第十五章

 小さく詩を口ずさむ。

   もうすぐ花嫁になる娘がいる家では、
   美しい花が咲いている。
   娘が生まれた歳に初めて花をつけた
   木で、今年はたいそう見事な枝振りで。
   立派な婿を迎えることが嬉しい、と
   花をつける。

 そんな内容の素朴な漢詩に、高低をつけて歌にする。
 歌いながら少女は、布に針を刺していく。
 それを見守る侍女の目も穏やかだ。
 何せご自慢の美しいお嬢様が、娘らしく刺繍に励んでいるのだから。
 恰幅の絵のようだ、とうら若き侍女の唇からためいきが零れる。
 皆に見せびらかしたいほどに、麗しい。
 もっとも、お嬢様の方には不満がたっぷりだった。
 だからこそ、詩が口につく。
 反抗の表れだというのに、歌にしてしまえば侍女たちは怒りはしない。
 意味がわからなくなるためだ。
 戦を反対する詩でも吟じてみようか、と言う考えが頭によぎる。
 しかし、そんなことはしない。
 このクニ唯一の姫は、ためいきを零す代わりに玻璃の向こうの空を見た。
 この一年で、ずいぶん自分も娘らしくなったものだと感心した。
 年頃になれば自然と部屋にこもるようになるものだ、と大人たちは笑っていた。
 その意味を薄っすらと理解し始めた。
 ある日を境に、今までのことが色褪せてしまったのだ。
 城の城壁に登ることはなくなったし、廊下を走り回ることもなくなった。
 そういうことが楽しくなくなってしまった。
 剣舞の練習を欠かさないものの、人前で舞うように言われると、ありきたりな舞を舞う。
 すぐ傍に琴を置き、暇さえあればかき鳴らしている。
 そうでもしていないと、息の仕方がわからなくなりそうだった。
 言ってはいけないことが増えすぎて、耐えることを強いられ、赤茶色の瞳は大人びた乙女のそれに変わっていた。
 昔のように、無邪気な輝きは見つけられなかった。
 ホウチョウは刺し終わった布を見た。
 これも終わってしまった。
 新しい暇つぶしを考えなければいけない。
 何かしていないと、思ってしまうから。
 ホウチョウは立ち上がる。
「どちらへ?」
 仕事熱心なメイワが尋ねる。
「お母様にお花を差し上げようと思って。
 お見舞いにはちょうど良いころあいでしょう?」
 胡蝶の君は言った。
「奥庭に行かれるのですか?」
「もちろん。
 お母様はあそこの花が、一番お好きですもの。
 どうせなら、たくさん喜んで欲しいでしょう?」
 ホウチョウは無邪気に微笑んだ。
 メイワは困ったように主を見た。
「大丈夫よ。
 ここは、このクニで一番安全な場所なんでしょう?
 ましてや、奥庭まで入ってこられるような不埒者はいないでしょう?」
 ホウチョウは重ねて言う。
「そうですが……」
「すぐ、帰ってくるわ。
 だからね、いいでしょう?」
「すぐ帰ってきてくださいね」
 二つ年上の侍女はためいき混じりに言った。
「ありがとう、心配してくれて」
 ホウチョウはそう言うと、長い裳を翻して、滑るように部屋を出た。


 奥庭は深い色合いの花であふれていた。
 供人や侍女であっても立ち入りを遠慮する場所で、ようやくホウチョウはためいきをついた。
 染み入るような花の香り。
 少女の手が鮮やかな橙色の花薔薇を手折る。
 見栄えするぐらいの量を、摘んでいく。
 翡翠色の袖に、橙の花薔薇が映える。
 柔らかな花びらが幾重にも重なり、綺麗だ。
 今年も、まずまずの花ぶりだ。
 秋咲きの花薔薇は母が一番、愛する花だ。
 父が亡くなってから、めっきり体調を崩し、床に伏せることが増えた母。
 その母を喜ばそうと、花を摘んでお見舞いに行く。
 嘘じゃない。
 でも、それを口実にしたのも本当。
 一人きりになりたかった。
 どんな表情を浮かべても、誰にも怒られないから。
 誰にも見られないから。
 ここには、物言わない草花たちしかいない。
 ホウチョウはしゃがみこんだ。
 寂しい。
 耐えることができるのが不思議なほどに、強い感情。
 胸がぽっかり空洞になってしまったようだ。
 大切なものが失われてしまった。
 瑪瑙にも似た艶のある瞳が涙をたたえる。
 あの日から、ずっと寂しい。
 呼べばすぐにでも駆けつけてくれたあの不思議な色の瞳を失って。
 澄んだ声で、「姫」と呼ぶ声を失って。
 面白かったことも、楽しかったことも、全部色褪せてしまったあの日。
 無邪気な姫に耐えることを教えたあの日。
 今頃、どうしているのだろうか。
 考えない日はない。
 あの一つ年下の男の子は。
 少しは、寂しいと思ってくれるのだろうか。
 この気持ちの何分の一でも、思ってくれるのだろうか。
 ……逢いたい。
 逢いたくても、逢えない。
 絶望にも似た確信。
 もうすぐ、この冬がくれば……雪が降ったら、ホウチョウは成人する。
 今以上に、外に出ることはできなくなる。
 自分に甘い兄たちは、城の中なら自由にさせてくれるだろうけれど、あの遠い南の地には行かせてはくれないだろう。
 もう二度と逢うことができなくなる。
 大人になる前に、逢いたい。
 まだ、一緒に雪を見ていないのだ。
 小さな約束。
 それがホウチョウの全てだった。
 わがままを自由に言えなくなってしまった自分が、疎ましい。
 命をかけて領土を守る兄に、言えるはずがない。
 そんな小さな約束を果たすために、「逢いたい」と。
 あの日からずっと寂しい、と。
 もうすぐ大人になるのに、子どもじみたことは言ってはいけない。
 傷つきやすい瞳から、白い珠が滑り落ちた。
 それは橙色の花薔薇を飾った。
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