第百六章

 管弦の宴もそろそろ無礼講。
 座は崩れ、官位を気にせず、気の会う者同士が車座になっている。
 酔漢の立てる喧騒の中、琴の音が途切れ途切れに聞こえる。
 ソウヨウは杯片手に、人を探す。
 お目当ての人物は、誰とも混じらずに座していた。
 彼の官位から考えれば当然の、端近な場所で月を相手に一人酒盛りをしていた。
 誰も彼の周りにないのは、その排他的な雰囲気のせいか、それとも彼の風評のせいか。
 


「一人で飲む方がお好きなんですか?」
 ソウヨウは沖達に声をかけた。
 鉄色の瞳が無礼にならない程度の無感情さでソウヨウを見た。
「そちらも、お一人のようですが?」
 酔っているようには思えない、しっかりとした返事が返ってきた。
 波紋が立たない静かな口調だった。
「年がら年中一緒にいたら、飽きちゃうじゃありませんか」
 ソウヨウはおっとりと微笑んだ。
「護衛もなしとは、さすがは弱冠で大司馬を賜るはずですね」
 海月太守は厭味に聞こえない程度の社交辞令を言った。
 相変わらず、感情が読めない。
 ソウヨウは内心で舌打ちした。
 太守はいつだって、無難すぎるのだ。
「一つ質問して良いですか?」
 ソウヨウはにこやかに沖達の前に座った。
「一つでよろしいのですか?」
「じゃあ、たくさんしてもかまいませんか?」
 無邪気にソウヨウは言った。
 まるで、愚鈍のように。
「どうぞ。
 答えられる範囲なら、答えますよ」
 太守は表情も声音も崩さない。
 間然するところがないのだ。
「どうして、あなたは今回協力したんですか?」
 ソウヨウは単刀直入に尋ねた。
 曲調が変わったのだろうか、管弦の音が場の緊迫感を増す。
「協力したことがそんなにおかしいのですか?
 海月は、鳥陵の一地域ですよ。
 自国のために動くのは、当然でしょう」
 当たり障りのない答え。
 大義名分、お決まりの定型文。
 ソウヨウが知りたいのは、そんなことではない。
「ギョウエイはあまりにも遠い、と思いませんか?」
「鳥陵に倒れられては困りますから。
 海月が鳥陵の一部になり、海月は豊かになりました。
 シキボ出身の大司馬にはわかり難いでしょう。
 毎年のように出る、餓死者、凍死者。
 海月はとても貧しいクニだったのです」
 鉄色の瞳は杯に向けられる。
 その声は過去を振り返るにしては、痛ましく物悲しい。
 ようやく、情が表に出た。
 だが、それが演技ではないという保障はどこにもない。
 太守は杯を口元に運び、なめるように酒を飲む。
「それだけですか?」
 普段は曖昧な色だといわれる瞳は、灯燭に照らされ緑。
 優秀な暗殺者を作り出したシキボ独特の色の瞳は、海月太守を見据えた。
「理由に足りませんか?」
 太守は視線を合わせない。
 彼の双眸は床ばかりを見ている。
 まるで、萎縮したかのように。
「ええ」
「正直な方ですね。
 本当に鳥陵のおかげで、海月は救われたんです。
 だから、鳥陵はこの大陸の覇者であり続けてもらわなければならないのです。
 海月の民のために。
 十二分に利己的な理由ですよ」
 杯を持つ手がかすかにふるえているだろうか?
 虚勢?
 この答えは、真実なのだろうか?
 けれども、腑に落ちない。
「でも、あなたがここまでする必要はないんではありませんか?」
 ソウヨウは訊いた。
「貴方は私を過大評価しすぎですよ。
 私は、貴方が思うよりも小物ですよ」
 聞けば納得してしまいそうな、答え。
 彼はとても臆病者で、とても慎重な人間だとしたら。
 今までの言動は、自然なのだ。
 ソウヨウは年上の男性を過大評価するきらいがある。
 特に八つ以上、歳が離れた人間を。
 それはソウヨウ自身も自覚済みのクセである。
「……」
「質問はそれだけですか?
 では、失礼いたします」
 太守は立ち上がった。
 その表情はいつも通り、失礼にならない程度の無表情。
 唐突に打ち切られた話に、ソウヨウは不満を覚えた。
 不服を申し立てようとしたところだった。
 次の瞬間。
 欄干の先に白い手が伸ばされた。
 一体何をする気かと、ソウヨウが見守っていると、杯が伏された。

 液体が地面を打つ音がした。

 ……酒が地面に捨てられたのだ。
 彼が、一滴も酒を飲んでいなかった証明だ。
 今までの全ては、演技であったということだ。
 ソウヨウは理解に至り、カッと身の内が熱くなった。
「つまりは、こういうことですよ。
 大司馬」
 太守は薄く笑うと、空の杯をソウヨウに差し出した。
「なるほど」
 ソウヨウは無表情でそれを受け取った。
 太守は何事もなかったかのように立ち去った。
 いつか、その矜持をへし折ってやる。
 ソウヨウは今、それが出来ない代わりに杯を割った。
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