第十六章

 折から吹く風は、少年の樫の木色の髪を揺らす。
 馬上の人となったシ・ソウヨウは、丘の下を見やる。
 平地では、剣を交える人の群れ。
 悲鳴、雄叫び、断末魔の声、伝令、それらが程よく混ぜられ、少年の耳に届く。
 見事な晴天に感謝しつつ、あくびを一つ。
「絲将軍!」
 傍らに控えていた壮年の副将に見咎められる。
 少年にとって父親ほどの年齢の彼は、叩き上げの軍人だ。
 名をモウキンという。
 このたびの戦いで最も人事に悩まされたであろう人物だ。
 何故なら上官は十四歳になったばかりの子どもで、初陣なのだから。
「お気持ちはわかりますが……、もう少し控えめにできませんか?」
 モウキンは困ったように笑う。
 その顔には『やりづらい』と大きく書いてあった。
「戦いって思ったよりも、暇なんですね」
 同年代と比べても、まだまだ小柄な少年は静かに言った。
「大将のところまで敵が来たら、作戦は失敗です」
 律儀に副官は答える。
「……それもそうですね。
 お飾りなら、初めからいない方が楽ですよね。
 もっと役に立つ武将に任せればいいのに……。
 そうすれば護衛のために兵を割り割かなくてもすむ。
 そうは思いませんか?」
 のんびりと不思議な色の瞳は副官を見た。
 少年が口にした言葉は、影で日向でささやかれてきた言葉とほぼ同じだ。
 南城にいた者たちは口々に何故と問うた。
 あんな子どもに何ができるというのか。
 戦場に遊び場ではない。
 たとえ、鳳様のお気に入りであったとしても。
「鳳様にお聞き下さい。
 戦略的なことは、私にはちっともわかりませんから。
 何か深い考えがあるのでしょう」
 モウキンは言った。
「もし、戦いの理由が退屈しのぎだとしたらどうしますか?」
 ソウヨウは微笑みながら剣呑なことを吐く。
「戦うだけです。
 戦場があって、そこへ連れてこられたら、戦う以外何をするというのですか?」
「明確な答えですね。
 あなたは信に足りる方だ」
 ソウヨウは褒めた。
 モウキンは困惑した。
 少年は小首をかしげた。
 褒めたのに、困られて、不思議がる。


 日が暮れ、兵を退かせる。
 夜通しで戦っても無意味なのだ。
 夜明けとともに戦って、日暮れとともに退却。
 まるで遊戯のようだが、お互い損害を少なく戦いたい時は、自然とこのようになる。
 この度の戦いは前哨戦のようなもの。
 次の大きな戦いの勝敗を占うための、戦い。
 大敗しなければいい。
 勝つ、必要性はない。
 チョウリョウ陣営の最も大きな天幕は、少年専用だった。
 完全に人払いがなされている天幕の中、少年は剣帯を解く。
 成人前の少年が持つものとしては分不相応な華美な剣。
 黒塗りの鞘に、緑柱石、翠玉が埋め込まれた柄。
 大きさはやや小振りで、剣というよりも小剣という趣がある。
 剣は、抜けないようになっている。
 朱い布が柄と鞘をグルグルと巻いているのだ。
 緑とも、茶色ともつかない曖昧な瞳が懐かしそうに、それを見る。
 昔、幼い自分に、剣を扱うなと泣いた少女。
 その髪を飾っていたリボン。
 今の自分を見たら、怒るだろうか、悲しむだろうか。
 わからない……。
 もう、ずっと、逢っていない。
 時折想い出しては、逢いたいと思う。
 ソウヨウが緊張の糸を緩めた時、だった。
 それは、飛び込んできた。
 ほの暗い天幕の中、鋭い煌き。
 剣先は樫の木色の髪を数筋、断つ。
 考えるよりも先に、体が動いていた。
 一瞬前までいた場所を剣は綺麗に横薙ぎした。
 ソウヨウは侵入者を見る。
 若い女性だ。
 男物の粗末な服をまとい、鎧は身につけてはいない。
 手には細剣。
 切れ味は、上等。
 細剣が、ソウヨウを襲う。
 右から左へ、剣が横薙ぎするのを、ソウヨウは右に一歩引くことで避ける。
 剣はさらに左から右上に跳ねる。
 緑がかった茶色の瞳は、冷静に剣先を見つめ、避ける。
 侵入者の動きは、悪くない。
 我流ではなく、きちんとした型を持つ。
 軍に入れば、すぐさま小隊を任されるだろう。
 ただ、速さも、力も今一歩及ばず。
 ましてや、馴染みのある型だ。
 次の動きが、ソウヨウの目にはありありと見えた。
「絲将軍、ご無事ですか!」
 モウキンが飛び込んできた。
 二人の均衡が崩れる。
 侵入者の剣が鈍った。
 ソウヨウがそれを見逃すはずもなく、女性の首にポンと手刀を落とす。
 女性は糸の切れた人形のように、前かがみに倒れた。
「助かりました」
 ソウヨウは細剣を拾い上げる。
 なかなかの業物だ。
 これほどの物なら、銘がありそうだ。
「お邪魔みたいですね」
 モウキンは引きつった笑みを浮かべる。
「とんでもありません。
 正直、困っていたところです」
 全然困っていない口ぶりで、少年は言った。
「そうは見えませんでしたが」
 モウキンは侵入者を縄で縛り上げる。
「心当たりは?」
「さあ?
 見たことがありませんから」
「とりあえず、口を割らせましょう。
 話はそれからです」
「拷問ですか?」
「お嫌いで?」
 モウキンは女性を担ぎ上げる。
「見たことがないもので、見てもいいですか?」
 少年は穏やかに微笑んだまま言った。
「面白いことなんてありませんよ」
「かまいません」
「…………そうですか。
 ならいいんですが……」
 モウキンは複雑な表情をした。


 侵入者を縄で縛り上げた姿で椅子に座らせる。
 一応、人道に則って、と言うことだ。
 それなりに明るい灯の下で見ると、女性は大層美人であった。
 泥と埃にまみれてもいるのにもかかわらず、匂うような美しさ。
 十七、八ぐらいであろうか。
 妙齢の美女に、兵士たちはざわつく。
「裏切り者!
 お前なんか恥さらしだ、レンリュー!」
 押し黙っていた美女は、ソウヨウを睨んだ。
「黙れ!
 お前、誰に向かって口を利いてるんだ!!」
 兵士は女の頬を叩く。
 乾いた音に、少年はビクッと肩を揺らす。
「売国人だよ!
 こいつは故郷を売っちまったんだ!!」
 捨てた名前で呼ぶ女性。
「初めまして、だと思うのですが。
 あなたはどこのどなたですか?」
 ソウヨウは笑顔で訊いた。
「我は布一族が娘、コウリ。
 シキボの絲一族に仕える家だった。
 あの日まで」
 コウリと名乗った女性は言った。
 ソウヨウはマジマジと女性を見た。
 言われてみれば確かに、シキボの民らしい色彩だ。
 少し日に焼けた肌、茶とは異なる明るい瞳。
 ……布一族。
 女性が嘘を言っているようには、見えない。
 布の長老の娘、と言うところか。
 記憶にない顔だった。
「故郷を売ったつもりはありません。
 訂正してください」
 ソウヨウの独断で、ホイホイ売れるようなものではないのだ。
 むしろ伯父たちの方が、問題だった。
 コウリは少年を睨むが、少年は全く動じない。
「後はお任せします。
 若輩者で、こういう時はどうすればいいのかわかりませんので。
 失礼します」
 ソウヨウはモウキンに言った。
「将軍、どちらへ」
「眠ります。
 もう疲れました。
 お願いします」
 ソウヨウは緊張感の欠片もなく言った。


 天幕の外は、すっかり夜だった。
 月のない夜は、星々がよく見える。
 冷たい銀の煌き。
 そして……闇に乗じる者たち。
「こっちが本命、ですね」
 ソウヨウは呟いた。
 朱い布を剣から解く。
 質の高い絹の手触りは滑らかで、ソウヨウは責めているかのようだった。
 朱い布を懐にしまう。
「約束、破ってすみません」
 ソウヨウは呟く。
 剣をスラリッと引き抜く。
 ギラギラと濡れたように輝く刀身。
 少年は無造作にそれを振るった。
 闇が一瞬、払われる。
 それと同時に、肉を切る感触。
 無感動。
 少年に表情はない。
 気配は五つ、六つ……。
 無駄のない動きで屠っていく。
 久しぶりの実戦だというのに、体が動く。
 剣先が踊る。
 血の匂いを撒き散らしながら、さながら死の舞踏。
 感情が揺れないのは、初めて剣を手にした時の頃からのこと。



 初めて剣を手にしたのは、八歳のとき。
 初めて人を殺したのは、八歳のとき。
 年が改まって、一つ歳を取る。
 八つになったばかりであった。
 総領であった父に招かれて、実戦を知る。
 豊穣にして広大なるシキボ。
 シキボを治める絲の総領は、死と隣り合わせの生活する。
 一対多数を凌ぐ、剣術は必須であった。
 それは洗練からは程遠い、どんな手を使っても生を繋ぐという質のモノだった。
 必ず相手の命が断つ。
 力がなく、体が小さい『シャオ』には、速さが求められた。
 相手よりも速く、致命傷を確実に与える。
 九歳になり、チョウリョウの支配を受けたあの日まで、ソウヨウは人を殺め続けていた。
 生命というのはあまりに軽く、まるで布を裁つように。
 レンリューにとって、襲い掛かってくる者を殺すというのは、空気を吸うよりも自然なことであった。



 生命の音は消えた。
 血まみれの刀身を見やる。
 それから手の平を見る。
 かなり、後悔した。
 このことを知ったら、彼女は不快な思いをするかもしれない。
 そう考えると、この現状はなかったことにしてしまいたい。
「よし、何もなかった。
 うん、そうです
 これは夢です、眠りましょう」
 なかったことにすることを決めて、少年は剣を鞘に収める。


 次の朝。
 やはり、馬上でソウヨウはあくびを一つ。
「絲将軍!」
 副官のモウキンが咎める。
「戦いは退屈ですね」
 ソウヨウは微笑む。
「士気に関わりますから、ご自重下さい」
 モウキンは半ば諦めながらも、律儀に言った。
「努力はしてるんですよ。
 こう見えても」
「では、今いっそうのご努力をなさってください」
「がんばってみましょう」
 ぼんやりとした表情でソウヨウは答えた。
 風が丘を駆け抜ける。
 少年の髪を揺らしながら。
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