第二十四章

 チョウリョウの南、大穀倉地帯。
 シキボと呼ばれる地域。
 かつてシキボ城と呼ばれた城の二階、渡り廊下。
 人があまり通らないゆえに、秘密話にはもってこいの場所で男が二人、雲を眺めて立ち話に興じていた。
 二人はチョウリョウ軍、フェイ・ホウスウ部隊の絲将軍旗下という何とも微妙な立場にいた。
 細面の伊達男という風情のある方がシャン・シュウエイ。今年で十七を数える槍兵の第二部隊隊長だ。チョウリョウでも権力を有するシャン家の嫡男だが、生真面目なところがある男で、親の七光りに頼らず一兵卒から実力で現在の地位に就いた。
 荒くれ者という表現が似合う大層魅力的な男の方がヤン・カクエキ。今年で十九になったはずの歩兵の第一部隊隊長だ。軍に飛び込む前は『風呼(ふうこ)の颺(やん)』という通り名で名の知れた無頼衆。
 いくら同じ将軍の配下とは言え、生まれも育ちも違う二人が、仲良く雲など眺めているのは、共通の……同志と呼べる関係にあるからだ。
 口の悪い連中が『お気に入り』と陰口を叩く、『絲将軍の覚えめでたき臣下』なのだ。つまり、ソウヨウの数少ない打ち解けたお友だちだった。
 凡庸だ、覇気がないと称される今年で十五の少年は、普段付き合う友人にかなり難題を吹っかけた。モウキンが手当たりしだい対面させた若者の中で残ったのは、僅か三人。
 多くはない数だが、その分彼なりに心を砕いている。……らしい。
 ようやく成人年齢に達した悪ガキに手玉取られた感は拭えないのだが。
「平和だな」
 のんびりとした口調で、シュウエイが言った。
「将軍がいないからなぁ」
 気の抜けたように相槌を打つカクエキ。
「今頃、きっと境まで行ってるんだろう」
「とりあえず、今回は助かった」
 豪胆な男でも、ためいきは出る。
 カクエキは雲を見ながら言った。
「風朗(風家のお坊ちゃん)が、将軍の犬で良かったよ」
 シュウエイは、この場にいないもう一人の同志に対して、辛辣な表現をする。
 このことが耳に入ることはない。
 何故なら、彼は将軍の遠乗りに付き合って、今この城にいない。
「犬……。
 主人のために死んでくれそうだな、あれは」
 カクエキも同意した。
「だから、ことさら傍に置く……のかもな」
「なるほど、盾か」
 カクエキは納得した。
 二人が話しているうちにも雲はゆったりと流れている。
 燦々と差し込む陽の光に、体が充たされいく。
「……平和だ」
 シュウエイは言った。
「そうだなぁ」
 カクエキは言った。


 その頃。
 ギョクカンとの境に程近い丘。
 幾度となく戦火に晒されたそこに二頭の馬がやってきた。
 シ・ソウヨウとフェン・ユウシだ。
「いい天気ですね」
 ソウヨウはほけほけと言った。
「ギョクカンが見渡せますね」
 風朗こと、ユウシがうなずいた。
「そうですねぇ……」
 不思議な瞳の色は考え込むように伏せられた。
 夏色の風が草をサラサラと渡る。
「人間諦めも大事ですよねぇ」
 不意に目を開けると、ソウヨウは言った。
「ギョクカンに対してですか?」
 ユウシは訊いた。
「何に対してでも、です。
 最近、よく考えさせられます。
 どうして、人はこうも諦めが悪いのでしょうか?
 しがみついていても、何も得ることはできないというのに」
 竹林で書を読む聖のようなことを十五の少年は言う。
「人間ですから」
 ユウシは言った。
「それが、本質ですね。
 ユウシは時に物の本質を言い当てますね。
 ……帰りましょう。
 日が落ちる前に戻らないと、うるさく言う方がいらっしゃいますから」
 ソウヨウは笑った。
「はい」
 ユウシはうなずいた。
 二人はこの景色を見るためだけに、馬を一刻も走らせたのだ。
 着いて、早々引き返すことになるのは十も承知のこと。
 こんな気まぐれを、絲将軍は十日にいっぺん繰り返す。
 付き合わされるのは、お友だちの面々だ。
 決して、副官のモウキンを伴わないのは、これが多大なわがままだと自覚しているためだ。


 ソウヨウは城に戻って早々耳打ちされた。
 情報提供者はシュウエイだ。
 不在の間に何があったかのか知りたい時は、彼に訊けばいい。
 今夜のおかずから、他のクニの密使まで、知らないことがないのではと思うほど情報に精通している。
 さすがは翔家の跡取り息子と言うべきだろうか。
「将軍が不在の間に、面会が申し込まれました。
 しかし、年端のいかない子どもであったため悪戯だと思い、門番が体よく追い払いました。
 どうやら、その子は我が軍に入りたかったようです」
 ソウヨウの書斎で、シュウエイは言った。
 気安い面々での、小さなお茶会の風を呈しているが、その実かなり重要な情報の交換の場であった。
「?
 城主殿ではなく、将軍に面会を申し込んだんですか?」
 ユウシがキョトンとする。考えていることがすぐに顔に出るのは、彼の美点だ。
「そいつは、シキボだったんだよ」
 カクエキが言った。大きな手が繊細な茶器を弄ぶ。
「そんなに?」
 ユウシが訊く。
「この目で見たから、間違いはない。
 将軍によく似ていたしな」
 カクエキは言った。
 シキボがチョウリョウの一部になってずいぶん経つが、二つの一族の外見的特徴の差を埋めるにはまだ数年の時が必要だ。
 チョウリョウの民は、黒褐色の髪と瞳が一般的だが、シキボの民はもっと淡い色彩を有する。シキボがシキボたらしめるのは、その瞳だ。血族内の婚姻を尊んだためもあって、皆一様に緑の瞳を持つ。
「でも、シキボの民ではしょうがないですね」
 ユウシは言った。
 その少年の気概は嬉しいものの、チョウリョウとシキボの間に交わされている契約を破るわけにはいかない。
 シキボは他の地方に二倍から三倍の税を納める代わりに、徴兵を免除されているのだ。
 田を耕すものがいなければ生産ができない、というのがシキボの言い分だ。
 事をあまり荒立てなかったチョウリョウ側は、その言い分を飲んだ。
 そのため、チョウリョウはシキボ地方を守るために、中央から軍を派遣しているのだ。
 南城に駐在する者の過半数は、シユウの代から権力を持つ豪族の子弟だ。
「私に似た子ども、ですか?
 ……どんな子でしたか?」
 ソウヨウは訊いた。
「ああ。
 細っこくて、小っちゃくて。
 まだ、十一、二ってトコか?
 服は、まあけっこう良さげなもの着てたな。
 こう黄色っぽい茶色の髪が腰まで伸ばしていて、衿んトコで地味~ぃな赤の布で括っていて。
 目は、真緑色で。
 一人前に、剣をぶら下げていたな。
 玩具みたいのだったが」
 カクエキは思い出し、思い出し答えた。
「あまりに身なりが良かったので、将軍の縁者ではないかと思ったのですが」
 シュウエイは言った。
「そうですか。
 わかりました。
 ユウシ、まだご飯食べてませんよね。
 今のうちに食べてください」
「え、まだ……」
 早すぎると言いかけて、将軍にはきっと深い考えがあるのだろうと思い、ユウシはうなずいた。
「後で、ちょっと付き合ってもらいますから」
 ソウヨウはニコッと笑って言った。
「わかりました」
 ユウシは言った。
「しかし、私の留守中ですか。
 わかっていれば、今日は外出しなかったのに」
 ソウヨウはポツリと言った。


 四人の若者が思い思いの格好で、くつろいでいた時のことだった。
 夕餉にはまだ早い時刻で、ソウヨウの書斎では三人の部隊長が読書会をしていた。
 読んでいる書がまちまちなので個性と言うよりも、協調性のなさを示していた。
 部屋の主であるソウヨウはのんびりとお茶を飲んでいた。手元にある書は漢詩で城主直作の上、直筆の詩である。
 そこに、フェン・モウキンが小箱を携えて入室した。
「失礼いたします」
 礼儀正しく衝立のところで声をかけた壮年の男は、部屋にいた一人息子を見てあからさまに顔をしかめた。
「絲将軍」
 次の瞬間には顔を元のように引き締めていたのは、上官の手前だからだろう。
 これが自分の邸宅であれば、説教の一つでも始まったはずだ。
「贈り物がございます。
 絲将軍に縁のある者からです」
 書卓の上に、小箱を置いた。
 漆がつややかに塗られ、螺鈿の細工も鮮やかな、宮廷で使われても遜色のない小箱であった。
 書卓に皆の視線が集中する。
「昼間の少年の物ですか?」
 ソウヨウは確認した。
「ご存知でしたか。
 ならば、話は早い。
 その子どもからの物です。
 この贈り物の感想を賜るまでは家には帰らない、と申しておりまして。
 門番が大変困っております」
「その子は今、どこに?」
「城主様の耳にも入りまして、城の一角に。
 もうしばしで城主様もここにお渡りになられます」
 モウキンは困ったように笑う。
「中身を知りたいんだそうで」
「物見高いねぇ、相も変わらず」
 カクエキが茶化した。
「シキョ城からお帰りになられた早々に、臣下の現状把握ですか。
 仕事熱心ですね」
 シュウエイは揶揄するように笑う。
 場が和むと言うよりは、弓に弦がきりきりと絞られ、放たれる時を待っているような感触が空間を支配した。
 ただ、ソウヨウだけがぼけぼけとお茶を飲んでいた。
 複数の足音が部屋の前でぴたりと止まる。
「失礼する」
 そう言った声は鳳のものではなかった。
 千里の字を持つギョウ・トウテツ。
 南城にいる四将軍の一人だ。
 トウテツの後に、ホウスウが入室する。
 全員立ち上がり、拱手する。
「楽にして欲しい」
 城主の声を合図に、皆顔を上げた。
「こちらから、参りましたのに」
 ソウヨウは微かに笑った。
「いや、それには及ばない。
 面白いものが届いたと聞いて、見てみたくなっただけだ。
 皆でくつろいでいるところにすまない」
 謝罪しているとは思えないほど尊大な口調で鳳は言った。
「いえ。
 ご足労をかけました」
 形式的にソウヨウは言った。
「では、中身を改めましょう。
 大体、予想はつきますが」
 ソウヨウは螺鈿の箱のふたを慎重に外した。
 !
 場の空気が一瞬にして、凍った。
 ホウスウは思わず目を逸らし、トウテツにしたって大きく息を吸い込んだ。歴戦の兵士であるモウキンもうめいた。シュウエイは声をあげないように口元に手を当てた。カクエキはマジマジとそれを見た。ユウシに到っては、顔色を失っていた。
 誰もが我が目を疑った。
 いや、正確には一人を除いて。
 ソウヨウだけは平然としていた。
「皆さん、どうかしたんですか?
 死体なんて見慣れているでしょう?」
 ソウヨウは微笑みながら言った。
 小箱の中には、壮年の男の生首が入っていたのだ。
「恐らく、ユ・タイホイ殿だと思うのだが」
 ホウスウは言った。
「そうですね」
 ソウヨウはあっさり肯定した。
 それによって場の空気はさらに悪化した。
 ユ・タイホイはこのシキボの権力者の一人だ。
 絲一族の重鎮と言った方が、正しい。
 ソウヨウの三番目の伯父である。
 その首を、子どもが持ってきたのだ。
「一番の贈り物ですね」
 嬉しそうな、としか表現できない声でソウヨウは言った。
 ユ・タイホイの影響力は強すぎた。彼が否と言えば、シキボではそれが律になってしまうほどに。それで何度かチョウリョウ側は煮え湯を飲まされてきた。
 彼の死は喜ばしいことだった。
 チョウリョウにとっては。
 しかし、こういう形でもたらされると話は変わる。
 あの少年はどうやって、これを手に入れてきたのか。
 運ぶように誰かに命令された。と、考えるのが穏当であろう。
 一体、誰が何のために……。
「あの子どもの身元を調べる必要がありそうですね」
 千里は冷静に提案した。
 ホウスウはうなずいた。
「身元ならしっかりしていますよ。
 私が保証人になりましょうか?」
 ソウヨウは言った。
「知り合いか?」
 千里が訊く。
「従弟です」
「!?」
「私によく似た少年なんでしょう?
 小柄で、剣を持っていて、赤紫の布で髪を括っている」
「当たってるけど、シキボのその辺の子どもに剣持たせて、髪を縛らせれば、みんな従弟そっくりになるな」
 千里が笑う。
「そんな馬鹿なことするわけないじゃないですか。
 間違いなく、その子は私の従弟です」
 ソウヨウは言い切った。
「仮に将軍の従弟殿だとして、何のためにここに来たんでしょうか?」
 モウキンが割って入る。
「あの子は小さい頃から可愛がってあげましたから。
 私には兄弟もいなく、他の従兄たちは私より年上でしたから、弟みたいな存在なんです。
 きっと私の手助けをしたいと思ったんでしょう。
 少し考えなしのところがありますけど、良い子なんですよ」
 緑がかった茶色の瞳が懐かしそうに語る。
「はあ」
 モウキンは曖昧な微笑を浮かべた。
「鳳様。
 私の配下に加えてもよろしいでしょうか?」
 ソウヨウはホウスウにおねだりをした。
「シキボとの契約があるが。
 何とかできるなら、かまわない」
 ホウスウは許可した。
 シキボをかつて治め、今でも多大な影響力を持つ絲一族の総領の望みだからだ。
「ありがとうございます」
 ソウヨウは満面の笑みを浮かべた。
「だが、その前にこの首の送り主を特定するのが先だよ、お嬢さん」
 千里は意地悪く笑った。
 ソウヨウはきょとんとし、それから首を傾げ、たっぷり時間をかけてから、ぽんと相槌を打った。
「この首を落としたのは、あの子ですよ」
 サラッとソウヨウは言った。
 この場に居合わせた人間は時が止まったのを感じた。
 思考が鈍ったのだ。
「はっ?」
 千里が訊き返した。
「相手が油断してる隙を突いたんだとは思いますけど。
 まあ、正々堂々と渡り合えるかというと、疑問詞がつきますからね」
 ソウヨウのこの発言に、ユウシがよろよろと壁にすがりついた。そうしていなければ立っていられないからだ。
 ホウスウもその無礼を見咎めなかった。
「何のために?」
 動揺を抑えて訊き返せた千里の心臓は、恐らく鋼鉄でできているのだろう。
「邪魔だったんでしょう。
 三伯(三番目の伯父)は、かなり発言力を持っていましたから。
 軍に入ることを反対されたら、このシキボではおしまいです。
 それに、最良の手土産だとあの子なりに判断したんでしょう」
「それで、殺しました……ね。
 なかなか素敵な冗談だ。
 で、このことをどう治めるつもりなんだい?
 絲の総領殿」
「……もしかして、報復を恐れてるんですか?」
 驚いたと言うよりも、呆れたと言う顔でソウヨウは訊いた。
「常識的な考えだと思うが?」
「そんなことありませんよ。
 報復だなんて。
 きっと伯父上も満足でしょう。
 天の国で感激してるに違いありません。
 自分が手塩にかけて育てた息子の剣技を味わうことができたんですから。
 なかなか得がたい体験ですよね」
 笑顔でソウヨウは言った。
「とすると、その少年は父を殺したのか……」
 ホウスウは苦々しく呟いた。
 ソウヨウは目をぱちくりさせる。
「一度忠誠を誓った相手は裏切りませんよ。
 安心してください」
 見当違いなことをソウヨウは言った。
「……。
 この件はソウヨウに任せる。
 くれぐれもシキボといざこざを起こさぬように」
 ホウスウは言うと、深いためいきをついた。
「ありがとうございます」
 ソウヨウは拱手する。
「邪魔をした。
 モウキン、少年のところに案内してやれ」
「かしこまりました」
 モウキンは拱手する。
 ホウスウは部屋を出て行く。千里もそれに従う。部屋を出る前に青紫の瞳は小箱を一瞥した。
 呪縛が解けたように、ユウシはずるずると床に座り込んだ。
 シュウエイも長椅子に身を預ける。
「シキボって、どうなってるんだ?」
 カクエキがうめいた。
 ソウヨウはお友だちの様子に気にも止めずに、いそいそと硯と筆を用意していた。
 モウキンは小箱のふたを閉じた。あまり、眺めていて気分の良いものではない。
「風朗、大丈夫か?」
 気を何とか持ち直したシュウエイは、側でへたり込んでいる少年に声をかけた。
 普段なら『風朗』と呼ぶと真っ赤な顔をして抗議する少年も、大人しい。
 返事は返ってこなかった。
「飯がまずくなりそうだぁ」
 カクエキはシュウエイの隣にドカッと座る。
 夕餉の前に、嫌なもん見せられてしまった。
「ん?
 もしかして、将軍は最初から気がついてたんじゃ!」
 カクエキはソウヨウを見た。
「何がですか?」
 ソウヨウは竹簡に筆を滑らせながら訊いた。
「これが来ることだよ!」
 思わず怒鳴ったのは、心のゆとりがなかったためだ。
「ああ、首ですか?
 ツーならやると思いましたよ。
 あの子、昔から短慮でしたから。
 大きくなっても早々変わりませんね。
 もっと忍耐強くなってもらわないと」
 後々困ることになる、と少年は独り言のように呟いた。
「ツーとおっしゃるのですか?」
 シュウエイが訊いた。
「……。
 名前は、ユ・ツーデュエン。
 こちら風にはユ・シデンですね。
 字は知りません。
 最後に会ったのは、私が九歳の時ですから」
 ソウヨウは筆を置く。
「質問があるなら今のうちですよ。
 私の配下になるんですから、仲良くなってもらわないと」
「もう六年も前の記憶ですか?
 行将軍ではありませんが、人違いの可能性はないんですか?」
 モウキンは言った。
「赤紫の布はツーの証ですよ。
 このシキボで真似する人間はいません」
「あーっ!
 それが理解できないんだよ!!
 どうして、布と、剣で従弟だって確信できるんだ?」
 カクエキは髪をかきむしって、叫んだ。
「一族の習慣ですか?」
 シュウエイが訊いた。
「はい。屋敷の外で帯剣できるのは、限られた人間だけですから。
 赤紫を髪に縛るのはツーだけにしか許されてません。
 もし他の人間が真似した場合は、命の保障はありません」
 ソウヨウは答えた。
「伝統ってのは、訳わかんねー」
 カクエキが愚痴る。
「カクエキ。
 ツーはあなたの部隊に入れます。
 兵士見習いと同じ扱いにしてあげてください。
 こき使ってあげてくださいね」
 ソウヨウはにっこりと笑う。
「げっ!」
「じゃあ、ツーに会いに行きましょうか。
 任命書もできましたし」
 楽しそうに、竹簡を見せる。


 部屋に入ると、小柄な少年が叩頭礼していた。
 その仰々しさに、カクエキは辟易した。
 椅子があるというのにそこに座らず、敷物の上でもなく、冷たい床の上に少年は平伏していた。
 しかしカクエキが驚いたのは、それではなかった。
 入室した上官の雰囲気に飲まれそうになった。
 廊下を歩いていた時はにこやかにしてたというのに、部屋に入ると表情が削げ落ちたとしか思えないほど、冷徹な顔をしていた。
 可愛い従弟を見ると言うよりは、つまらないモノでも見るような蔑みを帯びた冷たい瞳だった。
 小柄な少年は言葉を発せず、ただひたすら身をかたくして礼を取っていた。
 ソウヨウは持っていた竹簡を少年の目の前に、捨てるように投げた。
 カランッ!
 竹の乾いた音が部屋に響いた。
「後はお願いします」
 ソウヨウはカクエキに命令した。
 威圧される。
 カクエキは、脅威を感じた。
 ソウヨウはモウキンに目で合図すると部屋を退出した。
 納得がいかなくて、それを追いかけられたのは奇跡と言っても過言ではない。
「将軍!」
 廊下で引き止めた。
「何ですか?」
 いつものぽややんとした上官に戻っていた。
 その落差にカクエキは動揺を隠せないでいた。
「可愛い弟分じゃなかったんですか?」
「ええ、そうですよ?
 それが、何か?」
「……全然、そんな雰囲気に見えなかったんですけど」
「え、そうですか?」
 ソウヨウは心底、驚いたと言う顔をする。
 途惑い、副官に助けを求める。
 あどけないしぐさだった。
「シキボではどうだか知りませんが、チョウリョウではもう少し違ったやり方で再会しますね。
 まず、立たせて、温かい言葉をかけ、抱き合って、労う。
 で、再会を喜び合う。
 と言うところでしょうか」
 モウキンは答えた。
「奥が深いんですね。
 ツーはシキボのやり方で誠意を示してくれたので、シキボのやり方で労ったんですが。
 ダメでした?」
 ソウヨウは言った。
「アレで、労ったんですか?」
「わざわざ部屋まで出向いて、手渡したんですよ」
「投げ捨てたの間違いじゃあ」
「手渡したんです」
 ソウヨウはむきになって答える。
「風呼、新米を部屋に置き去りにしたのはまずいと思うぞ。
 何か問題が起きる前に、対応するように」
 モウキンが二人の間に割って入る。
「わかりました」
 カクエキは拱手するとしぶしぶと部屋に戻った。
 あの少年はきちんと椅子に座って、カクエキを待っていた。
 カクエキが入室すると、ひょこっと立ち上がり拱手する。
 叩頭礼は、ソウヨウにしかしないらしい。
「俺はヤン・カクエキ。
 風呼のヤンとも呼ばれるな。
 チョウリョウ軍シキボ地方フェイ・ホウスウ部隊の絲将軍旗下歩兵第一部隊の隊長だ」
 長ったらしい肩書きを一気に言う。
 丸暗記しているので、応用が利かないのだ。
「隊長と呼ぶように。
 お前の名前は?」
「ユ・ツーデュエンと申します。
 あ、こちらではシデンですね。
 まだ成人していないので字はありません。
 シデンと呼び捨てにしてください、隊長」
 シデンは人懐っこい笑みを浮かべる。
「まあ、最初は雑用だ。
 気張らずに行け」
 カクエキは小さい肩を叩いた。
「はい!」
 シデンは元気よく返事をした。
 その手にはしっかりと竹簡が握られていた。




 明けて、翌日。
 絲将軍に面会が申し込まれた。
 ワン・トウホワンと老齢に達した男は名乗った。
 ソウヨウの書斎で、それは行われることになった。
「千客万来ですね」
 ソウヨウはニコニコと笑った。
「名前に心当たりは?」
 昨日の一件に懲りたカクエキが発した。
「一番上の伯父です」
「まさか、また箱持ってきませんよねぇ」
 ユウシは気弱に呟いた。
「どうでしょう?
 けっこう義理堅い人だったと記憶してますから」
 のんきにソウヨウは答えた。
「義理堅いと、小箱を持ってくるんですか?」
 げんなりとシュウエイが言った。
 若者たちが好き勝手なことを言っていると、その人物は現れた。
 背はあまり高い方ではないが、姿勢が良いため立派に見える体に、実にシキボらしい色彩の衣をまとっていた。
 腰にはそれ自体が宝と呼べるような見事な剣が一振り。
 白髪交じりの茶色の髪を一つに編み、先の方を黒い布で括っている。
 部屋に入るなり、老人は平伏した。
 昨日の騒動のせいでだいぶ肝が据わってきた青年たちは、さして驚かなかった。
 ソウヨウは老人を冷ややかな瞳で見下した。
 無音がしばし書斎を支配した。
 痺れを切らしたのは、ソウヨウの方だった。
「話があると聞いたのですが?」
 その声は普段のものと比べると、他を威圧する力であふれていた。
 聞いた者が思わず、ソウヨウを見ずにはいられないような、視線を集める声だった。
「はい」
 老人は平伏したまま、答えた。
「何ですか?
 伯父上」
 ソウヨウは優しく訊いた。
 その優しさの下には真剣の白刃があることを隠しもしない。
「此度は総領様には多大なるご迷惑をおかけいたしました」
 ワン・トウホワンは孫ほどの年齢の子どもに圧倒されていた。
「今回?」
 ソウヨウは首を傾げる。
「どれのことだか、わかりません」
 少年の口元に笑みが浮かぶ。
「総領様がシキボに戻られて以来、不埒な者たちが何かとご迷惑を」
「ああ、そうですね。
 でも、仕方がないです。
 伯父上には、それを止める力がないのだから」
 あっさりと年配の能力不足を指摘する。
「大変申し訳ございません」
「別に。
 努力したところで、無駄です。
 期待はしていません」
 追い討ちをかけるようにソウヨウは言った。
「……」
 トウホワンの額に脂汗が浮かぶ。
「できないとわかってることを無理にやるのは愚の骨頂です。
 若いうちなら、まだしも。
 人は己の領分を守る、それでいいのだと思いますが」
「その通りでございます」
「それに伯父上は、何も望まれていない。
 そうでしょう?
 あなたが絲の姓を名乗ると言うなら別です。
 あなたが糸の字を名に持つと言うなら別です。
 誰からも、期待されていないあなたが、何故ここにやってきたのですか?」
 ソウヨウは訊いた。
「此度の不祥事。
 我が首でもって償いといたしたいと思いましてやってきた所存です」
 トウホワンが言った。
 シュウエイは息を呑み、カクエキは天井を仰ぎ、ユウシはよろよろと長椅子に座り込んだ。
「あなたの首、ですか?
 いりません」
 キッパリとソウヨウは言った。
「何とぞ、老いぼれの首でもってご容赦くださいませ」
 老人は必死になって言った。
「そう言えば、孫が生まれたそうですね」
 脈絡なくソウヨウは訊いた。
 トウホワンの肩がビクンと揺れた。
「はい」
「男の子ですか?」
「いえ、残念ながら女児でございました」
 トウホワンの声が震えていた。
「名づけの儀は?」
「今夜執り行う予定です」
 床に汗がぼたぼたと零れていく。
「確か、初孫でしたよね」
 ソウヨウは確認する。
「はい」
 トウホワンは答えた。
「……そうですか」
 ソウヨウは何か考え込むように瞳を伏せた。
 僅かな時が重苦しく流れていく。
 絲の総領以外は。
「そうですね。遺恨は残してはいけませんね」
 ソウヨウは椅子から立ち上がる。
 トウホワンはゆっくりと近づいてくる足音に、どこか安堵していた。
 老人は腰に佩いていた剣を己の前に置く。
 ソウヨウはその剣を拾った。
 優美な意匠のそれには、黄玉が幾つも嵌めこまれている。
 鞘を払う。
 濡れるようにしっとりと輝く刀身があらわになる。
 思ったよりもずっと軽い剣だ。
 ソウヨウはその剣を洗練された動作で振り上げた。
 誰もが、それを見ていた。
 トウホワンですら、その美しさを見上げていた。
 剣を構える少年は苛烈な美を有していた。
 銀の煌きはためらうことなく見事な直線を描く。
 誰も止めることができなかった。
 まるで崇高なる儀礼のごとく、剣が振り下ろされるのを見ていた。

 とすんっ

 軽い音を立てて、それは斬り落とされた。
 否、それだけが斬り落とされた。
 白髪交じりの茶色の髪が首の辺りから、切られていた。
 斬り落とされた長い髪は無残にも床に広がっている。
 ソウヨウは剣を鞘に戻した。
「シュウエイ」
 突然、名を呼ばれシュウエイは困惑した。
「差し上げます。
 槍だけでは心許ないでしょう?
 けっこう、切れ味はいいですよ」
 ソウヨウは手にしていた宝剣をシュウエイに投げて寄越した。
 トウホワンは総領を見上げた。
「おじいちゃんがいないと、お孫さん可哀そうでしょう?
 生首を並べる趣味はありません。
 そんな命令すればすぐにでも手に入るようなものに興味はありません」
 ソウヨウはいつもの微笑を浮かべた。
「女の子なら『絳』がいいでしょう。
 華やかな色ですから」
「……字をくださるのですか」
 老人の黄緑色の瞳が大きく開かれる。
「あなたの気概に敬を賞して」
「勿体ないお言葉です。
 私めのような者に…………」
 トウホワンは平伏した。
 その両目からはボタボタと大粒の涙が零れていた。


「もしかして、皆さん。
 私が伯父上の首を落とすと思ってませんでしたか?」
 トウホワンが退出すると、ソウヨウは訊いた。
 お友だちはばつ悪そうにしていた。
「やっぱり。
 こんなにも信用がないだなんて」
 ソウヨウはすねた。
「昨日が昨日でしたから」
 何の足しにもなりはしないことをシュウエイは呟いた。
「シキボの人たちって、みんなああなんですか?」
 ユウシは訊いた。
「?
 ええ、まあ。
 ワン伯父上は、責任感が人一倍強い方で、なかなかできた人物ですよ」
「伯父の中では一番好きでしょう?」
 シュウエイは言った。
「どうしてわかったんですか?」
 ソウヨウは目を瞬かせた。
「あの人は本当にすごい人ですよ。
 長男だから、剣の所持こそ許されましたが、後は全部弟に持ってかれたんですよ。
 絲の姓も、糸の字も。
 それなのに弟が不始末をしでかすと、家長でもないのに潔く責任取るなんて、なかなかできないと思うんですよね」
「シキボは長男が家を継がないんですか?」
 ユウシは驚いた。
 チョウリョウでは長男が家を継ぐ。よっぽどのことがない限り、その律は揺らがない。
「実力主義ですよ。
 絲一族の場合は八歳の時に、男も女も関係なく全員試験を受けるんです。
 それで相応しくないとなると、その日から直系であっても分家になるんです。
 だから、伯父たちは皆姓が違うんですよ」
 ニコニコと絲の姓を持つ少年は語る。
「「「なるほど」」」
 期せずにして三人のお友だちの声はそろった。
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