第八十二章

 鷲居城を立ち去るとき、いつも感慨が胸に宿る。
 妹に見送られるという状況が、そう思うのだろうか。
「誰よりもお前の幸せを祈っているよ」
 ホウスウは言った。
 それは心からの言葉だった。
 離れていればいるほど、心配になる妹だった。
「お兄様、嘘くさいわ」
 一刀両断した乙女は顔をしかめる。
「嘘ではない」
「結果的には嘘になることって、結局のところ嘘なんだと思うんだけど。
 違うかしら?」
 ホウチョウは小首をかしげる。
「お前の幸せを祈ってるのは、嘘ではない」
 ホウスウは根気良くくりかえした。
「誰よりも、が嘘よ。
 私の幸せを一番考えてくれるのはシャオだもの」
 最も幸福な季節を過ごしている乙女は、自信たっぷりに言った。
 微塵も疑っていない態度が、癇に障るを通り越して、清々しいものだった。
「ソウヨウはお前の幸せを考えたとしても、祈ってはいないだろう」
「どうして?」
 幼子のようにポンと問う。
「二人で、一緒に、幸せになる方法を考えるだろう。
 それは祈りには遠い行為だ」
 ホウスウは答える。
「じゃあ、お兄様は私と一緒に幸せにはなってくれないってこと?」
「十六夜……。
 いくつになった?」
「女性に歳を訊くのは失礼な行為だって聞いたわ」
「もう子どもではないだろう、と言ったんだ」
「別に子どもでも良いわ。
 だってシャオがいるんですもの」
 常識と縁遠いところで過ごしている妹は、世間からずれたことを口走る。
 大人でも、子どもでも同じことだと、無邪気に言い放った。
 何も知らないからこその『強さ』だとしても。
 ホウスウは羨ましいと思った。
「私はお前の兄だ」
「ええ、そうね」
「幸せを願っても、幸せにはしてやれない。
 これから先は、ソウヨウがしてくれる」
「これから先ってことは、今までは誰がしてくれたの?」
 ホウチョウは尋ねた。
「今までの暮らしに不満がなければ、お前の周りにいる人たち全てが幸せにしてくれていたのだろう。
 それは与えられる幸せであって、自分で作る幸せではない」
「幸せって作るものかしら?」
「二人で作るものだ。
 それを『結婚』というのだ」
「結婚って幸せなのね」
 確認するようにホウチョウは言った。
 赤瑪瑙にたとえられることの多い赤茶色の瞳は、いつも通り。
 曇り一つなく、美しいものだった。
「嫌ならやめるか?」
「いいえ。シャオに家族をあげたいから、結婚はするわ。
 シャオは家族がいないんですって。
 かわいそうでしょう?」
 ホウチョウは言う。
 シャオには玩具がないですって、かわいそうでしょう?
 小さい子どもが告げる言葉と差異がない。
「大切なものが増えて、幸せになるんだったら、とっても素敵なことでしょ?」
「素敵じゃなかったら結婚をしないつもりか?」
 ホウスウは眉をひそめた。
「私はシャオと一緒にいたいだけ。
 だから、一緒にいる方法が他にあるんだったら、それでも良いわ」
 胡蝶と呼ばれた乙女は微笑んだ。
 ホウスウは幸せを祈らずにはいられない。
 そういう心境に陥る。
 妹はあまりにも現実を生きていない。
 夢の中を舞う胡蝶のように、ひらひらと漂っているだけだ。
 どうかその夢の中で生を終えることができるように。
 おそらく長くはない道だからこそ、神に祈りたくなる。
 夢にひびが入った瞬間に、妹は儚くなってしまうのではないか。
 そんな嫌な予感が胸にひたりひたりと迫ってくる。
「結婚して、二人で幸せになるといい。
 他の皆もそれを喜ぶだろう」
 ホウスウは言った。
「祈るって遠いのね」
 乙女は心のありように気がついたようだった。
「薄情だと感じるか?」
「それがお兄様だもの。
 気にしないわ」
 ホウチョウはにっこりと笑った。


 妹に見送られ、ホウスウは鷲居城を後にした。
 胸を満たすのは感慨と疑い。
 鳥陵を守る現人神としての自分が帰ってくることを感じた。
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