第二十五章

 チョウリョウの都、シキョ城。
 胡蝶の君付きの侍女メイワは、ニコニコと笑いながら今日も働いていた。
 八つのときに姫の話し相手兼世話係として城に登って以来、実に十年間まめまめしく、侍女の鑑と呼ばれるほどの働き者だった。
 彼女の笑顔を見なければ、一日が始まった気がしないと言う者も多い。
 周囲の人間から愛されているのは、その明るい笑顔。
 これでもう少し器量良しでもあれば、求婚者も引く手も数多となったのだが、残念ながらメイワは美人ではなかった。それに卑屈にならず、今日も今日とて働いていた。
 メイワご自慢の姫君は、御歳十六になられその美貌は、日に日に輝くばかり。
 同性の目から見てもためいきが零れてしまう、麗しさだった。
 ホウチョウは玻璃のはまった窓辺に椅子を引き、ぼんやりと日差しを受けていた。
 極上の瑪瑙を丹念に磨き上げた瞳は半ば伏せられ、すべらかな頬に絹糸のように細く艶やかな赤みの強い茶色の髪が一束かかる。
 愁うという表現がよくお似合いだった。
 メイワがやっても様にはならないが、胡蝶の君には見る者全てが胸をつくような雰囲気があった。
「姫。
 このメイワに何か隠し事をしていませんか?」
 メイワはニコニコと訊いた。
 主が答えてくれるとは思ってはいない。
 成人してから頻繁に見せるようになった表情だ。
 年頃の乙女らしく、ささやかで、深い悩み事があるのだろう。
 ただ、気にかけているというのが、わかってもらえればいいと思ってのことだ。
「あら、メイワほどでもないわよ」
 ホウチョウはニコッと笑った。
「メイワは私に名前も教えてくれないじゃない。
 別に真字が知りたいとは言ってないわ。
 お友だちの名前の音ぐらい知っておきたいと思うのは、失礼にはならないはずと記憶してるのだけど?」
 主はクスクスと笑う。
 痛いところを突かれてしまった。
 メイワは困った。
「申し訳ございません、姫」
「いいわよ。
 冗談よ。
 幼馴染みの君に免じて許してあげるわ」
 ホウチョウは偉そうに言った。
 そして、娘二人は顔を合わせて笑った。
 いつものやり取りだ。
「メイワと幼馴染みの君の話が聞きたいわ」
 ホウチョウは言った。
「いいですよ」
 もう何遍もやり取りされてきたことだ。
 胡蝶の君は、二つ年上の侍女の幼い恋の話を時折せがむ。
 自分自身ができない『恋』に憧れて、周りから話を聞いて心を満足させるため。


 メイワはチョウリョウでも屈指の家柄、ウェン家の長子として生まれた。何故かウェン家は女系で男子が生まれてくること自体が稀で、しかも成人するまで育たない。そのため、剣で身を立てるという方向はとっくの昔にすっぱりと諦めて、娘を時の権力者の妻妾にすることで、勢力を保っていた。
 メイワの下も女ばかりで、婿養子である父は東奔西走で嫁ぎ先を探し回っていた。
 本来ならメイワは家の名を背負って皇帝の後宮に入るはずだったのだが、残念なことにメイワは生まれたときから周囲を落胆させるような容姿であった。
 父はあっさり諦め、いまいちな娘のために格上ではなく、同格の家柄を嫁ぎ先に決めた。子を思う親心だ。
 相手方も古くから親交のあった家だけに快諾。
 メイワは花婿が生まれてくる前に、婚約したのだ。
 家と家の結びつきを強固にするための結婚というのは、さして珍しくもないことだった。メイワも疑問も持たずに納得した。
 メイワが八歳の時。
 メイワはシキョ城に侍女として登ることが決まった。政治的な駆け引きがあったのだろう。
 城に登ってしまうと、実家には滅多に戻ってこれない。
 今のうちに、子どもたちを引き合わせておこうという口実で、単に親同士が宴を開きたかったのかもしれない。
 季節は、春。
 碧桃が美しかった。
 主役であるメイワは、宴会会場から抜け出して院子に出た。
 婚約者と引き合わせるといっても、実際に顔は見られない。初夜までお互いの顔を見ないのが、礼儀なのだ。
 パッとしない容貌のおかげで目立つことなく宴会会場から抜け出したメイワは、院子で見つけてしまった。
 鳥の雛の亡骸を。
 チョウリョウの民であれば、身近な人の死を見つけたときのように、胸苦しいものに襲われた。
 祝いの席で、大層な穢れであったが、メイワは周囲に人がいないことを確認して、その雛を拾い上げた。
 桃の中で一等美しい木の下に小さな穴を掘る。
 いつもと違う長い袖は、穴掘りには向いていなかったが手近にあった石を使って、一生懸命に穴を掘った。
 八歳の子どもの瞳に薄っすらと涙が浮かぶ。
 雛に同情したこともあったが、何より自分に重なって見えたのだ。
 巣から落ちた雛はあっけなく死んだ。
 美しい家族の中で、一人醜い自分はこれからシキョ城に登る。
 仲間外れになった気分だった。
 そうして、自分は誰にも気がつかれずに、死んでしまうのかもしれない。
 そう思えてきて、涙がこぼれた。
 人前では決して笑顔を絶やさない子どもだけに、珍しいことだった。
 メイワは自分が醜いことをよく自覚していた。
 不細工は重苦しい顔をしても似合わないことも、よく知っていた。
 だから、笑っていた。
 そうすれば、愛嬌があると、人から好かれるからだ。
 べそべそと泣いているときだった。

 ぱきっ

 小さな物音に、メイワは振り返った。
 そこには、気まずそうな顔をした男の子がいた。
 足元には、今しがた踏んだと思われる小枝。
 メイワは見惚れた。
 一つか二つ年下の男の子は、物語に出てくるように整った容姿であった。
 鮮やかな緑と紅の取り合わせが、嫌味なくすっきりと似合っていた。
「すまない。
 見るつもりはなかった」
 男の子は言った。
 メイワはハッとして、袖で涙を拭う。
 慌てて立ち上がり、屋敷に戻ろうとした。
 男の子は、メイワの袖を掴んだ。
「名前は?」
 真剣な問いに、メイワは困った。
 名を明かすと言うことがどういう意味か、幼いメイワにもわかっている。
「離してください」
 メイワは懇願した。
「名を教えてくれたら」
 男の子は言った。
 メイワは男の子の顔と掴まれている袖を交互に見やる。
「他言はしない。
 人前でも、決して呼んだりはしない」
 その眼差しは真摯。
 嘘ではないような気がした。
「  」
 メイワが名乗ると、男の子は何ともいえない笑顔を浮かべた。
 真に人が喜んでいるときに見せる笑顔だった。
 メイワはそれに見蕩れた。
「誓って欲しい。
 これから先、誰にも名を教えない、と」
 理不尽な言葉だと言うのに、すっかり夢見心地のメイワはうなずいた。
 名を明かしたことによって、魂を奪われてしまったのかもしれない。
「私の名は……」


「その男の子が婚約者だったのでしょう?」
 ホウチョウは愉しそうに言った。
「ええ、そうです。
 本当は、結婚まで会ってはいけないので、両親にも内緒です」
 メイワは微笑んだ。
「メイワは果報者ね。
 思われて嫁ぐんだから」
「昔の話です。
 手紙のやり取りもしておりませんし」
「あら?
 でも、メイワはずいぶん大切にしている手紙があったような気がするのだけど?」
「あの後に一度だけ手紙をもらったのです。
 それきり、何のお付き合いもございません。
 あちらもお忘れになっているはずですよ」
「そう?
 案外、覚えていたりして」
「どうでしょう?」
 メイワは笑った。
「うらやましいわ。
 メイワはお手紙がもらえて」
「姫宛にたくさんの手紙が来ているそうですよ。
 クニの外からも」
 胡蝶の君の美しさはチョウリョウだけではなく、大陸全土に広がっていると言っても過言ではない。
 求婚者は、文字通り星の数ほどいる。
「欲しい人の手紙以外はいらないわ」
 ホウチョウはためいきをついて、愁いを帯びた表情を浮かべた。
「姫」
「わかってるわ。
 もう子どもじゃないから、わがままはそんなには言わないわ」
 胡蝶の君は笑った。
「そんなには?」
「少しぐらいはいいでしょう?」
 人を惹きつけて止まない乙女は罪作りな笑顔を浮かべる。
 思わずうなずきたくなってしまうような。
「少しだけですよ」
「もちろん」
 二人の娘は顔を合わせて笑った。
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