第八十八章

 自然とためいきが零れる。
 気が重い。
 ……今まで、それを楽しいと思ったことはない。
 曖昧な色の瞳が考え込むように閉じられる。
 人の生命の重さ。
 それを弄んだことは一度もない。
 感慨もなく、切り裂いたことはあっても。
 今はただ、ただ気が沈む。
 大司馬と言う地位がソウヨウを追い立てる。
 嫌でも摘み取らなければならない生命。
 『敵』は完璧に滅ぼさなければならない。
 ましてや、それが命令であれば。
「気が進みませんか?」
 穏やかにそう訊いたのは副官のモウキンだ。
「ええ」
 ソウヨウは目を開けた。
 まず、目に入るのは詳細な地図。
 これを見ただけで、地形を思い描くことのできる詳しすぎる地図。
「姫になんて言い訳すれば良いのでしょうか?」
 ソウヨウは言った。
「黙ってりゃ良いんじゃねぇ」
 カクエキは皮肉げに笑う。
「それが難しいんです」
「訊かれたら、何でも喋ってしまう?」
「そうなんですよね〜。
 姫に訊かれると、嘘がつけなくて。
 って、何を言わせるんですか」
 ソウヨウはシュウエイを睨みつける。
「嘘ぐらいはつけますよ。
 ですが、どこまでつき通せるかわかりません」
「簡単に揺らぐ?」
 カクエキはニヤニヤと訊く。
「いいえ。
 そうではなくて。
 そうじゃないんです。
 そういう次元の問題ではないんですよ。
 ……勘が鋭いんです」
「破邪の姫君。
 誰が呼び出したかはわかりませんが、公主の二つ名ですね」
 シュウエイは言った。
 ホウチョウにはいくつもの呼び名がある。
 軽やかな仕草から『胡蝶の君』
 人を惑わせる雰囲気から『十六夜公主』
 麗しい容貌から『花薔薇』
 そして、未来を垣間見、人の心を覗くことができることから『破邪の姫君』
「嘘、偽りは無駄なんです。
 絶対、知られてしまいます」
 ソウヨウはためいきをついた。
 極秘裏に片付けなければいけないことが露見することが問題なのではない。
 彼女に知られたくないのだ。
 彼女にだけは知られたくないのだ。
 人の生命を刈り取ったソウヨウを、拒絶するホウチョウを見たくない。
 不安を通り越して、恐怖を覚える未来だ。
「じゃあ、やめますか?」
 カクエキは言う。
「そういうわけにはいきません」
 ソウヨウはそう答えた。
 そう答えるしかなかった。
「身分と言うのは厄介ですね。
 高ければ高いだけ、背負うものが大きくなる」
 弱冠十八歳の大司馬は、儚げに微笑む。
 二十代にして、将軍位を賜った男たちは慰めなかった。
 彼らとて、若すぎるのだ。
 なりたくてなったわけではない。
「今回の作戦は気が乗りません。
 不確定要素が大きすぎます」
 ソウヨウはすねたように言う。
「海月太守ですか?」
 シュウエイは確認した。
「あの人の利点が見えません。
 転んでもただでは起きない人物なのでしょう?
 これに、協力した意図が見えません」
 ソウヨウは言った。
 人間と言うのは身勝手な生き物だ。
 自分の家の隣が火事になったら大騒ぎするだろう。だが、縁も所縁もない土地の火事には見向きもしないか、野次馬になるものだ。
「利害さえ一致しているなら、どれだけ腹が黒かろうがかまいません。
 一致している間は、裏切りませんからね」
 ソウヨウの言葉に、カクエキは肩をすくめる。
「手柄を立てたいだけじゃねぇの?」
「名声ですか?
 まあ、立派な理由ですよね。
 富に、身分に、名声。
 人は飽くことなきものですから。
 ですが、風評を気にするようには見えません」
 ソウヨウは頬杖をつく。
 海月太守の評判はどこへ行っても悪い。
 鳳凰城が最も辛辣な評価をつけているのではないだろうか。
 彼は油断のならない、品性下劣な人物とささやかれているのだから。
「では身分」
 シュウエイは言った。
「私には、あの人が身分にこだわるような人物には見えません。
 ……彼は本当に太守になりたかったのでしょうか?」
 曖昧な色の瞳はシュウエイを見た。
「売国奴。
 それがもっとも妥当な彼の評価ですが?」
「そうは見えないんです。
 もしも、私が彼の立場ならこんなまどろっこしい真似はしません。
 先の海月の総領が死んだときに簒奪しますよ。
 何と言っても跡継ぎは八歳の女児です。
 宰相の立場にいたなら、簡単です。
 それをしなかった」
「野心は育っていくものです」
「シュウエイ。
 やけに現実味がありますね。
 あなたにも簒奪したいものがあるんですか?」
 ソウヨウは目を期待でキラキラさせる。
「一般論です!」
「おや、残念です」
 ソウヨウは大げさにためいきをつく。
「しかし、善意で動くような人には見えませんし。
 何が原動力なんでしょう?
 それがわかりません。
 これが敵の『間者(スパイ)』なら、わかりやすいんですけどね」
 ソウヨウはもう一度地図を見た。
「主上が信頼を置いている方です。
 裏切る確率は低いでしょう」
 モウキンは穏やかに言った。
「……色々な考え方がありますよね。
 この度のことは、深く考えさせられます。
 鳳様は何が必要で、何がいらないか、明確に区別しているんですよね。
 とりあえず私自身は必要な方に入れてもらっているようですが。
 一つ間違えば、私は追われる方の立場になっていたんですよね」
 しみじみとソウヨウは呟く。
 『敵』に同情はしない。
 情けをかけてはいけないのだ。
 ソウヨウ自身、かける情けを持ち合わせてはいなかったが。
「では、作戦は練りましょうか」
 計略の奇才はうっとりと微笑んだ。
「くれぐれも内密に。
 たとえ、ユウシであっても漏らさないでくださいね」
 ソウヨウの言葉に三人は拱手した。
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