第二十一章

 不思議な高揚感に満たされていた。
 「幸せ」にほど近い、満足に似ている。
 指一本動かせないほど疲労しているのに。
 心が満たされていた。
 体が空気を取り込もうとしている。
 息を体全体でしている。
 汗びっしょりで、服が体にへばりついているのに、全く嫌な感じはしなかった。
 血が体中を巡る音が聞こえる。
 感覚が研ぎ澄まされていた。
 だから、すぐさま気がついた。
 南渡りの香木の香り。
 自分を見下ろしている人を、ソウヨウは目だけ動かして見た。
 南城の城主、ホウスウが立っていた。
 月が中天から滑り降りてずいぶんと経つのに、きちんと装束が整っているところを見ると、今まで執務を行っていたのかもしれない。
 青にも見える、チョウリョウの民としては変わった瞳が、冷たくソウヨウを見ていた。
 無表情にも近い、何の感慨もない顔をしていた。
 驚く必要もないということだろうか。
「止めが刺せるな」
 ホウスウは唇を歪めて、微笑みの形にする。
「自分の腕を過信したな。
 せめて、立ち上がれるほどの体力は残しておくべきだ」
 忠告と呼ぶには、あまりに冷たい響きを宿した声。
 ソウヨウは返事ができなかった。
 少しずつ回復してるとはいえ、疲労が大きすぎた。
「何故、ここにいる?」
 ホウスウは言った。
 その言葉をそっくり返したかった。
 何故、ここにいるんですか?
 ソウヨウは思った。
 ここは、南城の廊下の一つ。
 ホウスウの住居区ではない、ありきたりな廊下の一つ。
 この辺りに重要な部屋はなく、単に通り道になっている場所。
 誰も注意を払わないし、警備の手もない。
 だからこそ、侵入者たちはここから入り込んだ。
 誰を狙ったかは明白であったので、ソウヨウは迷うことなく鞘を払った。
 約束を破るのは少し心苦しかったが、きっとこの選択の方が彼女の心に適うはずだから。
「何故だ?」
 ホウスウは再度、問う。
「……姫の、ためです。
 あなたが傷ついたら、悲しむ」
 ソウヨウは答えた。
 声はかすれて、息も絶え絶えであったが。
 立ち上がれるようになるまで、今少し。
「死んだらとは言わないんだな」
「この程度で?」
 ソウヨウは微かに笑った。
 この程度の刺客で死ぬような人間なら、その歳まで生きられなかったはずだ。
「……。
 あと、十年早く生まれてくればよかったのに」
 鳳の君は静かに言った。
 過去はもう変えられない。
 そのことをよく知っている人間なはずだ。
 何故そんなことを言うのか、わからなかった。
「だとしたら、敵同士です」
 明らかにわかるのは、そのことだ。
 十年早く生まれたなら、シキボが戦火に晒されたとき、十九になっていたはずだ。
 総領である父を助け、一軍を率いて戦うことができる年齢だ。
 シキボはやすやすと、チョウリョウの手に落ちることはなかっただろう。
「……そうだな。
 そうだったな。
 詮もないことを言った」
 ホウスウは寂しそうに微笑んだ。
「千里」
 ホウスウが鋭く呼ぶ。
 柱の影から、細身の男が現れる。
 一目で、チョウリョウの民ではないことがわかる若者だった。
 夜の闇の中でも鮮やかな金の髪。
 宝玉にも似た青紫の瞳。
 チョウリョウよりも、もっと北の人種だ。
「ここに」
 楽の音も褪せるような、弦の響きの声が返事をした。
「後片付けを頼む」
 ホウスウは言った。
「これも?」
 男はソウヨウを指して、意地悪く笑う。
「モウキンのところに連れて行ってやれ」
 ホウスウは苦笑した。
「私は、部屋に戻る」
「それが一番ってコト。
 部屋がものけの空じゃ、女官が大騒ぎする」
 千里は笑った。
「ああ。
 頼んだ」
 そう言うと、ホウスウは立ち去った。
「しっかし。
 困ったお嬢さんだ」
 千里は盛大にためいきをつく。
 それから、辺りに倒れている数を数え始まる。
「五の三で、十五。
 まあ、敵さんも本格的だな。
 そこまで、邪魔か。
 羽ばたく前に、羽をへし折っとかないと危険ってとこかぁ?」
 千里は楽しげに呟く。
 それから、ソウヨウを見た。
 星影の中見ると、男が意外に若いことがわかる。
 鳳の君よりも歳下であろう。
「これ、全部一人でやったのか。
 暗殺者になった方が向いてるんじゃないか?
 今度は、後片付けできるほどの体力を残しておいてくれよな。
 お嬢さん」
 千里は言った。
 ソウヨウは困ったように微笑んだ。
 どうやら、お嬢さんというのはソウヨウのことらしい。
 女に間違えて言ってるわけじゃないのがわかるので、笑うしかない。
 男の勘定に入れられてないのは、やはり悲しむべきなのだろうか?


「怪我はしてらっしゃらないようですね」
 モウキンはソウヨウの袖をめくりながら言った。
 千里はソウヨウを担いでくると、有無を言わせずにモウキンの部屋に押し入った。
 眠っていたモウキンは、千里とソウヨウを見て、何も言わずに部屋に通した。
 いや、少し呆れ顔であったかもしれない。
 千里はソウヨウを降ろすと、後片付けに戻った。
「どこか、痛むところはありますか?」
 モウキンは訊いた。
 ソウヨウは首を横に振った。
「そうですか。
 まあ、どうぞ」
 モウキンは水差しから、湯飲みに水を少し移すと、湯飲みを手渡した。
 ソウヨウは受け取り、一口飲んだ。
 柑橘の香りがした。
 ソウヨウは驚いた。
 ありきたりな、素朴といえば聞こえはいいが、貧しい農民でも手に入れることができるような湯飲みであったので、まさか水に香りが移してあるとは思わなかったのだ。
 ソウヨウは湯飲みをあっという間に干した。
 モウキンは微笑み、先ほどよりも少し多めに湯飲みに水を入れた。
 副官の細やかな心配りが嬉しく感じた。
 急に水分を取ると、体が驚いてしまう。
 特に、疲労困憊の場合は危険だ。
 充分に喉を潤して、ソウヨウは先ほどの疑問を経験豊かな副官に尋ねた。
「鳳様は、どうしてそんなことを言ったと思いますか?」
 ソウヨウの言葉に、モウキンは微かに驚いて、それから困ったように、首の後ろを掻いた。
「将軍は、人の心の機微に疎すぎます。
 よく、言われませんか?」
 モウキンは苦笑した。
「そこまで深く人付き合いをしないのでわかりません」
 正直に答えた。
 何故か、モウキンは天井を見上げ、神に祈るようなしぐさをした。
「……。
 今度、若いのを見繕って紹介します」
「別に、同世代の人間と親交を深めたいと言ったわけじゃないんですけど」
「ええ、わかってます。
 ですが、将軍には必要です」
 モウキンは言った。
「そうですか?」
 ソウヨウはきょとんとした。
「そうです。
 下の気持ちがわかる指揮官は、なかなかいませんからね。
 是非とも、この機会に」
 モウキンは重々しくうなずいた。
 あまり必要性を感じなかったが、こういう場合は副官の意見に従った方が得なことが多いので、ソウヨウは認めた。
「鋼のように強靭な精神な人にしてくださいね。
 傷ついて、使い物にならなくなったら嫌ですから」
 ソウヨウはにっこりと笑った。
「わかってます、それぐらい」
 モウキンはためいきをついた。
「それで、あなたにはわかったのですか?
 鳳様のお気持ちが」
「そりゃあ、わかりましたよ。
 城主殿は、将軍を惜しんだのですよ」
「?」
「あと、十年早く生まれてれば。
 ずいぶんと運命が変わったはずですから」
「それがよくわからないのです。
 十年早く生まれてくることは不可能です」
「……。
 そうですね……。
 でも、そう仮定してください。
 話が進みません」
 モウキンはためいきをつく。
 ソウヨウは首をかしげる。
「それに、十年早く生まれたなら、完璧に敵対してます」
 キッパリと少年は言った。
「……ずいぶんとはっきりと言いますね」
「叔父たちの裏切りがあったからこそ、チョウリョウはシキボに勝てたんですよ。
 もしも私が父の側で育っていたなら、裏切りは許しませんし。
 総領になっていたなら、粛清しました」
 あっさりとソウヨウは言った。
「はあ。
 ですが、そう長いこと戦ってないですよね?
 損害が大きくなるのは馬鹿らしいですし、チョウリョウとシキボなら戦力はどっこいどっこいだと思うんですが」
「……そうですね」
 どちらかが大勝ちすることはないだろう。
 戦力の均衡が取れすぎている。
 滅ぼすことは不可能だ。
 チョウリョウを上回る戦力を手に入れるには……。
 シキボには同盟が組めるような相手はいない。
 隣接しているギョクカンはあけすかない。
 他はクニとしても、小さすぎる。
 長き戦いは大地を疲弊させる。
「和平しますね」
 ソウヨウはポツリと呟いた。
「で、お互い手を組んだら、ギョクカン相手でもそう苦戦せずにすむと思うんですよ」
 モウキンは言った。
「鳳様は人質ではなく、対等な同盟者としての『私』が欲しかったんですか?」
 ソウヨウは思いつきを口にした。
「まあ、それもあるんでしょう。
 惜しんだのは将軍の才能だけではないと、思うんですけどね。
 きっと、城主殿は本心を明かしはしないでしょうから、訊いても無駄ですけど」
 モウキンは寂しそうに微笑んだ。
 それがあまりにも、ホウスウの微笑みと酷似していた。
 ソウヨウは漠然と疑問を持った。
 副官は、訊いても答えてくれないだろう。
 そんな確信だけはあった。
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