第五十七章

 南城の城主は、難しい顔で書簡を手にしていた。
 読んでいるわけではない。
 見ているだけだ。
 もう三回ほど読み返し、内容は頭に入っている。
「もし、私が一月以内に死んだら。
 十中八九、鳳様が犯人ですね」
 ボソッとソウヨウは呟いた。
 その瞳には、他人が読み取りがたい複雑な感情が浮かんでいた。
「帰還命令が出ました」
 ソウヨウは書簡を書卓に広げた。
 その表情は優れない。
「軍を解散して、姫の護衛を兼ねて、戻って来い。だそうです」
 大きく息を吐く。
「……。
 用済みですか、私は」
 その言葉に悲しみはにじんでいなかった。
 やりきれない、という思いがあるだけだ。
「所詮、それだけのつながりですか。
 糸よりも細い……」
 ソウヨウは背もたれに体を預け、天井を仰ぐ。
 結局、信頼関係は築けなかった。
 どちらも、その努力を怠ったからだ。
 もとより相容れないものだったのだ。
 あまりにも、二人は似すぎていた。
 相手が何を考えているのか、わかりすぎた。
 自分が嫌いな人間は、決して自分に似た人間を許しはしない。
「考えすぎではありませんか?」
 モウキンは言った。
「都合の良すぎることは、信じないようにしてるんです。
 裏切られたときのことを常に考えておかないと、迅速に対処ができませんから」
 人との関係は常に裏切りを孕んでいた。
 人間は自分勝手なのだ。
 どんな形で、裏切られるかわからない。
 幼い頃に叩き込まれた絶対の律だ。
 人を信じすぎてはいけない。
「私は将軍を裏切りませんよ」
 モウキンは言った。
 曖昧な色の瞳だけを動かして、副官を見る。
「嘘はいけません」
 ソウヨウは口元に笑みを浮かべる。
「そんな、副官は要りません。
 あなたが私を一番にするような人間なら、側に置きません」
 感情の欠けた、淡々とした言葉。
 モウキンは不服そうに上官を見た。
「あなたは迷うでしょう?
 もし、私とユウシのどちらかしか助けられず、どちらかを切り捨てなければならない、となったら。
 口では私だと言いながら、両方を助ける方法を必死で探す。
 違いませんか?」
 ソウヨウは言った。
 図星を指され、モウキンはためいきを答えにした。
「その人間らしさがあなたの長所です。
 あ、褒めてるんですよ。
 善良で、素晴らしい。
 それにずいぶんと、甘えさせていただきましたから。
 ですが、私にはそれができません。
 簡単に選べてしまうんです。
 一方を」
 ソウヨウは皮肉げに笑う。
「迷いません。
 だから鳳様は、私を自分の側に置いたんです。
 監視していなければ危険だから。
 私は簡単に人を裏切り、それで心を痛めたりはしません。
 良心がないのでしょう。
 それをあの方は良くご存知だった。
 何故、鳳様があなたを私の副官にしたかわかりますか?
 あなたの考えはわかりやすく、善意に満ち満ちていた。
 とても、一緒にいて楽だった。
 あなたは謀略からほど遠くにいて、自分の信念を持っていた。
 あなたは私の良心だった。
 私はあなたを基準にしてきたんです。
 その心に適うように。
 人間らしくなったでしょう?
 最初に会ったときと比べれば、全然」
 ソウヨウはクスクスと笑った。


 モウキンはこれによく似た光景を知っている。
 幾度となく見てきた。
 戦場に立っていれば、当然のように、見せられてきた。
 死に際の、死を覚悟している人間の、死に殉じる覚悟のできた者の……。
 最期の告白だ。
 目の前の青年が失われていこうとしている。
 それに、モウキンは恐怖を覚えた。
「誰に許してほしいのですか?」
 モウキンは声を上擦らせながら訊いた。
 一体、何に許しを求めているのだろうか。
 今までの罪を清算するような、告解。
 笑いが不意に、止まる。
 ソウヨウはがっくりとうなだれた。
「……。
 ずっと、死は怖いものでなかったんです。
 私が簡単に人の命を奪うように、私の命もまた簡単に奪われるものです。
 死は、生と、紙の表裏で、境目が曖昧で、何かの弾みで行ける場所でした」
 青年は自分の両手の平を見る。
「今は、それが怖いんです。
 死を賜ったら、と考えるとわけのわからない震えが」
 細い肩が震えていた。
 モウキンはその肩に、そっと手の平を置いた。
「考えすぎですよ」
 くりかえし言った。
 人の真似をする人形に、本当の魂が宿る可能性があるように。
 欠け歪な心にも、補われる可能性はある。
「死にたくありません」
 ソウヨウは本音を零した。
 声も震えている。
「この夢がずっと続けばいいのに、と。
 思ってしまうんです」
 そんなことはありえないのに、ソウヨウは呟く。
「このところ、調子良く行きすぎたんで、この辺で落とし穴があるんじゃないかって。
 疑心暗鬼になってるんでしょう。
 深く考えすぎです」
 モウキンは微笑んだ。
「十六夜公主は、幸運の女神なのかもしれませんよ。
 将軍を幸せにするためにいるのかもしれません」
 モウキンは言った。
 ソウヨウはそれでも、顔を上げなかった。
 孤独な魂に幸いあれ。
 モウキンは天にいるはずの神々に、祈った。
並木空のバインダーへ > 前へ > 「鳥夢」目次へ > 続きへ