第五十九章

 夢じゃなくて……良かった。
 毎朝、目覚めて。
 昨日の続きの、今日だということを確かめる。
 全部、夢のようだから。
 確認しないと、不安になる。
 今が、夢じゃないと、確認しないと怖くなる。
 もしこれが夢だったなら。
 耐えられないから。


「おはよう、シャオ」
 朝の光。
 初夏の輝き。
 喜び。
 幸福。
 それらを体現するたった一人の人。
「おはようございます、姫」
 返事ができることが嬉しい。
 今も昔も変わらず。
 過去は流れ去るのではなく、積み重ねられていくものだと、実感する。
「どうしたの?
 元気がないけれど」
 ホウチョウは心配げにソウヨウを見上げる。
「少し、疲れているだけです」
 ソウヨウは穏やかに言った。
 最近、心が過敏になっている。
 感情は理性によって押さえつけられていたものだから、こうも感情に振り回されるとくたくたになる。
 ホウチョウの手がソウヨウの手を掴む。
 赤瑪瑙の瞳がソウヨウを見つめる。
 嘘など許さないように。
「それだけ?」
 ホウチョウは訊いた。
 ソウヨウは真っ直ぐな視線が痛くて、思わず目を逸らした。
「シャオ。
 どうしたの?」
 ホウチョウは重ねて問う。
 ソウヨウは答えられなかった。
 彼自身、答えがわからなかったからだ。
 今起きている、全ての事柄が原因のような気がしていた。
「都に帰りたくないの?」
 その質問の答えは一つだった。
 ソウヨウは立ち止まり、うつむいた。
 院子の花の鮮やかさすら疎ましく感じる。
「帰りたくないなら、いいのよ」
 ホウチョウは言った。
 あっさりとした言い方に、不審に思いソウヨウは顔を上げた。
「無理しないで」
 一夜分欠けた月は、その美称のように微笑んだ。
 労わるような優しい声に、一つ分の年の差を感じた。
 何も言うことができなくなって、見つめた。
 帰還命令が出たのだ。
 帰らないわけにはいかない。
 皇帝に逆らうことは、できない。
 この大陸で安息の地を失くすというのと同義語だ。
 それ以上に、彼女を都に帰さなければいけないという使命感がある。
 彼女は、そう。
 あの、秋咲きの、橙色の花薔薇。
 シキョ城でしか咲かない、花。
 だから、ここでは枯れてしまう。
 ここでは、駄目なのだ。
 暑すぎる夏が、彼女を損なう。
「いいえ。
 大丈夫です」
 ソウヨウは精一杯の笑顔を作る。
「姫こそ、帰りたくないんじゃないんですか?」
 声に気を使い、ごく普段どおりに話す。
「うん」
 ホウチョウはうつむいて、ソウヨウの腕に頭を押しつける。
「最近、どうでも良くなってきたの。
 帰らなくてもいいかな、って」
 ホウチョウは静かに言った。
 意外な答えに、ソウヨウは驚く。
「あのね。
 本当にシャオが帰りたくないなら、別に私はどうでもいいのよ。
 帰らなくてもいいの」
 ホウチョウは言った。
 赤瑪瑙の瞳がソウヨウを見た。
 澄んだ瞳は、打算も計略もない。
「ですが……」
「シャオがいる場所なら、それで充分な気がするの」
 甘い誘惑だった。
 喉まで言葉が出かかる。
「……。
 鳳様が心配なされます」
 ソウヨウは自分の心と違う言葉を口に乗せた。
「それでもいいわ」
 ホウチョウは笑う。
「でも」
 ソウヨウは言葉を紡ごうとする。
 それは理性の働き。
「二度とシキョ城に戻れなくてもかまわない」
 ホウチョウは言う。
 普段の明るいだけの声とは違う。
 迷った末に、出した決意のような響き。
「私と逃げてくれますか?」
 ソウヨウは口を滑らした。
 言うつもりのなかった言葉が、届いた。
 ホウチョウは本当に嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、もちろん」
「この世に安息の地がなくても?」
「シャオがいるわ」
「誰にも認められなくても?」
「関係ないわ」
「きっと、たくさんの人が悲しみますよ」
「シャオがいない方が、辛いわ」
「それでも、私の傍にいてくれますか?」
「ずっと一緒よ。
 神様だって、引き離せないんだから」
 ホウチョウは言い切った。
 その強さに、ソウヨウは泣きたいくらい切ない気持ちで微笑んだ。
 想われる喜びを味わう。
「私の妻になっていただけますか?」
 ソウヨウは確認した。
 ホウチョウはうなずいた。
「天地神明に誓って。
 この魂が滅するまで、ただ一人の伴侶とし。
 次の世でも、巡り合うことが叶うなら。
 あなたを、ただ一人とし。
 お傍を離れない、と」
 ソウヨウは誓いを立てた。
 古い、言葉の一節を誓いに。
「私もきっと魂だけの存在になっても、シャオのことが好きよ。
 離れないわ」
 ホウチョウは自分の言葉で誓いにする。
 誰もそれを知らなくても、証人がいなくても。
 二人は夫婦になったのだ。
 天にて比翼の鳥となり、地にて連理の木とならん。
 それは夢ではなく、現のこと。
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