第八十七章

 この日、ソウヨウは悩み事の一つを解決した。
 恋人の意外な一面と共に。


 あまり知られていないが、「あれ」でもホウチョウはソウヨウの前ではネコを被っているのである。
 何と言っても理想通りの旦那様である。嫌われたら、非常に問題が出てくる。こんな好条件の相手とは二度と巡り会えないであろう。そのため、できるだけおしとやかに、愛らしく……、あれでも努力しているのである。
 遠慮のないホウチョウは一言で言えば『いじめっ子』である。
 

「そういうのを、はしたないって言うのよ!」
 ホウチョウは言った。
 優雅なお茶会……なはずなのだが、ホウチョウと華月ではこんなものである。
 側で控えているメイワは密かにためいきをつく。
「ファンってば、頭堅いんじゃない?
 そういうの、流行んないよ」
「流行りも何も、そんなこと結婚前にすること自体おかしいのよ」
 ホウチョウは断言した。
 ちなみに争点は華月が毎晩、添い寝をしてもらっていることについてだ。
 そんなうらやましい……もとい、はしたないことはホウチョウには許されないことである。
「別に問題ないけどね。
 だって、ボクはずっとしてもらってるんだし」
「それは小さいころの話でしょ?
 大きくなったら、いけないのよ」
「ボク、まだ成人前の子どもだし」
「十四歳でしょ?
 十分、花も恥らう乙女じゃない!」
「今更、沖達に恥らって見せても……。
 意味ないよ。
 沖達はボクが赤ちゃんのころから傍にいるんだよ。
 夜泣きがひどかったボクを寝かしつけるために、夜散歩までしたことあるらしいよ。
 小さすぎてボクは全然、覚えていないけど」
「そういうものじゃないわ。
 なんていうのかしら?
 幼いころからよく見知っている相手が年ごろになって、こう恥じらい覚え、新鮮な驚きがあって」
 ホウチョウはうっとりと話す。
「ファン。
 また、変な話読んだでしょ」
 華月は呆れる。
「変じゃないわよ。
 とても感動的な恋物語よ」
「ふーん。
 で?
 ボクと沖達は物語の登場人物じゃないよ」
「だけど。
 添い寝はしてもらうなんて、いけないことよ」
「どうして?
 傷物になるから?」
 華月は不思議そうに訊いた。
「きずもの?」
 ホウチョウはきょとんとする。
 彼女には未知の単語である。
 助けを求めて、メイワを見る。
「きずものって、なあに?」
 無邪気に問うた。
 訊かれた方は、心の中で泣いていた。
「あまり良い言葉ではありませんので、殿方の前ではお使いくださらないようにお願いします。
 くれぐれも白厳様の前では言ってはいけませんよ」
 メイワは念を押す。
「はしたないの?」
 ホウチョウは訊く。
 メイワは無言でうなずいた。
「で、ファン。
 どうして、添い寝をしてもらっちゃいけないの?」
「はしたないからよ」
 ホウチョウは言った。
「結婚したら、共寝をするんだよ?」
「そうね」
「小さいころは誰かに、添い寝してもらうの、フツーでしょ?」
「そうね」
「じゃあ、どうして。
 お年ごろになると、添い寝してもらったらいけないんだよ」
 華月は口を尖らせる。
「それは……」
 ホウチョウ自身も、やってはいけないからと教えられているだけで、明確な答えは知らない。
「それに遠からず、ボクは沖達の奥さんになるんだよ。
 沖達もかまわないって言ってるんだし、別に良いじゃん」
「駄目なものは駄目なのよ」
「頭が堅い女は嫌われるよ。
 もっと柔軟な対応しないと。
 白厳も、ファンのそういうところに辟易してるんじゃない?」
 華月はニヤニヤと笑う。
「そんなことないわよ。
 私とシャオは三世を固く契りあった仲なのよ」
 自慢げにホウチョウは言う。
「口約束だけでしょ」
 あっさりと華月は言った。
「何ですってー!」
「名を交し合ったんだったら、二人はもう夫婦なんでしょ?
 なのに、くちづけもしてないんでしょ?」
 小ばかにしたように華月は笑う。
「く、くち……はしたないじゃない!」
 ホウチョウは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「夫婦がくちづけを交わすのってはしたないの?」
「まだ結婚してないもの!
 そういうことはきちんと羽を交わした後にって。
 お母様が言ってらっしゃったわ」
 だから、自分は正しい。とホウチョウは言う。
「羽を交わした後って。
 変だよ、それ。
 メイワのときはどうだったの?」
 華月は意味深な視線をメイワに投げてよこす。
「結婚式が終わるまではいたしませんでした」
 メイワは事実を正直に答えた。
 変に隠し立てをして、話をややこしくしたくなかったのだ。
「それって、羽を交わした後?」
 華月は鋭い問いをする。
 顔から火が出る思いとはこのことである。
「もちろん、羽を交わし後にもございました」
「つまり、前にしたんだよね」
「……そうですわね」
 メイワは赤面しながら答える。
「ほら。
 ファンが変なんだよ」
「結婚するのと、羽を交わすのは、意味が違うの?」
 ホウチョウはメイワに問う。
「姫の場合は、同じでかまいませんわ」
 メイワはにっこりと微笑んだ。
「華月の場合は意味が違うの?」
「あちらはだいぶ習慣が違いますから。
 生粋のチョウリョウの民には理解しがたい面も多いですし、私にはわかりませんわ」
 メイワは言った。
「違うの?」
 ホウチョウは華月に問う。
「全然違うね。
 一生涯に一人しか愛さないって頭がおかしいとしか思えないし」
「フツーよ」
「鳳もそうだったら、ボクやだなぁ。
 十五、六で奥さんもらった場合は問題ないけどさぁ。
 二十歳過ぎて独り身で、女遊びしたことないなんて病気としか思えないよ」
「おんなあそび?」
「つまり、買春とか。
 んーと、運命の人以外とくちづけとか、それ以上のことすること」
「駄目に決まってるじゃない!」
「そう考えるのが、ボクには変に見えるんだ。
 まあ、チョウリョウの民は小さいころからずーっとそういう考え方を教えられているから良いとして、白厳はどうなんだろうね」
「?」
「だから、ファン以外の女の人とくちづけをしたことがあるのかなぁ?」
「ないに決まってるでしょ!」
「どうして?
 白厳はシキボの民なんでしょ?
 それに成人してから、再会するまでに何年かかったの?
 その間、女っ気なしってありえないよ。
 十四で将軍位を賜る男だよ。
 地位だけでも女は言い寄ってくるのに『計略の鬼才』白厳の君なんてご大層な看板ついてるんだもん。
 見た目もそれなりにマシだし、南城って地元じゃないか。
 女なんて選り取りみどりだよ」
 華月は言った。
 ……ホウチョウの逆鱗に触れるのには十分すぎる言葉だった。


 どんな状態でも、大好きな人間の声は聞き漏らしたりはしないものである。
 ソウヨウは恋人の声を聞いた。
 その声の方向に用もないのに向ってしまうのはいたしかたがないことだった。
「大司馬!
 どちらに行かれるつもりですか?」
 シュウエイはソウヨウの肩を掴んだ。
「姫の声が〜」
「呼んでません。
 さあ、行きましょう。
 太守と話があるんですから」
「ちょっとぐらい遅れても大丈夫。
 相手は暇人です」
「約束の時間に遅れるのはよくありません」
「そんな一般論は今聞きたくありません」
 ソウヨウは泣き言を漏らす。
「ふざけないでください」
 運命の女神はソウヨウのことが好きらしい。
 ソウヨウとシュウエイが廊下で押し問答していると、華やかな声が近づいてくる。
 しかし、その言葉が耳に入るやいなやシュウエイは驚いた。
「待ちなさい。華月!」
「ボクが悪かったから、許してよぉ〜」
 言葉だけなら、他愛のないものであった。
 逃げる海姫と追いかける十六夜公主。
 そこまでなら可愛らしかった。
 が、話は続くのである。
 公主の手が握るのは紛れもない白刃の煌き。
 優美な一振りの細剣。
 だが、それは飾り物ではない。
 ソウヨウとシュウエイの目にその刃が潰されていないことがはっきりと映った。
 剣が振り払われる。
 二人には身近な動作である。
 無駄のない美しい軌道。
 尚武の国で『姫』とかしずかれるだけはある。
 すんでのところで、海姫が避ける。
 割って入るのにも技術がいるそんな鋭い剣戟が目の前で繰り広げられる。
 ホウチョウの剣は早く正確だった。
 見る者全てを釘づけにするほど完璧だった。
 それをどうにか海姫は避け続ける。
 紙一重のところで、ぴょんぴょんと。
 子うさぎが躍るように。
 ホウチョウの剣が舞いなら、海姫のそれは軽快な踊り。
 ソウヨウとシュウエイは二人を止めるのも忘れて見入った。
 やがて、変化が訪れる。
「もう、知らないんだからね」
 防戦一方だった海姫が懐から一指しの扇を取り出す。
 華やかな扇だ。
 藍色の紙が張ってあり、繊細な……銀の骨を持つ!
 それはホウチョウの細剣を御した。
 閉じたまま剣を払いのける。
 あるいは開いて、剣の勢いを殺す。
 扇術の全てがそこで広げられる。
 なかなか目にするものではない。
 護身術の一つとして、扇術は位置する。
 けれども目の前のそれは明らかに違う。
 身を守るためではなく、戦場に立ち続けるための武道として存在していた。
 だから、所詮は剣舞でしかないホウチョウのそれは敗れるのだ。
 人を傷つけたことのない者は、人の命の重さを体感した者に勝てるはずがないのだ。
「ひどいよ、ファン。
 めちゃくちゃ、本気だったでしょ!」
「くやしいぃ〜!」
「危うく、ケガするところだったんだぞ!
 謝るのが筋じゃないか!」
「私を怒らせる華月が悪いのよ!」
 ホウチョウは断言した。
「あ。白厳」
「え、ウソ!
 ……シャオ、いつからそこに」
 ホウチョウは真っ青になる。
「先ほどから。
 海姫殿、見事な扇術ですね。
 先生は沖達殿ですか?」
「うん、そうだよ」
 華月は扇を片手で閉じる。
 金属の骨を持つそれは打撃武器にもなる。
「美しい扇ですね」
「これは鳳にもらったヤツだよ」
「鳳様と仲がよろしいんですね」
「まあ、それなりに。
 でも一番じゃないよ。
 鳳の一番は、鴻鵠だよ。
 鴻鵠のことお父さんだと思ってるみたいだし」
 華月は扇をしまいながらニコリと笑う。
 この国の宰相の字を呼び捨てにするほどに、寵愛を受けていた。
 なかなか複雑な糸が絡んでいる。
「そうですか。
 ……ところで、このこと、沖達殿に知られると大変なんじゃないんですか?」
 ソウヨウはおっとりと微笑む。
「え?
 ……!」
 華月の顔色が見る見る悪くなる。
「内緒にしておいてあげますよ」
「ホント?」
「ええ。
 ですから、早く部屋に戻ったほうが良いですよ。
 こんなところにいたら、ばれてしまうかもしれませんから」
「ありがとう、白厳!」
 ぴょこんと頭を下げると華月は踵を返した。
「姫」
「あのね、シャオ。
 これには訳があって……」
 ホウチョウは上目遣いでソウヨウを見る。
「元気になりましたね。
 安心しました。
 熱で寝込むことが度々あると伺っていたものですから。
 今度はちゃんと最初から最後まで剣舞を見せてくださいね。
 楽しみにしています」
 ソウヨウは微笑む。
「そうね。
 今度、見せてあげるわ」
 ホウチョウはニコッと笑う。
「私は用があるので、これで失礼します。
 夕刻、花薔薇の院子を散策しましょう」
「ええ。
 夕刻ね。
 待ってるわ」
「では」
「じゃあね」
 恋人たちは名残惜しげにしばしの別れを告げる。
 ホウチョウが立ち去るのを見届け、ソウヨウは口を開いた。
「海月太守は扇を持ち歩いていると思いますか?」
 その声は明らかに違う。
 まっさらなソウヨウそのものの声だ。
「馬鹿じゃなければ」
 シュウエイは短く答えた。
「丸腰ではなかったわけですか。
 油断なりませんね」
 ソウヨウは薄っすらと笑う。
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