第七十九章

 回廊の途中。
 衣擦れと、床を叩く硬い靴音が止まった。
 先を歩いていた人物は、庭院に頭を向ける。
 白い、真白な日差しの中、若い人物――青年は微笑んだ。
 陽光を受けようとするのか、すっと右の手の平を差し出す。
 鍛錬をいとわない手の平が光を受ける。
「夏が来ましたね」
 曖昧な色だとチョウリョウの民が眉をひそめる瞳が、うっとりと微笑む。
 チョウリョウの民が持つ茶色に似た、けれども異なる色が青年の出自をあらわす。
 言葉よりも強く。
「大司馬は夏がお好きですね」
 副官である壮年の男が微苦笑した。
「ええ、夏が好きです」
 ソウヨウは鷹揚に微笑んだ。
 育ちの良さを証明するような、おっとりとした笑顔のまま青年は続ける。
「モウキン殿はお嫌いですか?」
「特には。
 生まれのせいか、季節を追うほど風雅な趣味は身につきませんでした」
 夏官の多くがそうであろう。
 春になれば、戦の季節が来たのか、と思う。
 夏になれば、行軍が大変だ、と思う。
 秋になれば、兵糧豊かになる、と思う。
 冬になれば、戦の季節が終わるのか、と思う。
「この世界で一番、美しい季節だと思いますよ」
 ソウヨウは言った。
 緑みを帯びた茶色の瞳が庭院の茨垣を見つめる。
 垣根の蕾はふくらみ、咲き初めるのもあとわずか、といったところだろう。
「今年の夏は、私の人生の中で最も美しい夏になるのでしょうね」
 確信を持って青年は言い切った。
「そうですね」
 モウキンは同意した。
 上官と仰ぐ青年は、この春、美しい婚約者を迎えた。
 皇帝陛下の妹君。
 十六夜と呼ばれ、花薔薇に譬えられる、繊細な美貌の姫君だ。
 そして、大司馬の長年の想い人。
「姫と一緒にすごせる夏は、七年ぶりです」
 十八歳の青年は嬉しそうに言った。
 モウキンは『七年』という言葉を胸のうちで呟いた。
 夏の到来を素直に喜ぶ青年は、それだけの間、戦場にいたということだ。
 鳥陵は戦続きで、モウキンですら『平和』な時代を知らない。
 新たに鳥陵に加えられた民族であっても、それは大差がないことだ。
 この大陸は血を求め、血で染められ続けた。
 だから、同情をすべきところではない、と理解していたが、モウキンはかわいそうだと思った。
 自分の息子ほどの年齢の上官は、かわいそうだ、と。
「何をしてすごせば楽しいでしょうか。
 さすがに、七年前と同じ遊びでは……怒られてしまうでしょうね」
 女官長やシュウエイに、とソウヨウは楽しそうに微笑む。
「七年前はどんな遊びをしていたんですか?」
「姫は、ご自分で何でもしたがる方だったので一通り。
 花摘みだけではなく、虫取りもしました。
 蝶や夏虫だけではないのですよ。
 部屋に放ったら、侍女や女官たちが悲鳴を上げて、逃げるような虫まで籠いっぱい集めました」
 くすくすと青年は笑う。
「公主が……」
 露にもたえない風情といった乙女からは、想像ができない。
「遠駆けは許されませんでしたが、武烈様は妹君に甘い方で、愛馬に乗せて広い敷地を一周なさったり。
 鳳様は人形用の小さな舟をくださいました。それで競争したり。
 そういえば、鳳様はご一緒することは、ほとんどなかったですね。
 夏が嫌いだと……もったいないですね。
 こんなに綺麗な季節なのに」
 ソウヨウは言った。
 鳥陵の皇帝となった男が、夏が嫌いだった理由は、身のうちに流れるエイハンの血によるものだった。
 長ずるに従って軽くなったと聞くが、南城で城主をしていた頃でも、夏は辛そうにしていた。
 暑さに弱い。
「今年の夏は暑くなりそうですね」
 真白な日差しに目を細めて、シキボの血を引く青年は笑った。
 チョウリョウよりも、南に位置する地域に根を張った豪族の総領は、とても楽しそうに笑う。
「そうですね」
 モウキンはうなずいた。
 例年よりも、早い夏の到来だ。
 建国祭を迎えるころには、もっと暑くなるだろう。
「心が浮き立ちますね」
 ソウヨウは名残惜しそうに腕を下ろした。
 瞳は、まだ庭院の茨を見ている。
 そこに咲く薔薇を探すように。
「さあ、行きましょうか」
 惹かれながらも、青年は回廊を歩き出した。
 それにモウキンは付き従う。
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