第百一章

 月の欠けた夜だった。
 そのため月の出は遅く、星明りだけが、仄かな光で地上を照らしていた。
 夏虫が切なげに恋の歌を奏でていた。
 時折風が渡り、サラサラと葉擦れの音が重なる。
 全く気分の良い、夏の夜だった。
 昼の暑さを忘れてしまうような、涼しげな時間。
 そこに沈鬱な琴の音が加わる。


 白鷹城の城主は、かすかな光を頼りに、院子の東屋で琴を奏でていた。
 石造りの優美な柱には星影が作り出すささやかな陰影。
 暗がりの中、糸の白さはわずかに強調されるようだった。
 ソウヨウは、建国祭のために一人、楽を練習中だった。
 練習風景は誰にも見られたくはない。
 管弦が特に下手と言うわけではないが、それでも練習は見て欲しくないものだった。
 大司楽の王玉琴から教えられたとおりに、ソウヨウは琴を弾く。
 強く弾くところ、弱く弾くところ、決められたとおりに、譜面どおりに弾くのは苦痛ではない。
 正確にソウヨウは琴を奏でる。
 弦を左手で押さえながら、右手で弦をかき鳴らす。
 ソウヨウは琴にふれながら、別のことに頭が支配される。
 自問自答する。

 この手は何のためにある?

 少なくとも、琴を弾くためにあるわけではない。
 そう、この手には何がふさわしい?
 それは……剣だ。
 血に濡れたあの鋼こそがふさわしい。
 八つの時に初めてふれた、何とも形容しがたいねじくれた奇妙な高揚感。
 人を傷つけられるために生まれ、今までずっと鍛えられた武器なのだ。
 自分自身が暗器なのだ。
 人の形をした、最も見破りづらい形の究極の暗殺用の凶器なのだ。
 それが今、琴を弾いている。
 ……装っている?
 人間の振りをした、人の形の、何かなのだろうか?
 自分は、人ではなく、モノで……。
 ソウヨウは手を止めた。
 琴の音が幅を持ちながら、空気を振動させ、溶けていった。
 心臓の鼓動が嫌に耳につく。
 薄闇の中、緑の双眸は琴に注がれた。
 自分はいったい、何者なのだろうか?
 

 花の香りを感じて、ソウヨウの思考は止まる。
 ソウヨウにとって、花の香りは花薔薇の香り以外の何物でもない。
 花薔薇は、ソウヨウにとって特別の花であった。
 百合よりも、碧桃よりも、蘭よりも、牡丹よりも、特別な花である。
 ソウヨウに初めて、人間らしい感情を教えてくれた乙女の印象。
 緑の瞳は香りの方向を見た。
 花薔薇の化身が、星明りに縁取られて立っていた。
 柔らかな色の衣をまとう乙女は、月のように仄かに光をはじいているようで、彼女の周りはいっとう明るく見えた。
「姫」
 ソウヨウは安堵したような笑みを浮かべた。
「こんばんは、シャオ」
 どこかに羽衣でも持つかのように、ホウチョウはふんわりと歩いてくる。
 花の香りが、いっそう強くなる。
 夜で視覚が鈍った分、他の感覚が鋭くなる。
 花園に迷い込んでしまったみたいだ、とソウヨウは思った。
「無用心ですよ。
 夜の一人歩きは危険です」
「琴の音が聞こえたものだから。
 シャオがいると思って」
「私じゃなかったら?」
「シャオの音ですもの。
 聞き間違えないわ。
 初めて聞いたけれども、すぐにわかったわ」
 ホウチョウは得意げに笑う。
「そうなんですか?」
「ええ、そうよ」
 ホウチョウは断言した。
 でも、彼女だったらちっとも不思議ではない。
 とても神秘的な彼女なら、全然おかしくない。
 ソウヨウは納得した。
「素敵な琴ね」
 ホウチョウは琴を見る。
 綺麗に爪紅が施されている指先が、琴をかき鳴らす。
 蒼夜にあてやかな琴の音が澄み渡る。
 音色は、月のように闇夜を照らす。
 同じ琴だというのに、この違いは何なんだろうか。
 純粋な感動にソウヨウは、うっとりと目を細めた。
「お兄様が持ってらっしゃるのに比べたら、いまいちだけど。
 これに並ぶ物は、そうないんじゃないかしら?」
 ホウチョウは微笑んだ。
「鳳様は琴の音がお好きですからね」
 ソウヨウも微笑んだ。
 今上は、かなりの数の琴を所有しているだろう。
「最近は、弾いていらっしゃらないけど。
 当代一の腕前は、もう落ちたかしら?」
 もったいない、とホウチョウは付け足した。
「皇帝ですからね。
 忙しいのでしょう」
 次男坊だったときのように、ちゃらちゃらされていたら、仕える側としてはたまったものじゃない。
「あら?
 シャオは知らないの?」
 赤瑪瑙の瞳は驚いたように、丸くなる。
 ホウチョウはソウヨウの向かい側に腰をかけた。
 ほの暗い中、白い裳がしゃらりと宙を翻る。
 ふんわりと香り立つ夏の花薔薇。
「お兄様の琴は、ほとんど使い物にならないわ」
 ホウチョウは意味深に微笑んだ。
「どうしてですか?」
「簡単なことよ」
 ホウチョウはそこで言葉を切った。
 かすかな風が葉を揺らす音がサラサラと耳に響く。
 ソウヨウは無言で続きを待つ。
「お兄様は、琴の弦をお切りになってしまったの」
「鳳様が?」
「ええ、あのお兄様が。
 だから、もっぱら聴き手に回っているわ。
 その分、管弦にうるさくなったわね。
 自分で弾けないものだから、他人をひがんでいるのよ」
「弦を張りなおせば良いものを」
 ソウヨウは思ったことを正直に言った。
「でも、しないわ。
 たぶん、運命を手に入れるまでは」
 赤瑪瑙の瞳が眇められる。
 未来を読み取るように、斎姫は神妙な面持ちをする。
「そう遠くはない、未来ね」
 ホウチョウはそう言うと、いつものように微笑んだ。
 それに釣られて、ソウヨウも微笑んだ。


 夏の静かな夜だった。
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