第九十八章

 空は晴れ渡り、極上の青。
 豪奢な金の髪を持つ青年は小高い丘の上、眼下の街並みを愛(め)でる。
「良い天気だ。
 景色も良い。
 一番、美しい季節だな」
 ここは戦場である。
 それを知っていながら行将軍は呟いた。
 誰に聞かせるつもりもない。
 が、返事があった。
「気に入っていただけましたか?」
 のんびりとした口調。
 その声は意外に溌剌としていて、爽やかだ。
「かなりな」
 ギョウ・トウテツは機嫌良く言った。
「それは良かったです。
 きっと、鳳様もお喜びでしょう」
 言葉だけなら、まるで庭院(宮城の中庭)の東屋で交わされるような会話であった。
 トウテツは振り返る。
 そこには彼の上官である大司馬が笑顔で立っていた。
「お久しぶりです」
 シ・ソウヨウは言う。
「ああ、久しぶりだ。
 大司馬自らとは、ご足労をおかけしました、ってね」
 トウテツはおどける。
 チョウリョウの都、朱鳳に帰れないほど忙しくしてくれた張本人は、張りつけたように笑顔を崩さない。
「そうでもありませんよ。
 ちょっとした旅行の気分でした」
「皇帝陛下の命を受け?
 この国のためか?
 チョウリョウってのは、そんなに良い国か?」
 ギョウエイの奇跡の瞳。
 菫色の瞳がソウヨウを射るように見据える。
「姫がいますから」
 ソウヨウはニコニコと即答した。
 その答えは大司馬として、男として、どうかと思う発言である。
「その恋ですら、アイツに仕組まれたものだったら?」
 トウテツは嘲笑した。
「そんな瑣末なことはどうでも良いですよ」
 ソウヨウはあっさりと言い放った。
「アイツそっくりだな、お嬢さん。
 やっぱりあの時に殺っておけば良かったな」
 トウテツは少しうつむき、前髪をかきあげる。
「この国の未来のために死んでください」
 ソウヨウは穏やかな表情のまま、剣の鞘を払う。
「嫌なこった」
 トウテツも剣を抜く。
「俺には俺の目的がある」
「それはチョウリョウのためにはなりません」
 両者の剣が交わる。
「肉体に刻まれた記憶ってのはなかなか忘れがたいもんだよ、お嬢さん」
「恨みは恨みしか生みませんよ」
 一度では相手の勢いを殺ぐことはできない。
 間合いを開ける。
「ずいぶん、聖人君子みたいなことを言うな。
 アイツの教育の賜物か?
 お嬢さんの父親だってチョウリョウに殺されたんだろう?」
 トウテツは剣を振りかぶる。
 キンッ
 ソウヨウの剣がそれを受け止めて、甲高い音を響かせる。
「それは誤解です。
 前総領を殺害したのは伯父をはじめとする、親族の方々です。
 それに、それは過去のことです。
 私は水に流しましたよ」
 ソウヨウはトウテツの剣を受け流さず、弾き返した。
 それだけ、筋肉がついたのだ。
 ほんの一年前までは考えられなかったこと。
 速さは速さのまま、身軽さは身軽さのまま。
 それに力が加えられた。
 一瞬よろめいたトウテツの隙を突く。
「ずいぶん寛大なことだな」
 トウテツは体をひねり、致命傷は避ける。
「それに加担した皆さんは全員お墓の中ですから。
 死者に鞭打つのは気が引けます」
 ソウヨウは小さく薙ぎ払う。
 無駄が省かれた簡潔な動き。
「全員ねぇ。
 殺したのか」
 トウテツは背筋に伝う汗を感じた。
 目の前にいるのは『人』ではない。
 人の形をした別のモノだ。
 獣でもなく、もちろん鬼神でもない。
 得体の知れないモノである。
「あの時、私は子どもでしたからね。
 考えが幼稚でしたし。
 今思えば、もっと違うやり方があったと、後悔しているんですよ」
 ためいき混じりにソウヨウは言う。けれども、その表情はニコニコと笑顔だ。
 声と言葉は悔いているようなのに、その瞳と口元が裏切っている。
「たとえば、死ぬよりも辛い刑罰か?」
 奇妙な生き物だ。
 理解を超える。
 それと対峙している自分は何なんだ。と、トウテツは思った。
「あれ?
 どうして、わかっちゃったんですか?」
 ソウヨウは楽しげに言った。
 彼は現在『楽しい』のだ。
 手加減せずに剣を抜ける。
 それが純粋に『楽しい』。
「俺も性格が屈折してる方だが、お嬢さんはさらにすごいな」
「褒めても何にも出ませんよ」
 モノは笑う。
 笑いながら、剣を扱う。
 剣花、散る。
 実力は伯仲、と行きたいものだが、明らかにトウテツの方が劣る。
 何合か打ち合ううちに、それは大きな差を作り出す。
 空前絶後の刺客。
 嫌な成句が思い浮かんでしまった。
 トウテツは柄を握りなおす。
 目の前の青年は、この日のために皇帝に飼われていたのだ。
「そろそろ死んでくれませんか?」
「都が心配か?」
 トウテツは虚勢を張る。
「ええ。
 不確定要素が大きいんですよ」
 ソウヨウは洗練された動きで剣を振るう。
「どんな脅威があると言うんだ?」
 トウテツは剣を跳ね飛ばす。
 そろそろ体力の限界だった。
 疲労感で視界がくすむ。
「ないしょです」
 跳ね返されたはずの剣は、その勢いを自分のものにする。
 がら空きになった胴を抉る。
 切れ味の良いそれは深々と刺さり、引き抜かれる。
 トウテツは灼熱の痛みを覚えた。
「!」
 痛みで朦朧とする意識に叱咤して、剣を払う。
 カンッ
 トウテツの剣は叩き折られた。
 体が崩れ折る。
 ドサッとトウテツは倒れた。
 目の前には折られた剣先が地面に突き刺さっていた。
 俄かには信じられない……。
 折れるはずのない物が折られた。
 それは剣であり、『志』であった。
「何か言い残すことはありますか?」
 慈悲に満ち満ちた声が降ってきた。
 トウテツは無理やり視線を遣る。
 ゾッとするほど鮮やかな緑の瞳が、トウテツを見ていた。
 化け物だ。
 それを使いこなす人間も、もう『人』ではない。
 かつて友と信じていた男は『人』であることを、とっくのとうに辞めてしまっていたらしい。
 そのことにようやく気がついた。
「死ぬまで鳳にこき使われてろ」
 トウテツは口の端を吊り上げた。
 最期の意地である。
 弱々しく命乞いをするのは、自分に似合わない。
 程なく自分は死ぬ。
 動かない四肢、流れて行く血。
 それらが警告する。
「そうなっちゃいますよねぇ。
 働くのはあまり好きじゃないんですけど」
 トウテツは薄れて行く意識の中、緊張感の欠片もない呟きを聞く。
「行将軍、ご苦労様でした。
 恨み言はあの世で聞いて差し上げます。
 まあ、私がそれまで、このことを覚えていたら、ですけど」
 死神はそう言うと、剣を小さく振りかぶった。
 それが演技だろうと、本心だろうと、トウテツにはどうでも良かった。
 こんな日がいつか来ると知っていたんだ。
 それが、今だっただけだ。
 トウテツは目を閉じた。



「俺は千里って、いうもんだ。
 よろしくな」
「こちらこそ。
 千里、このクニの礎になって欲しい。
 ギョウエイの協力なしには、戦乱は治まらない」
「ああ、もちろんだ。
 一緒に戦のない世の中を作ろうぜ」
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