第百章

「ただいま、戻りました」
 ソウヨウは言った。
「お帰りなさい」
 ホウチョウは微笑んだ。

 花薔薇の院子。
 咲き乱れる花薔薇の中で。
 ようやく、帰ってきた気分になる。
 ソウヨウは安堵した。
 彼女のいるところが自分の帰る場所だ。
 それを再確認する。
「千里が亡くなったそうね」
 ホウチョウは言った。
 その口調は責めるものでもなく、確認するでもなく。
 まるで、天気の話をするように自然だった。
 だからこそ、余計にソウヨウにとって責め苦だった。
「はい。
 ……間に合いませんでした」
 ソウヨウはうつむいた。
 赤瑪瑙の瞳を見つめ返すことができなかった。
 その資格が自分にはないように思えた。
「シャオ。
 私にまで嘘をつかなくてもいいのよ」
 ホウチョウは労わるように優しく言った。
 ソウヨウの心臓がドキリッと跳ね上がる。
 嘘をさらに嘘で固めようとして、ソウヨウが口を開くよりも先に、ホウチョウはソウヨウの手を取った。
 真っ白な手がソウヨウの手を撫でる。
 穢れない手が、血で汚れた手を包み込む。
「シャオはシャオだから。
 私は嫌いになったりしないわ」
 温かな言葉だった。
 じんわりと、干からびてボロボロになってしまい、所々ひび割れを起こしている心に染み入る。
 それは微かな痛みを内包した心地良さだった。
「……はい」
 顔を上げることもできず、ソウヨウは言った。
 つながれた手が彼の『救い』となる。
 人間らしい良心がようやく解放された。
「私が望んだわけではありません。
 ですが、私は……」
 罪悪感にさいなまれ、言い訳を並べようとする。
 だが、それも正しくない。
 彼女との約束を破る気はなかった。
 けれども、破ることは初めからわかっていたのだ。
「仕方がないのでしょう?
 みんな、そう言うわ」
「他の方法がなかったか、考えることもしませんでした」
 ソウヨウは後悔した。
 どんな大義名分があろうとも、人の命を奪うのは『罪』である。
 割り切ってはいけないのだ。
 奪った命の重みを忘れてはいけないのだ。
 ソウヨウに人間らしい感情を思い出させた乙女は優しく微笑む。
「でも、シャオが悪いわけではないわ。
 だから、シャオが苦しむことはないのよ。
 人には守らなければならない領分があるのだから」
 彼の『罪』を軽くしてくれる。
 降り注がれる慈愛と慈悲。
「ですが」
「良いのよ。
 シャオ。
 私はシャオのことが大好きなの。
 それがどんなシャオであったとしても、シャオだってことには変わりがないのだから」
 ホウチョウは言い切った。
 その言葉には迷いが微塵もなかった。
 そのことに勇気づけられて、ソウヨウは顔を上げた。
 この世で最も美しいと思う瞳は、穏やかに彼を見ていた。
「……どんな私であっても?」
「ええ、もちろん。
 空に太陽があるように、絶対に変わらないことよ。
 そんなに信頼がないかしら?」
 ホウチョウは小首をかしげる。
「いいえ。
 私は姫を信じています」
「だったら、信じてね。
 世界で一番、シャオのことが好きよ」
「はい、姫」
 ソウヨウはうなずいた。
 自分の存在を肯定されて、嬉しかった。
 一番だと言われて、嬉しかった。
 ここにいても良いのだ、と暗に示されて、孤独な魂は寧静したのだった。 
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