第百二章

 建国祭も間近に迫ったある日。
 今日も鬼ごっこが繰り広げられていた。
 鬼ごっこと言うと、幼い子どもの専売特許のような感があるのだけれども、白鷹城では比較的大きな……中身が子どもによって引き起こされる。
 ちなみに本日、逃げ出したのはソウヨウである。
 あまり仕事に熱心ではないとは言え、仕事を投げ出すことはしないソウヨウであったが、連日逃げ出しているとなると、状況は変わるもので、庇ってくれる人間は少なくなりつつあった。
 ソウヨウが逃げ出すのは、実に簡単な理由からだった。
 そうしなければ職務に忙殺されるからである。
 とにかく暇がない。
 夏官と言うのは武官で、戦争ばかりするわけではなく、警備ももちろんする。
 建国祭ともなれば警備しなければならない要人も大量にいるわけで、その采配がソウヨウの元にやってくる。
 これは大司馬に付随する仕事の一つだから、まだ諦めようがある。
 がその上で、衣装合わせがある。
 チョウリョウ史上、最も賑やかな祭りになるのだ。
 卿の身分を持つ数少ない貴族であれば、その身を着飾るのも務めの一環。国の体面と威儀がある。
 官服以外にも、宴会用の袍やら、単やらと、用意しなければならない。
 衣なんてどれも同じだと思っているソウヨウに、模様はこれで良いでしょうか、色はどちらにいたしましょうか、と訊いてくるのだ。
 いつもならシュウエイがその辺は上手くやってくれるのだが、将軍ともなれば自分の職分も素晴らしい量になるので、ソウヨウの世話は後回しにされた。
 そして、宴のための管弦の練習。
 下手に琴も、月琴も、笛もできるものだから、わざわざ大司楽(宮廷楽師の長官)が手ほどきにやってくる。
 それら全部に付き合っていたら、ソウヨウの私的な時間はなくなってしまう。
 現に睡眠時間と読書の時間は、公務とそれに付随する諸々の雑事でジワジワと削られ始めた。
 現状維持では、婚約者の顔を見ることもできなくなってしまう。
 だから、一日一回、ソウヨウは職務放棄をすることに決めたのだ。


 城のほとんどが鬼である。
 分が悪い勝負だ。
 ソウヨウは木の上で追っ手をやりすごし、どの経路で恋人の元に向うか思案する。
 あまり突拍子もない方法で行くのも、相手を驚かせてしまうので良くない。
 かといって、堂々と正攻法で行ったら、恋人に会う前に鬼に捕まってしまう。
 ん〜? と、ソウヨウは小首をかしげる。
 まあ、どうにかなるだろう。
 人の気配がしないのを確認してから、枝から飛び降りる。
 ストン
 葉が微かにこすれあう音、風に葉がそよいだ程度の音を立て。
 石畳を小さく鳴り、風が運んだ小石が色石にこつんとぶつかった程の音を立て。
 ソウヨウは着地をした。
 さて、と立ち上がったところで声をかけられた。
「皆さん、探してらっしゃいましたよ」
 やや低めの落ち着いた声。
 振り返るまでもない、相手はわかっている。
 油断大敵。
 人の気配はきちんと探ったし、こちらの気配も完全に消したのに。
 まだ、配慮が足りなかったらしい。
「ああ〜、見逃していただけませんか?」
 ソウヨウはへらっとした笑顔を浮かべて振り返る。
 海月太守、沖達が立っていた。
 どうしてこんなところにいるのだろうか。
 ソウヨウは八つ当たりではなく、疑問を持つ。
 人気の少ない院子で、何をしていたのか。
 太守が油断ならない人物であるという評価を、ソウヨウは変えていなかった。
 行千里を討った後、シュウエイを帰還させたのも、副官のモウキンとユウシを城に残したのも、沖達の行動を警戒してのことだった。
 結局、太守は何の行動も起こさず現在に到るわけなのだが、そうなるとますます謎は深まるばかり。
 一体何のために、得にもならならないことを、彼はしたのだろうか、と。
「別にかまいませんが。
 十六夜公主は後宮にはおられませんよ」
 沖達は静かな口調で言った。
 感情が読み取りづらい、実に丁寧な言葉。
 とても、やりにくい相手だ。
「もしかして、海姫殿とご一緒ですか?」
 ソウヨウは訊いた。
「ええ、約束を違えていなければ」
「そうですか〜。
 ……よろしければ匿っていただけませんか?」
 幼子のように、ソウヨウは無邪気な笑顔を浮かべた。
「どうぞ」



 部屋の前で控えていた侍女はソウヨウの姿を見ると呆れたような眼差しを投げかけたが、客人の前だけあって何も言わなかった。
 室内に入ると敷物の上で、海姫と十六夜公主が談笑していた。
「あら、シャオ」
 ホウチョウは少し驚いたようだった。
「おはようございます、姫」
 ソウヨウはホウチョウの隣に腰を下ろす。
「おはよう、シャオ」
 ホウチョウはニコッと笑う。
「今、シャオの話をしていたのよ」
「え」
「シャオがどんなに素敵なのか話をしていたの」
 ホウチョウはニコニコと言う。
「おかげで白厳がどんなにのんびり屋さんかわかった」
 華月はクスクスと笑う。
「どうしてそうなるのよ!」
 納得のいかないホウチョウは異議を申し立てる。
「だって〜。
 そうじゃない?
 褒めてるんだよ、これでも」
 華月は言う。
「華月の口ぶりは全然、褒めていないわよ」
「ちょー、気のせい」
「どこが気のせいなの?」
 ホウチョウは柳眉をひそめる。
「教えてあげない」
 華月は小ばかにしたようにホウチョウを見る。
「まあ」
 ホウチョウは癇に障ったが、恋人の目の前である。
 大人しくせざるをえなかった。
 不満そうに唇を尖らせるにとどまる。
 ソウヨウは女の子らしい華やかな会話に圧倒されて、身の置き場がないと感じた。
「華月様」
「ん?」
 沖達に呼ばれて、華月はほえっと顔を上げる。
 男はすくい上げるように婚約者を抱き上げた。
「そろそろ、眠くなるお時間でしょう」
「今日は大丈夫だよ。
 もっと、ファンと話していたい」
 そう言いながらも、華月は沖達の首に腕を回す。
「それでは、恋人たちの時間が減ってしまうでしょうが」
 沖達はためいき混じりに言う。
「ん〜?
 あ、そっか。
 ゴメンね、お邪魔しちゃって」
 華月はソウヨウにニコッと笑いかけた。
「では、ごゆっくり」
 沖達はそう言うと、婚約者を抱えて部屋を退出した。
 ソウヨウはパッと顔を輝かせた。
 二人っきりだ。
 愛する人を独占できるということは、ソウヨウの引きつれるぐらいに飢えた心のいくばくかの命水になる。
 ちょっとばかり、沖達の評価を変えても良いような気がする。
 ソウヨウは少しばかり現金な質であった。
「シャオ、毎日鬼ごっこしてるってホント?」
 赤瑪瑙色の大きな瞳がソウヨウをマジマジと見る。
「え……、ええ」
 ソウヨウは一瞬たじろぐ。
 吸い込まれてしまいそうな神秘的な色合い。
 それが自分を見つめている。
 息をするのも忘れてしまいそうな気がする。
「お仕事が嫌いになったの?」
 ホウチョウは無邪気に問う。
「いえ、そういうわけではないんですけど。
 その、姫にお逢いしたくって。
 我慢できなかったんです」
 ソウヨウは困ったように微笑む。
 破邪の姫君に嘘偽りは不要。
 何より、かけがえのない……ただ一人の人。
 最愛の者を欺く必要性はない。
「ホント?」
「はい、本当です」
 高い身分にある者としては問題がありすぎな発言である。
 立ち聞きする者もおらず、万が一だが皇帝陛下の耳に入ったとしても寛大な現人神は許すことだろう。それどころか、ますますの寵を受けること間違いなしである。
「嬉しい」
 ホウチョウは満面の笑みを浮かべた。
 百花の女王も色褪せるぐらいの艶やかな笑みであった。
 ソウヨウはそれに見蕩れる。
「シャオが仕事よりも私の方を選んでくれるなんて」
「私は姫が一番ですよ」
 間髪入れずにソウヨウは答えた。
 赤瑪瑙色の瞳がさらに輝きを増す。
「大好きよ、シャオ」
「私も姫が大好きです」
 ソウヨウは誇らしげに答えた。


 この日、鬼役の百官は見事に敗北をしたのだった。
 以来、監視が厳重になったのは言うまでもないことである。
 
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