第百五章

 眩しそうに娘は養父を見上げた。
「ご立派ですわ」
 大司楽(だいしがく)の地位を賜った養父の正装は、感嘆に値するものだった。
 濃色の袍に、豪奢な錦の帯。黄金色の髪を一まとめにして、冠をつける。その冠は大司楽の地位に恥じず、精緻な技巧を凝らされている。
「気恥ずかしいばかりだよ」
 養父であるオウ・ユは微笑んだ。
 今は無きエイネンの皇帝に『玉のようだ』と寿がれた音色は、鳥陵でも認められ、今宵の宴では独奏を特に許されている。
「お養父様は私の誇りですわ」
 リョウジは花がほころぶように、笑む。
 歳はもう十六。
 どこに出しても恥じない美しい乙女へと成長した。
「私にとっては、阿良(ありょう)こそが誇りだよ」
 オウ・ユの音色を正しく受け継いだのは、間違いなくこの娘一人だけ。
 弟子として、愛娘として、充分な存在だった。
「見せびらかせないのが残念だ。
 本当に、今宵の宴に出なくてもかまわないのかい?
 琴を弾かなくても良いんだよ?」
 オウ・ユは提案した。
 年頃の娘を着飾らせて、衆人の目を集めたいと思うのは、親としての贅だ。
「私の琴など、物のうちにも入りません。
 お養父様の音色には敵いませんもの。
 それに、至上の音色を一度でも知ってしまったら、私の音色など……、雑念だらけで、お世辞にも美しいとはいえません」
 冥い、冬の夜空のような瞳は切なげに伏せられた。
「至上の音色?
 それは、誰の出した音だい?」
 問わなくてもわかっている。
 けれども、オウ・ユは問うた。
「琴の音色ではありません。
 あれは」
 リョウジは顔を上げた。
「あれは、人の声です」
 泣き出しそうな声で乙女は告げた。
 楽器を勝る声。
 血がにじむような鍛錬の末、会得した音色を遥かに凌駕するものは、ただの人の声。
 それは音楽家としては、絶望にも似た憧憬だった。
「その声はまるで極上の琴が恥じて弦を切るほどのものですか?」
 オウ・ユは確認した。
 娘はうなずいた。
 オウ・ユには、心当たりがあった。
 『失弦琴』と喩えられる声の持ち主を知っていた。
「そうですか。
 たまに、天はそういったものを大盤振る舞いしますからね。
 二物も三物も与えるんです」
 オウ・ユは苦笑した。
「ズルイです。
 何の苦労もせずに、あの声は完璧なんですもの」
 リョウジは吐露した。
 滅多なことではやっかみや非難を口にする娘ではないので、大変珍しいことだった。
「阿良。
 ですが、彼は恵まれた分、非常に大きなものを欠落しているんです」
 オウ・ユは現人神になってしまった青年を想う。
 彼が今の地位を望んだようには、とても思えない。
 事は思う通りには運ばない。
 それを皮肉に現すように、彼はこれから先、孤独な道を歩まなければならないだろう。
 美しき愛娘は真摯に養父を見上げる。
 言葉の重みに、気がついたのだろう。
「叶うことなら。
 貴方が彼の失ったものを補えれば良いのでしょうが。
 今となっては、それは……難しいでしょう」
 オウ・ユは娘の髪にふれた。
 長い、長い金の髪だ。
 故郷の習慣に則って、ずっと伸ばし続けさせたその髪は、身の丈ほど。
 真っ直ぐに金の髪がその背を流れる。
 美しく、賢く、情深く、育った。
 それをせめて一目、見せてやりたかった。
 孤高を選らばざるをえなかった青年に、この姿を見せてやりたかった。
「未来は、誰の目にも見えないんです。
 愚かしいことですが、それでも人は将来に希望を託し、夢を見て、約束を交わすのです」
 オウ・ユはつぶやくように言った。
 九年前にオウ・ユは雛を託されたのだ。
 それは期限付きだったはずだ。
 いつかは返すはずだった。
 その約束は、未だ果たされない。
「お養父様?」
 不安げに冥い色の瞳が見る。
「宴に行く気はありませんか?」
 オウ・ユは再度、問う。
 サラサラと金の髪は横に振られる。
 空間にそれはまかれ、息を呑むように美しい情景だった。
 それを見ているのが自分だけだということが、たまらなく切なかった。
「無理強いするつもりはありません。
 気にしなくても良いんですよ。
 私は宴に行きますから、留守をしっかりと。
 気をつけるんですよ」
 オウ・ユは微笑んだ。
「はい。
 気をつけて行ってらっしゃいまし」
 リョウジもどうにか微笑を浮かべた。
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