第九十七章

 メイワは寝台から、掛け布団を引き剥がす。
 羽毛入りの軽い布団を抱え込むと、ふらふらと歩き出した。
「お持ちします」
 それを目聡く見つけた秋霖が走り寄ってくる。
「大丈夫よ。
 これはそんなに重くないから」
「でも、かさばって足元が見えないんじゃないんですか?」
 鋭い問いにメイワは困ったように微笑を浮かべる。
「じゃあ、私が転ばないように秋霖がついてきてくれるかしら?」
 メイワは言った。
「はい」
 少々不満げに秋霖は返事をした。


 書斎ですっかり沈没している夫に、メイワは掛け布団をかけた。
 遠征から帰ってきた夫は、伝達を同僚にするなり、眠ってしまったのだ。
「どうすればあの距離を一週間で往復できるんでしょうね」
 秋霖が不思議そうに言った。
 大司馬以下一軍は、行将軍の援軍として北の辺境に向かったのだ。
 白鷹城は大司馬府。
 普段はほんわかとした空気が流れているが、このチョウリョウの要である。
 今更ながら、戦場を体感したのだった。
 それが一週間前の出来事。
 軍用の名馬であれば一週間もあれば現地にはつくのだろうが、往復は……できるものなのだろうか。
 無理なような気がするのだが、それを成し遂げた人間が目の前にいるのだから、できるのだろう。
「さあ」
 メイワは微笑む。
「でも、お怪我がないようで安心しました」
 それが一番、嬉しい。
 手柄を立てるより、怪我なかったことを嬉しく思うのは、武人の妻として失格なのかもしれない。
 けれども、妻が夫の無事を祈るのは、それを一番に喜ぶのは、当然の権利。
 メイワの微笑みは安堵と喜びに彩られ、輝きに満ちていた。
「伯俊様はお強いんですか?」
 秋霖は無邪気に問う。
 戦乱の中、生まれ、育った娘。
 『強い』ことは他者を葬り去ることと、知っていた。
「そういったことをご自慢なされない方だから、わからないわ」
 メイワは眠る夫の顔をもう一度見て、部屋から立ち去る。
 秋霖もそれについて行く。
 綺羅星にも譬えられる将軍たち。
 強くないはずがない。
 この国をその『武』で支えているのだから。
 でも、強くなくても良い。とメイワは思ってしまう。
「鍛錬してる時間よりも金勘定してる時間の方が長そうですよね」
 秋霖はクスクスと笑う。
「まあ。
 そんなことはないと思いますよ。
 鍛錬の時間より、白厳殿のお世話をしている時間の方が長そうですけれど」
 メイワは悪気なく言った。
「それは言えてますね。
 いっそのこと軍から退いて、文官になればいいのに」
「駄目ですよ。
 本人に言っては」
「言いませんよ。
 大丈夫です。
 名案だと思いませんか?
 メイワ様の心配の種も一つ減りますよ」
 秋霖は提案する。
「でも、きっとお願いしても聞いてもらえないと思うわ」
 寂しそうにメイワは言った。
 夫は責任を投げ出すことを好まない。
 軍を退くのは、まだ十年も先だろう。
「頑固者ですものね」
 秋霖は主の夫君を評価する。
 メイワはズケズケと言う見習い侍女に微笑んだ。
 言いたいことを言う人間は嫌いではない。
 裏でこそこそとささやく人間の方が嫌いだ。
「メイワ!」
 廊下の曲がり角から、十六夜公主が現れる。
「伯俊が帰ってきたって本当?」
「ええ、本当ですわ。
 姫、お付きの侍女はどうなさいましたの?」
「あら?
 どうしたのかしら?
 部屋を出たときにはついてきていたのに」
 ホウチョウはきょとんとする。
「廊下は走らないように、何度注意すればわかって頂けますのでしょうか?」
 メイワはためいきをついた。
「歩くよりも走る方が早く目的地に着くと思わない?」
 ホウチョウは言った。
「ですが、走るのはいけませんわ。
 転びやすくなります。
 それにはしたない、ですから」
「次からは気をつけるわ」
 守られたことがない口約束をホウチョウは口にした。
「それで、伯俊は?」
「今は眠っております」
「昼間なのに?」
 ホウチョウは小首をかしげる。
「疲れているのです」
「仕方がないわね。
 目を覚ましたら、すぐに教えてね。
 約束よ」
 ホウチョウは苛立ちを隠さずに言った。
 戦場からの第一報である。
 凶報ほど早く伝達されることぐらい尚武の姫は知っている。
「はい」
 メイワはうなずいた。
「公主様〜」
 やや離れた場所から侍女たちの声が聞こえ始めた。
「探してらっしゃるようですわ」
「ええ、わかってるわ。
 じゃあ、帰るわね」
 ホウチョウは声のする方向に歩いて向った。
 十分距離が開いてから、秋霖は口を開いた。
「相変わらず、侍女泣かせですね」
 秋霖は十六夜公主の侍女の真似事をしたことがある。
 そのことを思い出したのか、不機嫌さを隠さずに侍女見習いの少女は言ったのだった。
 メイワは困ったように微笑んだに留まる。
 積極的な否定の言葉を思いつけなかったからだった。
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