第七十八章

 昼まではご機嫌だったのが、夕方には斜めになっている。
 それがフェイ・ホウチョウという乙女だ。
 感情のままに生きている彼女をそのままで由と、兄である皇帝が認めてしまったのだから、矯正される機会はこの先もないだろう。
 己の想いを偽るよりも、素直に表現するほうが善いとするチョウリョウの習慣も、乙女の悪癖を助長する。
 振り回される側には堪ったものではない。

 ヒエンがホウチョウの部屋に入ったとき、嵐が通過した後だろうかと思ってしまった。
 倒れてはいけないものが倒れ、本来の役割とは違う場所に物は置かれていた。
 見るからに、ここで癇癪を起こし、物に当り散らしたということがわかる。
 ホウチョウはもともと感情をためこまない性質だからか、物に当たるということが極端に少ない。
 また陰にこもることのほうが多く、それは涙という形で解消されることが多かった。
 だから、部屋の惨状を見たときヒエンの心臓はぎゅーっと絞られるように痛かった。
「姫。ご無事ですか?」
 ヒエンは割れた破片……もとは花瓶だったものだろう。を避けながら乙女の座っている寝台まで向かう。
 以前もこのようなことがあった、と思う。
「……メイワなの?」
 寝台の上には雨に打たれた海棠の花。
 この世の中で最も美しいと譬えられる赤瑪瑙の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
「はい、メイワが参りました。
 どのようなことがあったのですか?」
 ヒエンは主の髪を撫で梳く。
 乱れていても、手入れを怠らない髪は絹のような手ざわりだった。
「緑の瞳の大司馬」
「白厳様がどうなさいましたか?」
「知らなかったわ。
 それが悪口だったなんて」
 ホウチョウの瞳から涙がぽたりぽたりと零れる。
「シャオの目の色は、とても綺麗じゃない。
 生まれたときからあの色なんですって。
 とても素敵な色だと思うわ」
「……私も、そう思います」
「でも、悪口なのよ。
 シャオが色墓の民なのは、シャオのせいじゃないわ。
 シャオが大司馬になったのは、お兄様のせいじゃない!
 実力を認められたのよ。戦で最も戦果を挙げたからでしょ!?
 どうして、シャオが悪く言われるの?」
 ホウチョウは悔しそうに言った。
 妬みや嫉み。宮中にいれば巻きこまれずはいられないものに、乙女は関わらないですんできた。
 末子だからと、ただ美しいものに囲まれて。
「異民族ってどういうこと?
 シキボは鳥陵の一部なのよ。
 みんなと同じ鳥陵の民じゃない!!
 それに、シャオが異民族なら私だってエイハンの血が入っているもの、異民族だわ!
 どうしてシャオだけが悪く言われるの!!」
 ホウチョウはメイワの手を握った。
 細い指のどこに力があるんだろうか。
 それは痛いぐらい強い力だった。
「政は私には難しくてわかりません。
 私にわかるのは、誰もが姫の婿になりたかった、ということです」
 空いている方の手で、赤茶色の髪を梳く。
「私の?」
「ずっと噂になっていました。
 姫の運命の相手の話。
 どのような偉丈夫が姫の心を捉えるか。
 みなの想像は……そうですわね。ちょうど武烈の君のような方でした。
 戦上手といっても計略をぶつけ合うのではなく、自ら先陣を切っていくような勇ましい方」
「シャオだって前線に立ったことがあるわよ」
「あのようなお優しいお顔の方が、そのような勇ましい話があるとはすぐには信じられないでしょう」
「剣を抜けば、鬼神のごとく」
「それはシャオも一緒よ。
 もし烈兄様が生きていて勝負ができたとして。今のシャオなら勝てるわ」
「それも他の方には比べられませんわ。
 姫は武烈の君の剣技を間近で見られ、白厳様の剣技をご存知だからわかることです。
 それにやはり、外見ですわ。
 あのように細い体を見て、大司馬と思う者が何人いるのか。と」
「シャオは大司馬よ」
「ええ。でも、今までの大司馬の方よりも若すぎます。
 お歳を二倍にしても、まだ若いと言われるでしょうね」
「それはシャオのせいじゃないわ。
 みんなが腑抜けだからよ」
 ホウチョウは断言した。それから乙女は笑った。
「みんなの大司馬っていう言葉の印象とシャオがかけ離れているから、みんな驚いているのね」
「そうです。
 それで、僻んだり、妬んだりしているのです」
 ヒエンは頷いた。
「お兄様が贔屓してるからね」
「……否定はしないのですか?」
「だって、お兄様がシャオを贔屓しているのは私でもわかるわ。
 シャオに戦の仕方を教えたのも、政の基本を教えたのもお兄様だもの。
 弟が欲しかったんだと思うわ。
 私は女の子で、お兄様の言うことはちっとも聞かなかったから」
 ホウチョウは朗らかに笑った。
「いつか、緑の瞳の大司馬という呼び名が誇りになる日が来るでしょう」
 ヒエンは言った。
「私も、そう思うわ」
 ホウチョウはヒエンの手を離し、涙を拭った。
「悪口なんて絶対に許せない」
 大粒の赤瑪瑙の目には輝きが取り戻っていた。
「……それでは、部屋を片付けてもよろしいでしょうか?」
「あ」
「このままでは白厳様の耳にも、陛下の耳にも届いてしまうでしょうから」
「そうね。
 また怒られちゃうかしら?」
 ホウチョウはためいきをついた。
「陛下は怒られるかもしれませんが」
 ヒエンは割れた花瓶の破片を拾い始める。
「白厳様はご心配をなされるでしょう。
 怒ったりはしないと思います。
 それは姫が一番、ご存知だと」
 大きな破片だけ拾い集め、あとは掃きだしてしまうしかないだろう。
「そうよ。シャオは優しいもの」
 ホウチョウは寝台の上で言う。
 ヒエンは花瓶から飛び出た花を集める。
 破片を取り除き、折れた茎や散った花を取り除くと手巾に包む。
「本当に優しい方ですから、大切に」
 手巾に包んだ花束をホウチョウに手渡す。
 乙女は、花数が減った花束に反省したのか。
「大切にするわ」
 ひどく優しく微笑んだ。
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