第八十五章

  日差しの強さも増し、夏が近づく。
 チョウリョウの都、朱鳳は活気にあふれていた。
 それもそのはず、夏には建国祭がある。
 今年は戦乱のない初めての祝いになるはずだから、人民の浮かれ具合も致し方がないことであった。
 

 建平三年 六月。
 鳳凰城。
 その内宮。
 そこには二人の男がいた。
 窓が全開に開け放たれ、湿った空気が打ち沈みながらも通り抜けていた。
 あまりの暑さに茶器すら汗をかく。
 そんな中、正装の男たちは着崩すことなく卓を囲んでいた。
 鳥陵皇帝ホウスウと大司馬ソウヨウである。
 秋の暮れには十六夜公主を通して兄弟になる二人だが、打ち解けた仲と呼ぶには程遠い。
「?」
 ソウヨウは今、言われた言葉に納得できず、ホウスウを見返した。
 とても失礼な態度であるが、ホウスウはそれを咎めたりはしない。
「海月太守(かいげつたいしゅ)がお前の城の方が良いと言ったから、準備をしろ」
 ホウスウは同じ言葉を繰り返した。
 もう一度言われても、ソウヨウにはやっぱり納得できなかった。
「本当にそんなこと言ったんですか?」
 なので、訊き返した。
「正確には書簡だったが?」
 ホウスウはソウヨウの無礼の数々を気にせず、茶器に手を伸ばす。
 太守と言えば、郡の長。
 州の下であるから、身分は所詮地方官である。
 地元ではそれなりの扱いをされるが、中央の中では「下」扱いされる。
 末端とは言わないが、将軍よりも位の上ではずっと「下」である。
 そんな相手を賓客扱いせねばならないとは……、納得ができないのである。
「私のために、建国祝いのために、遠路遥々やってくるんだ。それ相応のもてなしをするように」
 ホウスウは釘を刺す。
「この城でもよろしいんではないんですか?」
 建国祭に向けて現在、この城には名族たちが滞在している。
 その数は、日に日に増している。
「お前の城が良い、と言ってるんだ」
「離宮は大司馬府です。
 賓客をもてなすのでしたら、相応しい離宮がいくつかあると思うのですが」
 朱鳳周辺にはいくつかの離宮が点在している。
 諸侯の子弟が都で勉学に励めるようにと開放されているものもあれば、非公式な客をもてなす場所であったりと、用途は様々だ。
「私に同じ言葉を何回言わせる気だ?」
 冷たい色の瞳がソウヨウを見る。
「さあ?」
 ソウヨウは子どもじみた仕草で小首を傾げてみせる。
 手持ちの札が少なすぎる。
 あとで情報収集にいそしまなければ、とソウヨウは頭の片隅で考える。
「わかったら、退出しても良い」
「理解はしていませんが、一刻も早く姫に会いたいので失礼いたします」
 ソウヨウはおっとりと微笑むと席を立ち上がった。


「と言うわけで何か知ってますか?」
 自分の居城に戻ると、ソウヨウはシュウエイに問うた。
「海月太守ですか?」
 シュウエイは微かに顔を歪ませた。
「お知り合いですか?」
「ただの顔見知りです」
 シュウエイはキッパリと言った。
「できるだけ詳しく教えていただけませんか?」
「あまり近づきたくない人物です。
 何か腹に一物あるように見える人間ですね」
「シュウエイに言われたら、おしまいですね。
 お気の毒に」
 ソウヨウは深い同情を寄せる。
「姓は海(かい)。字は沖達(ちゅうたつ)。
 歳は二十六です。
 背は高く、痩せ型。
 死体のように真っ白な顔をしています。
 声は陰にこもっていて……狡猾な蛇のような印象ですね」
「はあ。
 蛇蝎(だかつ)の如く忌み嫌ってますね」
 ソウヨウは感心する。
「あまり良い噂はありません」
「たとえば?」
「今の身分を得るのに自国の姫を売ったそうです」
「?」
「海月は小さいながら、クニの一つでした。
 領地は朱鳳と同じ程度しかありませんでしたが、独立していたのです」
「よくそれで他国に吸収されませんでしたね」
 群雄割拠の時代。
 クニは他を吸収して大きくなろうとする。
 弱者は歴史の表舞台から消えていくのだ。
 シキボのように。
「海月城と言えば難攻不落の代名詞でした。
 当時、海月太守はそのクニでは宰相の身分でした」
「何年前の話ですか?」
「宰相の身分についたのは成人して間もなくだそうです。
 六年前に先の総領が亡くなり、一人娘である海姫(かいき)が跡を継ぎました。
 当時、彼女は八歳だったそうです。
 海月太守は補佐をしながら、このクニを守っていました」
「美談ですねー」
 ソウヨウは茶々を入れる。
「それが三年前の話です。
 鳥陵が国になり、主上が即位なされました。
 すると、真っ先に膝を屈したのです。
 海姫を人質として差し出すことによって海月は難を逃れたのです。
 海月太守は、クニに残り、太守の地位を得ました」
「裏切った、と言うわけですか」
 ソウヨウは口元に笑みを刷く。
 それは悪くない決断だ。
「噂です」
 シュウエイは憮然と言った。
「それで、その姫は?
 今もチョウリョウにいるのですか?」
「いいえ」
「?」
「海月太守の婚約者として、海月に帰ったはずです。
 今年の春の話です」
「ああ、ギョクカンとバタバタしていた頃ですか。
 懐かしいですねー」
 ソウヨウはうっとりと目を細める。
「出兵の際、海月はかなりの協力を申し出たそうです。
 その見返りが、婚約だったと言う噂もあります」
「噂の絶えない人物ですね。
 つまり、それだけ切れ者なんですね。
 厄介なお客様です」
「ただでは動かない。
 それが海月太守です」
「シュウエイは嫌いですか?
 そういう考えは」
 高潔な精神と奸智(かんち)に長けた頭脳を持つ配下を見遣る。
「反吐(へど)が出ますね」
 あっさりとシュウエイは言った。
「そう言うのを同族嫌悪と言うんですよ」
 ソウヨウはにっこりと微笑んだ。
「まあ、大体わかりました。
 姫にも訊いてみましょう。
 海姫のことをいくらか知ってるかもしれません」
 そう言うと、ソウヨウはホウチョウの元に向った。
 もちろんシュウエイの説教から逃れるためである。


「海月太守のこと?」
「ええ。
 海姫のことでもよろしいですよ。
 お客様としていらっしゃるんです」
 ソウヨウはにっこりと微笑んだ。
「華月(かげつ)が来るのね。
 びっくりするようなことがあるって、手紙にあったのはこのことね」
 ホウチョウは目を瞬かせる。
「海月太守のことはあまり知らないわ。
 会ったことがないんですもの」
「それは仕方がありませんね」
 姫から他の男の話を聞くのも気持ちの良いものではないので、ソウヨウはニコニコと言う。
「そうね。
 沖達はお仕事が好きで、本の虫なんですって。
 暇さえあれば竹簡を見ているから、眉間のしわが消えないんですって。
 背が高くって、外出したときに木の枝に頭をぶつけることもあるそうよ。
 何でもそつなくこなせるように見えるけど、意外に抜けていて変な失敗をするそうよ。
 でも、自尊心が強いから一生懸命失敗を隠そうとするですって。
 指摘するとすごく怒るそうよ。
 だから、五回に一回は見て見ぬ振りしてあげなきゃいけないのよ。
 あと、柑橘類が好きなんですって。
 ご飯のときそれが出ると、他の人にはわからないかもしれないけれど、とても上機嫌になるのよ。
 あと……、これはちょっと……シャオには言えないわ」
 そう言うと、ホウチョウは赤面した。
 異様な詳しさはこの際、置いておくとしても、そんなところで話をやめられてしまったら気になって仕方がない。
 聞きたくないような気がしつつも、
「どうかしたんですか? 姫」
と尋ねた。
「……誰にも言わない?」
 ホウチョウは念を押す。
「はい、もちろんです」
 ソウヨウはうなずいた。
 ホウチョウはたっぷり三呼吸ほど迷った末に口を開いた。
「一緒に……その、夜……ね、眠るとき、優しく……抱きしめてくれる……ですって」
「は?」
「華月のお手紙に書いてあったの!
 別に、私は知らないわ!
 その、あ……うん。
 あちらでは結婚前に、そ、そういうことするの……ダメじゃないって」
 ホウチョウは必死に言う。
「そうなんですか」
 ソウヨウもぎこちなく言った。
 年頃の男女にはいささか刺激の強すぎる話である。
「大体のところ、わかりました。
 ありがとうございます」
「ううん、シャオの役に立てて嬉しいわ」
 お互い床を見ながら話す。
 どちらも耳まで真っ赤である。


 そんなわけで客人はやってきたのだった。
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