはまった窓の先、丸い月があった。
 窓枠に手をつき、遠い故郷を思い出す。
 チョウリョウの都の冬は、あたたかい。
 隙間風が床から忍び寄るけれど、凍りつくほど冷たくはない。
 綿の入った衣を重ねれば、耐えることのできる寒さだ。
 月の形は変わらないけれど、その色は違って見えた。
 チョウリョウの月は、しみじみとして美しい。
 人の命を奪ったりはしない、冬の夜。
 綺麗な綺麗な月だった。
 不吉さは欠片すらない。
 だから、ゲッカは悲しくなる。
 闇夜を照らす慈悲深さに、涙が零れそうになる。
 カイゲツと、何もかも違うのだ。
「沖達……」
 ゲッカはカイゲツの宰相の名を呼んだ。
 公私に渡り、何でも面倒を見てくれた青年は、元気だろうか。
 雪に閉ざされたあのクニで、今日も死者の数を数えているのだろうか。
 一つでも多くの命を救おうと、自分の時間を削っているのだろうか。
「ごめんなさい」
 全てを押し付けてしまった。
 きっと苦労している。
 誰にも文句を言わずに、与えられた役目をこなしている。
 自分のためではなく、カイゲツのために。
 ゲッカは謝罪の言葉しか、見つけられなかった。

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【12.払拭した過去 (ワンシーン・バトンより)】

 かつて、それは飾りだといわれた。
 黒塗りの鞘、緑柱石、翠玉が埋め込まれた柄。
 剣と呼ぶにはやや小ぶりで、小剣と呼ぶのが似つかわしいそれ。
 ためいきが零れるほど美しい宝剣。
 その切れ味を知る者は、あまりに少なかった。
 持ち主が鞘を払うことが、少なかったからだ。
 幼くして、将軍位を賜ったため、実戦経験は数えられるほどしかなかった。
 安全な本陣で、あくびをくりかえしている。
 鳳の君のお引き立てで、官位を賜った。
 ただの書生。
 シキボの総領でなければ、緑の瞳を持っていなければ、出世ができなかっただろう。
 多くの者が、愚かにもそう思っていた。
 緑の瞳を持つ者は、人ではなく化け物だと知らなかった。
 息をするように、自然に人を殺すモノだと知らなかった。
 
 その戦場は、運悪く混戦となかった。
 
「お逃げください!」
 護衛として控えていたフェン・ユウシが叫んだ。
 青年自身も、少なからない傷を負っていた。
 敵味方が入り混じる場所で、剣を振るうのは、多大な集中力と判断力を必要とする。
 剣筋が少しでもズレれば、味方を斬ってしまう。
「逃げるといっても、八方塞ですよ」
 暢気にソウヨウは笑う。
 剣から朱色のリボンをほどくと、一気に鞘払う。
「片付けてしまいましょう」
 簡単に少年は言った。

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【13.永劫回帰 (ワンシーン・バトンより)】

 運命だ、とささやかれた。
 一目でわかった。
 ひづめの音がした。
 金属が打ち合う音がした。
 人の叫び声がした。
 訓練とは違う、本物の音だった。
 ホウチョウには馴染みのないものだった。
 怖い、はずの音だった。

 怖くなかった。

 近づいてくる一騎。
 それが彼だとわかった。
 ずっと会いたかった。
 どうしているのか、知りたかった。
 笑っているのか、気になった。

「シャオ!」

 ホウチョウは名を呼んだ。
 シキョ城でそうであったように、紅の衣をまとった乙女は駆け出した。
 ひらりと薄布が滑り落ちる。
 ホウチョウは、秋にしては強い日差しを受ける。 
 緑とも茶色ともつかない綺麗な色は、少しも変わっていなかった。
 それが嬉しくて、ホウチョウは笑う。
 差し伸ばされた手をつかむ。

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【14.嘘 (ワンシーン・バトンより)】

 オウ・ユの屋敷は、いつでも琴の音がした。
 皇帝から玉のようだと寿がれた主人の腕前もさることながら、文人墨客たちも腕を競い合う。
 遠方から訪れる者も少なくなく、ちょっとした社交場のようになっていた。
 顔ぶれも様々で、共通点があるとしたらただ一つ。
 琴が好きだ、ということぐらい。
 義理の娘であるリョウジも、大人たちが出入りする環境に慣れていた。
 育ちきっていない両の手の平を広げて、琴の糸を弾いていく。
 曲と呼ぶには、まだ滑らかさの足りない音が紡がれていく。
 童女の側で、その様子を見守っているのは養父ではなく、若い男だった。
 ハンチョウと呼ばれる若者は、北方の血を感じさせる色の瞳を細める。
 稚い存在が一生懸命に譜を追うのは愛らしい。
 手をいっぱいに広げて弦を押さえるのは、可愛らしい。
 最後の一音が宙に溶けた。
 演奏をどうにか終えた童女は、不満げな表情を浮かべる。
 童女の大きなためいきをかき消すように、ハンチョウは拍手を送る。
 冥い青の瞳がギロリと若者をにらみつける。
「同情はいりません」
 リョウジは言った。
「拍手に値すると思ったから、拍手をしただけだ」
 ハンチョウは微笑む。
「子どもだからと、馬鹿になさっていますのね。
 私は私というものをよく知っています」
「人という生き物は、自分が思うほどには、自分というものを知っていないものだ」
 若者は気にせず、琴にふれる。
 撫でるように弦にふれ、何音かを鳴らす。
 その音に、童女は大きなためいきをついた。
「あなたから褒められても嬉しくありません」
「それは嘘だよ、リョウジ。
 褒められて嬉しくない人間はいない」
 ハンチョウは微笑んだまま言う。
「私のようなつまらない者でも、自尊心というものを持っておりますの」
 童女は傷つけられた、とそっぽを向く。
 大人ぶった物言いに、歳相応の反応の差がおかしくて、ハンチョウは声を上げて笑った。

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【15.約束 (ワンシーン・バトンより)】

「もう、花薔薇も終わりね」
 薔薇と同じ色をした空の下、少女は言った。
「はい」
 少女よりも小柄な少年は、うなずいた。
 葉は緑から、赤紫へと変わっていた。
 間もなく、枝は葉を落とすだろう。
 橙色の花薔薇も、数えられるほどしか咲いていない。 
 冬の足音が近づいていた。
「お母様はこの花が大好きなのよ」
 男のような格好をした少女は、薔薇よりも鮮やかに笑う。
 肩口で切りそろえられた髪がサラサラと流れて、綺麗だった。
 夕焼けの中、もっと赤い。
「わたしも大好き」
 ホウチョウは二つ名の通り、気ままに歩き始める。
 ソウヨウは慌てて、それを追いかける。
 薔薇を縫うように敷かれた小道を二つの影が歩いていく。
 一つは弾むように、もう一つはまごまごと。
 背の高さ分、歩幅が違う。
 同じ年頃の少年と比べても、まだ背が低い少年にとっては、歩くというよりも小走りといった雰囲気となる。
「シャオは?」
 ホウチョウは唐突に振り返る。
 赤メノウのような瞳がソウヨウを見つめる。
 花など、どれも同じだった。
 食べれるのか、薬になるのか、そうではないか。
 その区別しかなかった。
 答えは一つ。
「好きです」
 ソウヨウは答えた。
 チョウリョウの長であるシユウが最も愛する子ども。
 それに逆らう理由はない。
 ソウヨウの答えで、シキボの命運は決まる。
 少年は、どんな問いかけにも「はい」と返事をしなければならない。
「本当?」
 胡蝶の君は、パッと喜色を顔に浮かべる。
 無防備で、無頓着な笑顔だった。
「じゃあ、来年の花薔薇も見ようね!
 約束よ」
 ホウチョウは言った。
「はい」
 ソウヨウは考える前に、うなずいた。

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【16.誰かのための蓮の花】

 チョウリョウの太師、露禽といえば棋の名人であった。
 若き頃は奇抜な派手好みであったが、歳とともにその腕前は秋の時分の月のように冴え渡り、今では皇帝陛下の指南まで勤めている。
 もっとも当の陛下は棋はたしなむ程度で、生きた人間で行う陣取り合戦のほうが得意であった。
 第一、続々と納められる美姫の扱いに難儀している有様なので、自然と露禽が棋を教え子が妹公主となるのはいたし方がないことなのかもしれない。
 十六夜公主と呼ばれるホウチョウは、昼下がりに露禽から棋を習う。
 茶と菓子が用意されたそれは、和やかなお茶会のようだった。
 そして、後宮では密やかに噂が一つ広がるのだった。
 露禽の供としてついてくる嫡子の伯夜と奥侍女のメイワの。


 碁盤越しに伯夜とメイワは向き合う。
 勝負はすでについており、片付けるわけではなく、石はそのままに置かれていた。
 緑陰の中でも、明暗はくっきりと残る。
 黒も白も譲ることなく、存在していた。
「そろそろ蓮も終わるころですわね」
 メイワは微笑んだ。
「女性というのは花が好きなのだな」
 どこか不思議そうに、伯夜は言う。
 家柄と持って生まれた容貌で、後宮中の女性の視線を集める青年は、無頓着にメイワに笑いかける。
 伯夜は戦場に立たないせいか、荒々しくない雰囲気を身にまとっていた。
 それでいて、文官たちが持つような陰りを持たない。
 苦労を知らない育てられ方をした、良家の青年らしい青年だった。
 実家と鷲居城しか知らない女性が夢中になるのも、わからなくはない。
「ええ、殿方よりも美しいものが好きなようですわね。
 花を見ていると心が華やぎませんか?」
「毎年咲くものだ。そして、枯れる」
「そうですわね。
 だからこそ、美しいのでございましょう」
 メイワは視線を転じる。
 季節は夏。
 去り行く夏である。
 もっとも華やかで、もっとも熱い色に花が染まる季節だった。
 ここよりは愁う色合いがしのびやかに迫ってくるのだから、やはり壮絶な美しさであった。
「花は所詮、花だ。
 実を結ぶために存在しているだけだ」
 青年は事実を無骨に告げる。
「お嫌いですか?」
 メイワは伯夜を見た。
「……考えたこともなかったな。
 女性というのは不思議な考え方をする」
「伯夜殿から見れば、誰もが不思議な考えを持っていることになるのでしょうね」
「花を好きか、嫌いかと言われれば、わからない。
 どちらでもないが正解だな」
 伯夜ははっきりと言った。
 メイワが城に上がってから、もう何年になるのだろうか。
 幼なじみと言っても良いような青年は、物事を断言しすぎる傾向にあった。
 他人の話を聞かない父を持てば、子どもはこうなるのかもしれない。
「蓮というのは特別な花だろうか?」
 伯夜は尋ねた。
「さあ」
 メイワは言葉を濁した。
 噂話の範疇であれば、蓮には物語が絶えない。
 翼夫人が侍女であった頃の名がそうであった、と。
 茶とも緑ともつかない瞳の少年が、それに因んだ名であった、と。
 皇帝陛下が好む花がそれである、と。
「ただあのように咲く花は、珍しいですもの。
 強く心に焼きつく花であることは、確かですわ」
 最も苛烈な季節に、泥の中で咲く花。
 自己主張の強い花だった。
「メイワが好きだというなら、家に咲く花を一株譲ろう。
 何色が好きなのだ?」
 あっさりと伯夜は言った。
 色素の薄い目を丸く開いて、メイワは息を飲み込んだ。
「お気持ちは大変嬉しく思いますが、こればかりはご辞退させていただきますわ」
 何でも知っている年長の男性が、『うっかり』と口にしたのは驚きの言葉だった。
 色事師と呼ばれた父を持っているというのに。
「ああ、なるほど。そういうことか。
 蓮に魚か。
 古い詩だな」
 舟を出して蓮を取る。
 そこには蓮と戯れる魚がいる。
 恋人を探す暗喩となり、蓮は恋人に贈る花の一つに挙げられている。
「侍女には必要な知識ですわ」
 主と同等の教養を求められるのが奥侍女だった。
 幼い主君を導くために、遊び相手として、勉強相手として、付けられる。
「他意はない。
 無駄に咲いているから、一株ぐらい減ったところで父上も気づかないだろう」
 伯夜は言った。
「いけませんわ。
 それは太師が奥方のために、植えられたに違いありませんもの」
「気にする母ではない」
「伯夜殿の未来の奥方が気になさるでしょう。
 結婚前に浮名を流すのは、ほどほどにいたしませんと」
 メイワは微苦笑した。
 強固な婚姻を結ぶチョウリョウであっても、例外は存在する。
 それゆえの後宮。
 花園は、隠れ蓑にはちょうど良い。
 妙に働き者の蜜蜂が、あちらこちらの花粉をまとうこともある。
「私は別にメイワでもかまわないのだが、運というものだな。
 あの父とあの母と上手くいく妻であれば、誰でもかまわない」
 花嫁探し中の青年は言った。
 チョウリョウを支える柱の一つ、習家の嫡男。
 幼い頃からの婚約者がいてもおかしくはない家柄だったが、女親の方針で決まっていない。
 政略的ではなく、心から配偶者を見つけて欲しい。
 そんな切なの願いがこもっていることを、消息通であれば知っていることだった。
「正式にお決めになりましたの?」
「母に任せてある」
 伯夜は簡潔に答える。
「それで良いのですか?」
「私は仕事があるから、家を空けることも多い。
 一緒にいる時間は短いだろう。
 母と円満な関係を築けるというのならば、それでもかまわない。
 それに……」
 伯夜は苦笑らしきものを浮かべた。

「これまで『運命』というものに出会ったことはない」

 気負いなく伯夜は言った。
 チョウリョウの民は『運命』の出会いを体験するという。
 一生に一度の愛を誓うような存在に出会うという。
 メイワはすでに、その『運命』と出会っている。
 おそらく主君である十六夜公主も、『運命』を手にしている。
「いつか、お会いできますわよ」
 メイワは言った。
「そうだな」


 運命の出会いまで、あと少し。
 伯夜は父の反対を押し切り、最愛の女性を妻に迎えることとなる。
 そして、メイワも初めの約束どおり、運命を手に入れるのだった。

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【17.見果てぬ夢】

「ねえ、メイワ」
 女主人は真剣な瞳で尋ねる。
 赤瑪瑙のような美しい双眸に見据えられると、何もかもを話してしまいたくなる、と言ったのは遠い過去の人。
 破邪の姫君の異名を持つ乙女は言う。
「メイワは伯俊と結婚して、後悔している?」
 ホウチョウの問いに、メイワは手を休める。
 文様と呼ぶには、まだ足りない刺繍に目を留めて、笑みを浮かべる。
 退屈な針仕事も話し相手がいれば、楽しい時間になる。
 メイワは城に上がってから、退屈を覚えたことはなかった。
「姫は、白厳様に嫁ぐことを後悔なさいますか?」
「いいえ」
 ホウチョウはきっぱりと言った。
 その手元には、深い藍染めの布があった。
 絹織物に、大胆な線だけになった鷹が空を舞う文様が浮かび上がっている。
 緑の瞳を持つ大司馬に似合う色と紋だろう。
「初めから決まっていることに、後悔なんてしないわ」
 エイハンの血を引く乙女は、未来を見知っているかのように言う。
 初めから決まっていた。
 そう言い切る強さは誰もが持つものではない。
 運命は傷つきやすく、約束はもっと壊れやすい。
 肩を並べて笑いあった友人が、明日にはいないということも不思議ではない。
「メイワは後悔している?」
 同じ問いをくりかえす。
 正直に答えなければいけないことに、メイワは苦笑した。
「していますわ」
 ほどなく夫の耳に入り、若き将軍は軽い失望を覚えるかもしれない。
 どこかで「そうであって欲しい」と願う贅沢な自分がいる。
 予想通りと平然とされたのでは、つかみどころがなくなってしまう。
「結婚しても一番になれませんでした。
 それが……少しばかり悔しいですわ」
 夫が最優先にするのは、メイワではない。
 その事実が寂しい。
 知っていたことだし、理解していたことだった。
 だから「少しばかり」悔しいのだ。
 深い落胆はない。
「伯俊の一番はメイワじゃないの?」
 赤瑪瑙の瞳を瞬かせ、ホウチョウが尋ねる。
「ええ、一番じゃありません」
「メイワは怒らないの?」
「形がありませんもの」
「どういうことかしら?」
 ホウチョウが小首をかしげる。
「見果てぬ夢には、形がありません」
 メイワは言った。
 夢を追いかけ続けている人の一番にはなれない。
 よく知っていたことだし、よく理解していたことだった。
「その夢は終わるのかしら?」
 乙女は純粋に問いを重ねる。
「終わらないから、見果てぬ夢なのですわ。
 新しい夢が次から次へと生まれますもの」
「伯俊はそういう人間のようには見えなかったわ。
 まるで父様たちのようね」
「そうですわね」
 メイワは笑みを浮かべたまま、うなずいた。
 夢の叶う瞬間を間近に見てしまうと、そこから逃げ出すことができなくなるのだろう。
 見果てぬ夢を追いかけ続けることになるのだろう。
 メイワ自身もそうなのだから、夫ばかりを責めることはできない。
 奇跡のような恋を終わりまで見届けたい。
 そう思っている。
 全身全霊で思われることを。
 同じ強さで思い返すことを。
 そんな奇跡のようなことを。
 当たり前だと思っている乙女は微笑む。
「メイワは幸せ?」
「はい。とても」
 メイワは断言した。
 一番にはなれなかったけれど、幸せになった。
 願いのすべては叶わないけれど、祈りのすべては無駄ではないことを知って。
 思うだけではなく、思い返されることを味わって。
 信じることができて。
 幸せになった。
「そう、良かったわ」
 気になっていたの、と乙女は言った。
「ありがとうございます」
 メイワは言った。

 袖を通す人のことを思って、続ける針仕事に苦痛はない。
 何より話し相手がいる。
 退屈を覚える暇などなかった。

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【18.区別のつかない夢】

 咳払いをして入室をすると、部屋の主は起きていた。
 寝着のままであったが、椅子に腰かけていた。
「おはようございます」
 モウキンは言った。
 寝坊で有名な大司馬が目覚めているのは、珍しかった。
 平穏なときであればあるほど、シ・ソウヨウという人物はよく眠る。
 南城から、都へ戻ってきてからは、より顕著な傾向であった。
 空の色はまだ夜だ。
 朝告げ鳥が鳴いたばかりの時刻。
「……」
 曖昧といわれる瞳が旗下を見た。
 力なく……笑おうとして、青年は笑わなかった。
 表情が作れなかったのだろう。
 カランと抜け落ちていた。
「今日は、ずいぶんと早く目が覚めたようですね」
 副官は言葉を続ける。
「夜半に目が覚めてしまいました」
 ソウヨウは言った。
 感情が乏しく、強弱のない話しぶりは、将軍位を賜ったばかりのころを思い出させた。
「そうですか」
「もう一度、目を閉じる勇気もなく。
 そのまま……朝が来てしまいました」
 聞き落としてしまいそうなほど、小さな声で青年は言う。
「どちらが夢なのか。
 私にはわかりません。
 今も、夢を見続けているのか」
 ソウヨウは立ち上がり、木戸を押しやる。
 寝室に幽かな明かりが入る。
 朝と呼ぶには弱々しい光だったが、それでも灯燭とは違う色をしている。
 停滞していた空気が動き出し、風が起こる。
「どんな夢を見られたのですか?」
 モウキンは尋ねた。
「鷲居城の眺めは、あまり変わりませんね」
 ソウヨウは窓の端に手を乗せて、呟く。
「初めて見たときは、華やかな色使いに驚きました。
 別の世界だと思ったものです」
「大司馬」
 思い出話を始めようとする青年を呼び止める。
 腰まで届く長い髪が揺れる。
 樫の木色のそれは、長さも色合いも鳥陵の民のものとは、だいぶ趣が異なる。
「モウキン殿と話していたら、だいぶ目も覚めました」
 ソウヨウは振り返り言った。
 緑の色を含む瞳には感情が乗っていた。
「今日も、嫌な朝ですね。
 どうして朝議は朝するのでしょう。
 昼から始まるなら、もう少し眠っていられるのに。
 鳳様もせっかちですね」
 大げさにためいきをついてみせる。
 身近にいる者の頭痛の種になるような仕草だ。
 それは緑の瞳の大司馬と呼ばれる、青年らしい態度だった。
 覇気がない。やる気がない。子どもじみている。
 いつものシ・ソウヨウの姿だ。
「そうは思いませんか?」
 ソウヨウは尋ねた。
「こればかりは、地が定まって以来の約束事ですから。
 陛下とて、変えるわけにはいかないのでしょう」
 モウキンは答えた。
「鳳様にもできないことがあるんですね」
「それは、陛下とて人の子ですから。
 天地の法則まで捻じ曲げることはできないでしょう」
「それをあの方なら、やってのけると思いませんか?
 平然な顔をして言うんですよ。
 『やってみたかっただけだ』って。
 鳳様ができなかったものなんて、私には見当がつきませんよ」
 やらなかった、ことならいくつかありそうですけど。
 と、青年は楽しげに笑う。
 モウキンは卓に乗せられている螺鈿の箱を開く。
 漆塗りも麗しい箱の中には、前夜に女官が揃えた衣服が入っている。
 大司馬であるシ・ソウヨウの身支度は、モウキンが手伝う。
 女性を使うことに慣れないのか、大司馬府を鷲居城に開いてから女官を置かない。
 あるいは婚約者に気を使っているのか。
「私とは違うんです」
 用意された衣に袖を通しながら、ソウヨウはポツリと言った。
「大司馬は、果たせなかったことがあるのですか?」
「そうですね。
 ……できなかったことが、思いつきません。
 だいたいのことが、望みどおりになったということでしょうか?」
 思い通りの人生を歩んできたにしては、醒めた目で青年は笑う。
 多くを諦め、望むことをやめてしまった者のような。
 熱のない色をしていた。
「幸せな人生というものです。
 ただ、時折――」
 ソウヨウは窓の向こうを見やる。
「これが現実なのか、夢なのか。
 わからなくなるんです」
「現実ですよ」
 モウキンは断言した。
 青年は小首をかしげる。
 それから、己の副官を見てうなずいた。
「ええ、そうですね」
 迷路を抜けた子どものように、ソウヨウは笑った。

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【19.涙】

「ごめんなさい」
 途切れ途切れに少女は言う。
 すべらかな頬を真珠のような涙が伝う。
 ポロポロと。
 大きな瞳から零れては、肌を伝い、衣に染みこみ、地面に吸いこまれていった。
「ごめんなさい」
 子どもらしい純粋さでゲッカはくりかえす。
 混じりけのない黒い目がロウタツを見上げる。
 小さな手が伸ばされる。
 育ちきっていない細い腕が男をつかむ。
「ごめんなさい」
 それしか言葉を知らないように、少女は言う。
「華月様」
 男は膝を折る。
 衣を通して、地面の堅さを感じる。
 それは磨き上げられた宮廷で膝を折るよりも、はるかに自然なことだった。
 男は何年も少女に仕えてきたのだから。
 まだ『華月』という字を授けられる前から。
 少女が『月姫』と呼ばれ、皆から可愛がられていた時から。
 長いこと見てきた。
 瞳孔と虹彩の区別がつかないほど、真っ黒な双眸を。
「ごめんなさい」
「何に謝るのですか?」
「沖達に。
 ボクはずっと謝らなきゃいけなかったんだ」
 零れる涙の合間に、言葉が降る。
 細い腕が男の首に回される。
 母親が、泣く我が子を抱きしめるのに似た仕草だった。
 歳上なのは自分のほうで、泣いているのは少女のほうなのに。
 ロウタツの胸におぼろげな像が結ばれる。
 今は遠すぎる過去。
 泣く自分を、海へ還っていった母は、こうして抱きしめてくれたのだろうか。
 ほのあたたかい涙がロウタツの肌に衣に染み渡っていく。
「ボクが泣くなら、沖達は泣けなかったんだ。
 本当はとっても悲しかったのに。
 カイゲツが消えて、悲しかったのは、みんな一緒だったのに。
 沖達だけは泣かなかった。って。
 みんなは責めるけど、沖達は泣きたかったんだよね」
 子ども特有の高い声が耳に響く。
 涙は止まったのだろう。
 声には、淀みがなかった。
「華月様の思いこみでしょう」
 ロウタツは言った。
「ボクが総領になる時、沖達は言った。
 人前で涙は見せないように、って。
 それが総領になる条件だった」
「酷なことを申し上げました」
 あのとき少女は八歳だった。
 母を知らず、父を亡くしたばかりで、頼れる親族もいない子どもに突きつけた条件。
「きちんと本に書いてあったよ。
 人の上に立つ者は、怒ってもいいけど、泣いちゃいけないって。
 誰か一人だけを同情してはいけないって。
 だから、だから」
 ゲッカはわずかに体を離し、男の顔を見る。
「華月様は立派な総領でした。
 今でも、そう思いますよ」
 カイゲツという小さなクニは、鳥陵によって呑みこまれた。
 最後の宰相は、最後の総領を見つめ返した。
「本当は沖達も泣きたかったんでしょう」
 ゲッカは言った。
「いいえ」
 ロウタツはきっぱりと答えた。
「やらなければならないことが山積みでした」
「一番、悲しかった人が泣かなかったなんて変だよ。
 沖達は自分の命が惜しくないほど……カイゲツを愛していたんでしょう?」
 ゲッカの言葉がロウタツの心を打つ。
「確かに、命は惜しくありませんでした」
 小さなクニだった。
 ちっぽけなクニだった。
 生まれて育ったクニだった。
 父も母も、その前からも、カイゲツで生まれ、カイゲツの大地になり、海になった。
「ですが、私は皆ほどカイゲツを愛していなかったのでしょう。
 だから一番ではありません」
 カイゲツは、鳥陵の海月郡となった。
 郡を治める長官として任命されてからの生活は、カイゲツの宰相だったころと似ていた。
 そこに総領としての少女がいるか、いないか。
 その声を聴くか、聴かないか。
 その笑顔を見るか、見れないか。
 記憶力が良いのは幸いなことだ。ロウタツは過去の像を結ぶのが得意だった。
 少女の笑い声が聞こえた。少女の姿を城の端々で目にした。
 女神たちの加護から遠い身の上だというのに、不思議なことだった。
 まるで大きな腕で包みこまれているように、後悔が打ち寄せてきても、涙を流すほどの悲しみが襲ってくることはなかった。
「ごめんなさい」
「謝らないでください、華月様」
 ロウタツは、まだ幼さが抜け切らない少女を抱きしめた。
「どうしてみんなは、沖達のことがわからないんだろう。
 悲しみも苦しみも知らない人間なんていないのに。
 辛いことを知らないに人間なんていないのに」
「私は鈍感にできているのでしょう」
「だったら」
 ゲッカがぎゅっと抱きついてくる。
「そっちのほうが、もっと悲しいよ」
 少女は言った。
 男はためいきを噛み殺し、微笑んだ。
 小さな少女の頭には、燦然と輝く冠が見える。
 天から降された王者の光だ。
 仁愛をもってして、国を治めれば、富み栄えるだろう。と賢者たちは言う。
 カイゲツというクニが消えてしまったことが惜しまれる。
 王者がいるというのに、治める大地がない。
「ごめんなさい」
「もう謝らないでください。
 少なくとも、今の私は悲しくはありません」
 ロウタツは言った。

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【20.思い出が呼ぶ】

  『シャオ』


「どうしましたか?」
 副官の声で、ソウヨウは我に返る。
「いえ、何でもありません」
 十四歳の将軍は、微笑を浮かべた。
 心配げな副官にソウヨウは「何でもありません」と念を押す。
 それから卓に飾られた花瓶に目を移す。
 鴛鴦が生き生きと描かれた大きな花瓶には、真っ白な花薔薇が活けられている。
 今年、初めて咲いた白の花薔薇だろう。
 薄絹を重ねたような花弁は美しく、ふれれば散ってしまいそうだった。
「朝と夕では活けてある花が違うというのは贅沢ですね」
 ソウヨウは言った。
 部屋を出る前に飾られていた花は小さな百合の花だった。
「薔薇はお嫌いですか?」
 モウキンが尋ねる。
「好きですよ」
 ソウヨウは微笑みながら椅子に腰かけた。
「一番、好きな花です。
 だから、この花瓶の中身は変わってしまったのですか?
 将軍というのは凄い地位ですね」
 クスクスと少年は笑った。
 壮年の副官は困ったような表情で、部屋の位置口近くで控えている。
「『ありがとう』と、伝えてください。
 花を活けた方に」
「かしこまりました」
 モウキンはうなずく。
「花はみな綺麗なものですが、花薔薇は格別ですね」
 ソウヨウはささやいた。
 どの花も同じ。時期が来れば咲いて、散って、土に還る。
 けれども、花薔薇だけは別だ。
 咲けば嬉しいと思う。
 それは少女が喜んでいたからだ。
 散れば悲しいと思う。
 それは少女が寂しがったからだ。
 今は……ずいぶんと遠く離れてしまった。
 二つ歳上の少女がいる場所では、まだ花薔薇は咲いていないだろう。
「白が良いですね」
 赤でもなく、黄でもなく、薄紅でもない。
 真っ白な薔薇。
 少女が好んだのは秋に色を深くする橙色の花薔薇であったけれど。
 ソウヨウが少女に贈るのなら、真っ白な花薔薇にするだろう。
 一点の穢れもない、純白。

    『シャオ』

 想い出が、もう一度呼ぶ。
 どんな弦楽器でも敵わないほど、美しい声が呼ぶ。
 返事は、喉で殺される。
 花瓶に活けられた花薔薇は続きを告げることはない。
 知っていたから、少年は微笑むに留まる。
「綺麗な花ですね」
 ソウヨウは呟いた。
 思い出してしまうほど、綺麗な花だと感じた。
 不思議と涙は零れない。
 普通の人間であれば泣くようなところなのだろう。
 そう考えるのに、ソウヨウの目は乾いていた。
 奇妙さを覚えながら、少年は副官に言った。
「私の部屋の花瓶に活ける花は、花薔薇に。
 花が咲いている時期は、毎日花を活けてくださると嬉しく思います」
 思い出すのは不快ではない。
 少女と、つながっているのだと感じられるから。
 次に会うことができなくても、思い出をくりかえすことはできるから。
 だから花薔薇が良い。
 花薔薇だけが良い。
 ソウヨウは思った。

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【21.進むべき道】

 花薔薇の院子は恋人たちの貸し切りの院子。
 朝と呼ぶには遅く、昼と呼ぶには早い時間。
 朝議が終わった緑の瞳の大司馬が白鷹城で一番ゆっくりできる時間だった。
 天候に恵まれればこうして焦がれた人と散策もできる。
 花たちの香りに包まれながら、一歩ずつ進む。
「こういうことを幸せっていうのね」
 と乙女はしみじみと言った。
「私も幸せですよ」
 ソウヨウは言う。
「お揃いね」
 ホウチョウはソウヨウを仰いで笑顔を浮かべる。
 世界で一番、綺麗な赤瑪瑙のような瞳がソウヨウをとらえる。
 何度も、何度でも、恋に落ちる。
 その瞳がソウヨウを映す。
「はい、お揃いです」
 ソウヨウは作り物のではない微笑みを見せた。
 目の前の乙女だけに時折、見せるものだった。
 それは子ども時代と変わらないもの。
 まるで二人の間に流れていった時間はなかったように。
 おままごとをしているような恋だとしても。
 それが二人らしいものだ。
 すでに真字を知っているというのに、手すら繋がない。
 ただただ並んで花薔薇の院子を共に歩く。
 それも他愛のない話で占められる。
 白鷹城の廊下で話していても、誰も気にしないような。
 内緒話でも、秘密話でもない。
 日常の細々とした話。
 胸の内に浮かんだ想い。
 二人はのんびりと花薔薇の院子で言葉を交わす。
 造り物だった未来ではなく。
 紛い物だった明日ではなく。
 今も幸せだと感じる。
 この時間は尊いものだった。
 ソウヨウは壊れそうな幸せを噛みしめた。
 たとえ明日が砂のように、すり抜けていく物だとしても。
 血にまみれた物だとしても。
 進むべき道が茨だらけだとしても。
 今、この瞬間の幸せは誰にも奪わせない。
 ようやく手に入れたものなのだ。
 これからどんな困難があろうと乗り切れる。
 独りではない。
 二人だから強くあれる。
 花薔薇が競い合って咲く院子で二人は並んで散策する。
 まるでどこにでもいる普通の恋人同士のように。
 幸せを感じながら。

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【00.タイトル】

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