星龍井戸譚

 この時代、皇帝の治世は一片の悪しきものがなく、その仁の心は天の下をあまねいていた。
 万民は平和を謳歌し、辺境の地であってもその豊かさは行き渡り、典型的な片田舎の街・假睡にも、その恩恵は充分に届いていた。
 假睡は応龍江の上流に広がる街である。古井戸を中心として碁盤の目のように整えられたその姿は、皇帝のまします都もかくやといった風情で、道教の理想を大地の上に描きだしたような街であった。多少、交通の便が悪かろうと不老長寿を憧れるものならば、住み着きたくなるような恵まれた場所にある。
 また假睡は、黄姓の発祥の地でもある。大陸全土に広がる一族の本流は、今もなおこの街でその血脈を誇っている。
 假睡とは、伝統と格式に縛りつけられたような前時代的な土地だった。

***

 そこは薄気味が悪くなるほど、日が差し込まない部屋だった。不思議とほこりが積もることもなく、空気が淀むこともない。
 朱色の漆が塗られた扉の前まで、お団子頭の童子たちがもつれるようにやってきた。童子たちは着ている服も似ているのならば、顔立ちまでもそっくりで、まるで同じ茎にぶら下がる二つの瓜のようだった。
妹妹(妹よ)」
 水気を象徴する黒の飾り紐で髪を結んでいる童子――黄垣筐が言う。
「しーっ。
 垣哥哥(垣兄さん)黙っていて」
 火気を意味する赤い飾り紐で髪を結っている童女は、童子の唇に人差し指を突きつける。ほんのちょっとふれた指先は、餅のように白くて柔らかかった。
「ここよりも、広場のほうが楽しいよ。爺爺(父方の祖父)に知られたら、怒られちゃうよ」
「垣哥哥は臆病者で、意気地なしね」
林圭籃!」
 童子は同い年の従妹をねめつける。童女は肩をすくめる。
「さ、入りましょ」
 林圭籃は扉を押し開いた。
 すーっと光が二人の影を床に縫いとめながら、室内に入り込む。
 謹厳な祖父と同じように、部屋の造りはどこまでも古風であった。床から天井まで伸びる柱は太く、精緻な彫刻が施されていた。龍が天へ舞い上がっていく様が生き生きと彫りこまれていて、今にも飛び出していきそうな躍動感があった。天井は綺羅らかにも星宿(星座)が描かれていた。
 まるで大伽藍(寺院の大きな建物)だ、と童子はごくりと唾を飲み込む。
 空気がビリビリと震え、地面に押しつけられそうな重圧感があった。
 何より柱の龍が恐ろしい。
 大きな眼が乱入者をギロリと睨んでいる。捻れた体を不服と言わんばかりに、開いた口には鋭い歯が並んでいる。その大きな顎にかかっては、人間の頭など簡単に噛み砕かれてしまいそうだった。
 黄垣筐は己の想像に身を震わせた。
「あれ、見て」
 林圭籃がついっと袖を引く。
 小さな指が、真正面にある銅鏡を指し示す。
 漆塗りの台の上に鎮座する鏡は、扉から差し込んだ陽光を受け、ぼんやりと浮かんでみえた。
 古ぼけた鏡は一目で大切なものだとわかる。
「キレイ」
 歓声を挙げて、童女は鏡に近寄る。
「妹妹! 爺爺に怒られるよ!」
 童子は慌てて制止する。
 黄家の長老である祖父はとても気難しがり屋なのだ。許可もなく部屋に入って、無断で宝物にふれたと知られたら、どれほど怒られるのだろうか。
「垣哥哥。とてもキレイよ」
 鏡を手にした林圭籃は、顔いっぱいの笑顔を浮かべる。
「見て。真ん中がキラキラとしている」
 銅鏡の裏面を童女は、童子に見せる。
 鏡の裏面には四方を守る四神が緻密に彫られ、その中央に黄金に輝く石がはめ込まれていた。
 黄家を意味する色の石は琥珀だろうか。それとも黄金そのものなのだろうか。
「石が光に反射しているだけだよ。
 ほら、鏡を戻そう」
「そこにいるのは、阿垣(垣坊)と阿圭(圭ちゃん)か?」
 老人の声に童子はギクリと肩をすくめる。
「爺爺!」
 黄垣筐が謝罪の言葉を口にするよりも早く、祖父は相好を崩した。杖を突きながら二人の前までやってくる。体全体の気を入れ替えるように、大きく息を吸うと
「これは『星籠』という。
 蚩尤を倒した黄帝を知っているだろう? その黄帝から、我らの祖がいただいた大切な宝物だ。いや、我らはこの『星籠』の守り人なのだ」
 祖父は誇らしげに言う。神妙な顔つきで聞いている従妹とは違い、黄垣筐はいまひとつピンとこなかった。
 黄帝は昔の人すぎて、想像がつかない。
 その昔、蚩尤という半人半獣の恐ろしい生き物がいたという。その生き物は、戦に必要なすべての武器を作り出し、天界の玉座を欲し、戦を仕掛けてきたという。天界の帝王だった黄帝は配下の黄龍をつれ、その化け物を討ったという。その後、黄帝は天文、医術、五行と生活に必要なものを地に広めた、とされる。
 『星籠』は美しい銅鏡ではあったが、何故これを守っているのか、疑問ばかりが湧いてくる。
 そんな素晴しいものなら、天子様がお持ちになられたほうがずっと良いような、気がする。
 今の天子様はたいへん賢く、慈悲深い。と聞く。その天子様が持たずに、何故この家がこれを守っているのか。
 黄帝はご自分の直系の子孫に渡さずに『星籠』のために黄家を作ったことになる。
「黄家の一員として、お前たちは『星籠』を守らなければならない。わかるな?」
 祖父は言った。
「はい」
 二人の童子は、うなずいた。

***

 合図のない隠れ鬼がいつの間にか始まっていた。林圭籃が姿を消したのだ。
 今日は月に二度の琴の稽古日で、外から優れた弾き手が訪問する予定だった。従妹は琴にあまり興味がないため、この一年間は稽古日を隠れ鬼の日としていた。黄垣筐が捜さなければ琴の老師(先生)が帰るまで出てこない。琴を弾くことを面白いと感じている童子にはいい迷惑だった。何でも二人一緒の扱いであれば、単独で琴の稽古をつけてもらうわけにもいかない。
 だから、黄垣筐は従妹の姿を捜すために、屋敷の中を走っていた。
「阿垣」
 呼び止められて、童子は立ち止まる。
 麗々しくも着飾った女性が近づいてくる。黄垣筐の母である。
 たおやかな母が膝を折り、目線を合わせる。脂のように滑らかな白い手が握るのは、四季の花が四隅に刺繍された見事な手巾。髪一本よりも細い糸で、息が詰まるような精密な刺繍が施されている。黄垣筐はその見事な針仕事を間近で見ていたから、知っていた。その手巾が優しく額の汗を拭ってくれる。入念に打たれた絹は柔らかく、しっとりとしていた。
「お願いよ。阿圭を守ってね」
 黄家の長子である女性は微笑みをたたえながら、頼む。自分の生んだ息子に姪を託す。
「はい」
 黄垣筐は返事をする。
 従妹は可愛らしいが好奇心旺盛で、ひとつの場所に落ち着いていられない性質だった。水遊びや木登りが大好きで、まるで男の子のような中身をしている。けれども、やっぱり女の子なのだから、顔に傷でもできたら大変だ。母の心配はもっともだった。
「阿圭は黄家の女で、貴方の陰。
 あなたたちは双つなの」
媽媽(お母さん)?」
「阿圭がいるから、貴方がこの家を継ぐの。
 間違っても、忘れてもいけないわ」
 白い手が童子の肩をつかむ。強く、重い。振り払うことのできない手に、黄垣筐の背筋に冷たくて寒くなるような何かが走り抜ける。
 黒に見える双眸が黄垣筐を見据える。
 従妹と同じ色の目の色だというのに恐ろしかった。……母の目だ。いつも優しく見つめてくれる母の目だが、黄垣筐を捻じり伏せるような、力で圧倒するような光がそこにはあり、見覚えのないものであり、まったく別のものであり、信じたくはないものだった。
 自分自身というものを根底から覆すような震えがやってくる。地面が揺れているように感じた……いや、違う。これは自分が揺れている。母がつかんでいるのに、揺れている。ひどい力が両肩に乗った手から伝わってくるのだ。だから、揺れているのだ。
 時間が伸び縮みをするような、気持ち悪くなるような。極彩色の目眩を覚える。
「……はい」
 黄垣筐は言った。
 母の言葉がどこか遠くでこだまして、次の瞬間には頭の中央を支配する。うなずかなければならないような気がして、童子は首肯した。それですべてが済むような気がしたのだ。
 ふっと重圧から開放される。
 目を瞬くと、母はたおやかな母に戻っていた。まるで先ほどまでの母は、黄垣筐の作り出した幻だったかのように、優しく微笑んでいた。
「阿圭はどこに行ってしまったのかしら?
 外まで行っていなければ良いのだけれど……」
 母は首をめぐらして院子(中庭)を見やる。
「妹妹を捜している途中なので、失礼します」
 童子は頭を下げる。
「ええ、お願いね」
 母は穏やかにうなずいた。
 あの恐ろしげな母は、自分の勘違いなのだろう、と童子は納得した。もう一度、心をこめてお辞儀をして、従妹を捜すために走り出した。院子に降りて、鯉が泳ぐ池まで足を伸ばす。応龍江の上流を模したとされる庭の作りは、濃淡だけで描かれる絵画のように緊張感と迫力があった。奇岩が山のように並び、そこからほとばしる水は真っ白な滝となり、川になる。鯉が離されている辺りには意匠を凝らした橋がかけられ、一歩進むごとに景色が変わると大人たちは感嘆する庭であった。
 その庭のひとつに、小さな人影があった。お団子頭に赤い飾り紐。火気で封じられるのは水気に遊ぶとされる女だからだ。
「妹妹!」
 やっと見つけられた安心感からか、声が大きくなった。それに従妹は冷たい一瞥をくれる。
「垣哥哥が驚かすから、鯉が逃げてしまったわ」
 童女は腰に手を当てて胸を多くそらす。
 まるで自分が悪者みたいだ、と黄垣筐は思った。
「今日は老師が来る日だよ。鯉なんて毎日でも見られるじゃないか」
 誰かに捜してくるように命令されたわけではない。自分から進んで従妹を捜したのだ。“でも!”と心の中で反発を覚える。少しぐらいは感謝してくれてもいいような気がするのだ。
「この池の鯉はこれだけ大きいんですもの。龍になるかもしれないわ。それが今日かもしれないじゃない」
「妹妹」
 黄垣筐は呆れた。
 双子のような従妹の頭の中は、突拍子もないことばかりで埋まっている違いない。次から次に、どうやったらそんなに面白おかしいことを思いつくのだろうか。常識というものが足りなすぎる。
「老師は月に二度。新月と満月の日に来るのよ。
 龍を見られるのは長い人生で一度ぐらい。爺爺だってまだ見たことがないって言っていたわ」
「大魚が龍になる滝は、竜門山の滝だよ。こんな小さな庭の滝じゃない」
「応龍江の上流だったら、鯉も龍になるかしら?」
「難しいと思うよ。竜門山の滝は想像できないほどの大きな滝だっていうよ。絶対、登ることなんてできないって。だから、そんな滝を登りきった魚は龍になれるっていうんだ」
 黄垣筐は習い覚えたばかりのことを言う。同じことを林圭籃も隣で聞いていたはずなのだが、初めて聴くような顔をする。
 自分に良く似ているけれど、自分よりほんの少しばかり可愛い顔が真剣な表情で、話を聴く。手習い(習字)をしている最中よりも身の入った表情に、黄垣筐は気を良くする。
「この池の鯉は龍にはならないのね」
 それならば用はないと、林圭籃は黄垣筐に体ごと向き直る。
 従妹は他の女の子たちとは違い、わかりやすい。ころころと気分が変わるところは同じなのだが、素直なのだ。表情にも動作にもよく出るし、言葉を惜しんだりはしない。
「さあ」
 童子は手を差し出す。同じ大きさの手がそれを握り返す。
「琴って退屈だわ」
 心底つまらなさそうに童女は言った。

***

 時は流れて、八年。
 双子のように育った二人の童子はお団子を解き、今や各々の家で暮らしている。七つを超えれば男と女。一年に一度、顔を合わせるのがやっとである。
 どこの地方であっても節句の祝いは一族郎党が集まる盛大なもの。假睡も同様。一年に一度しかない冬至の日であれば、その騒々しさは半端ではなかった。立春まで続くお祝い騒ぎに、まだ数え十五にしかならない黄垣筐が閉口して、自分の部屋へと引っ込んだのも、どこにでも見られるような光景であっただろう。
林姑娘(林嬢)が来ているぞ」
 同じ屋敷に住む父方の従兄・黄笥均が悠々とした時間を打ち破りにきた。
「妹妹が?」
 無聊の慰めにと琴の楽譜を探していた少年の手が止まる。
「いつまで、妹妹だ?」
 従兄は、ぷっと吹き出した。
 己は不思議なことを一つも言っていない。
 黄垣筐は怪訝な顔で話の続きを待つ。
 林姑娘こと林圭籃の母と黄垣筐の母が一つ違いの姉妹であったことと、同年同月同日に生まれた従兄妹ということもあって、七つまでは本当の双子のように育てられた。
 黄家の結束は強く、娘が外へ出ても、他人として扱うことはない。同世代の従兄弟同士は、母方であっても立派な兄弟である。
 だから、黄垣筐は一族習慣にのっとり林圭籃を「妹妹」と呼ぶ。
「未来の妻だろう」
 従兄は肩をすくめながら、種明かしをする。
 幼い、と言いたいのだろう。
「結婚に異論はないが、やはり妹妹だ」
 黄垣筐は言った。
 結婚を嫌がって、妹扱いをしているわけではない。時が来れば娶る娘は、やはり無邪気な妹妹ただ一人だ。
 呼び名を変えるのはどうにも気恥ずかしい。相手も気にしてはいないのだから、もうしばらくはこの呼び方でもかまわないと思うのだ。
「それで、どこに?」
 少年は尋ねる。
 いち早く、明朗な従妹の顔を見たい。
 彼女だったら、退屈を覚える暇など与えてはくれないだろう。
「捜してきてほしい」
 黄笥均は言う。
「……なるほど」
 少年は立ち上がった。
 同い年の従妹は、次の新年で十六歳になるはずなのだが、変わっていないらしい。
 遅い冬の訪れに半ば感謝しながら黄垣筐は屋敷を出て、街を歩く。
 息が凍るような冷たさで人捜しをするのは、頼まれてもなかなか首を縦に振れないものだ。例年であれば葉を落としている時分だが、木々は錦秋といった面持ちで、その華やかな葉を見せびらかしている。お祭り騒ぎの街並みとの相乗効果だろう。格段と煌びやかな冬であった。
 街の中央にある枯れ井戸の側で、捜し人を見つけた。
 一年ぶりに出会う従妹は、匂うような女人……にはなっていなかった。
 旅人らしい身なりの少女から見出されるのは闊達さぐらいだろう。帯に結ばれた玉つきの組み紐が、若い娘らしい飾りっ気という按配だった。それすらも水気を生む金気の色彩であるところの白玉であれば、めかしこんだとは言いがたい。
「妹妹!」
 黄垣筐は走り寄る。久方ぶりの出会いに顔が自然とほころんだ。
 少女の大きな双眸が長い睫毛も重たげに瞬く。
「垣哥哥?」
 小首をかしげ、小さな唇がささやいた。
「ああ、そうだよ」
 黄垣筐はうなずいた。
「驚いたわ。すっかり背が高くなって、見知らぬ人みたい」
 少女は少年の周りをくるりと回る。
 この一年で指五本分ほど背が伸びたのだ。これからもまだ伸びるだろうと従兄たちは言ってくれた。
 同じぐらいの背丈であった従妹が小さく見えた。顔を向ければすぐ隣にあった瞳も、かがまなければ覗き込めない。水気そのものと賞賛される瞳をじっくり眺められないのは残念だったが、家を守る男としての体ができてきたことは純粋に嬉しい。
「どこから見ても立派な老爺(旦那さま)ね」
 林圭籃は黄垣筐の鼻を人差し指でつつく。
 ニッコリと笑う顔は、一年前と変わらない。
「皆が捜している。屋敷に戻ろう」
 少年は言った。
「でも、どうしてかしら?」
「何がだい?」
「一年前も、ここで垣哥哥に会った気がするわ」
 林圭籃は井戸の縁に腰をかける。仙女が舞うような重さを感じさせない動作に、黄垣筐は背はひやりとする。
 潤沢な応龍江を持ちながら、假睡の中央にある広場の井戸は枯れている。落ちたら一巻の終わり。冷たい石に身体が叩きつけられる。
「妹妹、危ないよ」
「垣哥哥は心配性。
 中身を取り替えてしまったほうが、私たちは良かったのかもしれないわね」
 少女は何がおかしいのかクスクスと笑う。
 大人しい跡取り息子に、活発な従妹の取り合わせに、大人たちは何度も苦笑しながら言う。
 “どうして中身を間違えて生まれてきたんだい?”と。
 だが、こんな状況で言われても面白いはずがない。
 心配するのは、黄垣筐の当然の権利なのだ。
 幽鬼(幽霊)と冥婚をするつもりはない。
「林圭籃!」
「去年だって、ここに落ちたりはしなかったわ。その前だって。
 黄家の娘が古井戸で儚くなるなんて、活劇にもなりはしないわ」
 少女はふわりと井戸の縁から降りる。
「それとも垣哥哥が漢詩にして、琴と一緒に吟じてくださるのかしら?」
 歌うように話しながら、少年のすぐ傍まで寄ってくる。
「来年は寄り道なんかをしないで欲しいよ」
 黄垣筐はためいき混じりに言った。
「さあ? 来年、垣哥哥は私を捜してはくれないかもしれないわ」
 大きな瞳が井戸を見やる。
 簡素に結ばれた髪の間から見える白いうなじ。そこから、すっと伸びた背中までに、ふっと陰りが通りすぎた。
 決して美人とは言えない後姿ではあったが無性に抱き寄せたくなった。
 目を離したら溶けてしまいそうな、そんな不安が胸に押し寄せる。子どもの時のように堅く抱きしめれば、そんな心配など忘れてしまえるかもしれない。
 だが、この広場には人目がありすぎた。慎みのない行動は未婚の女性の体面を深く傷つける。黄垣筐は己の指を手の平に、しっかりと握りこんだ。
「何故だかは知らないけれど、妹妹を捜すのは僕の仕事のようだから。
 真っ直ぐに屋敷に来ないつもりなら、また捜しにくるよ。
 妹妹は危なっかしいからね。目を離しておくわけにはいかない」
 黄垣筐は言い訳をするように言った。
「ま、垣哥哥」
 体ごと振り返り、従妹は言った。
 唇を尖らせ告げる様子は、まだ子どもそのものだった。
「次の冬至には、私も破瓜(十六)の歳よ。
 『老婆(愛しい人)には家を守ってもらわねばならない』ぐらい、言ったらどうかしら?」
 お説教をする大人たちの口ぶりを上手に真似して、林圭籃は言う。
「結婚して妹妹が変わるとは思えないから、やっぱり僕は捜し回っていそうだよ」
 少年は微苦笑した。

***

「垣哥哥。応龍江で水遊びしましょ。
 血のように赤く染まっていると思うの。もう見られて?」
 声を弾ませて林圭籃が提案したのは、明日は冬至を迎えるという日であった。
 琴の譜面とにらめっこをしていた黄垣筐は顔を上げて、従妹を出迎える。
「風邪を引いてしまうよ、妹妹」
「綾羅と名高い江を見てみたいの。秋の応龍江は、この上もなく美しいと言うじゃない。どんな綾絹も錦も敵わぬ華やかさだと。
 でも、私ひとりじゃ怒られるでしょ?
 垣哥哥と一緒なら媽媽も許してくれると思うのよ」
 琴を挟んだ向かい側に少女は座る。
「確かに応龍江が紅葉に染まる姿は美しいけれど、もう冬だよ」
「これだけ暖かいんですもの。まだ葉は残っていそうだわ」
 生まれついての揉め事製造人である少女は、力説する。
「勝手に出て歩いたら、皆が良い顔をしないよ」
「天帝様が私に美しい応龍江を見せるために、季節を止めてくれているのかと思っていたのに。
 こんなことは初めてでしょ。だから」
「あまり良くないことだよ。
 長老様たちも、ずっと話し合っている」
「何を?」
 新しい興を見つけて、少女は顔を輝かせる。
 己の迂闊さに、黄垣筐は後悔する。
 従妹のような性質の人間には首を突っ込ませてはいけないような事態が、どうやら起きているようなのだ。
 節句の忙しさとは違う慌しさが、そこかしこに存在していた。大人たちは焦っている。
「何が今、起きてるの? 未だ葉が赤いことと関係があるのね!」
 浮き浮きと林圭籃は言う。
「僕は何も知らないよ。
 ただ葉が色づいてしばらくすると、雨が降って、それが雪に変わるだろう? 今年は勝手が違うから、それで」
「それで話し合いなのね。面白そう!」
「妹妹」
 少年はたしなめる。
「垣哥哥。琴なんてよして、私とお話しましょ。
 退屈で死んじゃいそうよ」
 真っ白な手を琴の上にそろえて載せて、林圭籃は訴える。
「縁起でもない。
 死を軽々しく口にするものじゃない」
「まあ、垣哥哥。そうしていると媽媽のようね」
 少女は大きな目を真ん丸くさせて、それから陽気に笑った。
 弾けるような笑い声に、つられて黄垣筐も笑む。
「退屈しないように、妹妹の好きな曲を弾いてやろう。
 花に遊ぶ胡蝶のような軽やかで華やかなものがいいかな」
 少年は、普段なら絶対弾かないような曲を挙げる。
「小雨のようにささやく曲が良いわ」
 意外なことを従妹は言った。
 黄垣筐は、長い睫毛に縁取られた双眸を覗き込む。黒い瞳は吸い込まれそうなほど深い。
 恋の曲が必要なほど、自分たちは大人になったのだろうか。
 琴の譜面を持つ手が柄にもなく震える。
「それでうたた寝をしたら気持ち良さそうでしょ」
 春風のように満面の笑みを浮かべて、少女は言った。
 取り越し苦労に、黄垣筐は胸のうちでためいきをついた。

***

 戸口の辺りに影がやってきた。
 黄垣筐は琴を弾く手を止め、室内に伸びる黒い影の輪郭を追いかける。
 仲の良い従兄が柱にもたれかかるように苦笑していた。
「また琴か。よく長老たちに許されるな」
 黄笥均は言う。
「琴の体は一歳、巡る一年をあらわす。
 琴の糸は五行、この地を満たす気を意味する。
 木気の桐を使う。張る音は邪気を払う。龍の歯茎に雁の足、鳳凰の眼。
 琴の中には宇宙があります。
 黄帝がくださった陰陽五行にふさわしい物は、琴をおいてこの世に二つとありません。
 『星籠』を守る黄家にこそ、似合いの物だと言えませんか」
 少年はすまし顔で、長老たちに言った言葉をくりかえす。
「それで本当のところは?」
「様になるから」
 琴はそれだけで恰幅の絵になると言われる。山水を描いた名画よりも一面の琴を壁に掛けておくほうが品があるとされていた。
 それを膝に乗せ弾くのは、高雅。……そんな言葉は、政権から外された知識人たちの負け惜しみから生まれたものだろう。
 君子は民の声に耳を傾けるのに忙しく、琴など弾いている暇などない。
 従兄はいぶかしげな顔をする。
「自分の性にあっているらしい」
 黄垣筐は微かに笑った。
 外を飛び歩くよりも、学問を修めるよりも、琴を弾いているほうが楽しい。都に出て立身出世を志すよりも、故郷の花鳥風月をめでながら静かに生きていくほうが興味深い。傍目から見たらつまらない生き方だろうが、黄垣筐はこの街を出ていく気がしない。かつて祖父に言われたとおり、『星籠』を一生守っていくのだ。
「俺の性には合わないな」
 従兄は独り言のようにうなずく。
「ところで林姑娘を知らないか?」
「今日は朝餉のときに顔を合わせたきりだ」
 黄垣筐は従妹の悪い癖がまた出たのだ、と知った。同い年の少女はふらりと姿を消す。隠れ鬼をするように……、いや合図もないのだから隠れ鬼よりももっとひどい。何も言わずに出かけてしまうのだ。假睡の街並みは林圭籃にとっても庭のようなもの。腹ごなしの散歩のように気軽に屋敷の外へ出て行ってしまう。
「ここも、はずれか。
 ちょっと一っ走りして捜してきてくれないか?
 林姨媽(林伯母さん)が心配しているんだ。応龍江まで一人で遊びに行ってしまったんじゃないかって」
「まさかあの妹妹だって、そこまで遠出はしないだろうよ」
「さて、どうだろう?
 そう思っているのは弟弟だけやもしれない」
 黄笥均は片眉を挙げて、腕を組む。
「すぐに見つかるさ」
 そう言いながら黄垣筐は立ち上がる。
「それは弟弟だけだろうよ。林姑娘は神出鬼没。活劇の花形のようだ」
「長棍を持っての大立ちまわりよりも、団扇のほうが良く似合う」
「そんなことを言うのも、弟弟だけだ」
 従兄は肩をすくめて見せる。
「妹妹は応龍江まで行ってないよ。まだこの街の中だ」
 ひとりでは怒られる、と従妹は言っていた。
 何をするのでも林圭籃は黄垣筐を誘う。絶対ひとりで遊んだりしない娘だった。二人は七つまで双子のように育ち、どんな些細なことをするのでも一緒だった。ひとりで何かを始めるときは、いつだって不安そうにしていたのだ。大きな瞳に綺麗な透明な雫をためていたのだ。
 黄垣筐は屋敷を出て、街を歩く。足は真っ直ぐと広場の枯れ井戸に向った。妹妹を捜すときはいつだって直感が耳打ちするのだ。途中で物売りから揚げたての餅を買う。芋を蒸して良く練った表面に雑穀がびっしりとついた揚げ餅は、胃を刺激するように香ばしく、お皿代わりの木の葉を通してもまだ温かい。そのぬくもりに微笑みながら、黄垣筐は従妹に追いついた。
「妹妹!」
 古井戸を興味津々に眺めていた少女が振り返る。動きやすく簡素な格好をしているから、道行く人たちに紛れ込みそうなものを、やはり林圭籃は林圭籃なのだ。目立つ。
「垣哥哥。ぴったりね!
 ちょうど小腹が空いてきたところよ」
「姨媽が心配してるらしいよ」
 黄垣筐は揚げ餅を一つ手渡す。
「まあ、媽媽が。本当に心配性ね。そのうち病気になっちゃいそうだわ」
 白い手が器用に木の葉をむく。湯気の立つ揚げ餅にかぶりつくと、従妹の笑顔はもっと輝く。
 まだ温かい、と嬉しそうに林圭籃は揚げ餅を食べる。
「妹妹は一人っ子だからだよ。子どもの数が少ない分、心配が集まっちゃうんだよ」
「こればっかりは仕方がないわ。神さまがお決めになることですもの。祭祀のために誰かもらってくるって言ってたけど、あれはどうなったのかしら? お兄さんは垣哥哥で足りているから、飛びっきり可愛くって賢い弟が良いわ。
 ……どうしたの?」
「いや、姨媽に悪いと思って」
「そんなことは気に病んでも意味がないわ。垣哥哥と私は媽媽のお腹にいたときからの婚約者。それに女はお嫁にいくものよ。今更だわ」
 林圭籃は揚げ餅をくるんでいた木の葉を綺麗にたたむ。おしゃべりな口は手早く餅を食べてしまったようだ。まだ半分も食べていない黄垣筐に、たたんだ木の葉を当然の顔をして押し付ける。
「それよりも応龍江に行く気になって?」
「全然」
「残念だわ。
 街の紅葉も美しいけど、鮮血のような江を見てみたかった」
 空になった白い手がひらひらと翻る。まるで枝から落ちた葉のように。
「妹妹がこの街に住むようになれば見に行けるよ」
 少年の言葉に、少女は長い睫毛も重たげに瞬く。
「それっていつかしら?
 私たちは結婚の取り決めをしてるけど、正式な日取りは決まっていないのでしょ? しわしわのお婆ちゃんになる前に、假睡に戻ってきたいわ」
 少女の手が古井戸の縁を優しくなでる。
「妹妹はこの井戸が好きみたいだね」
「あら、それは勘違いだわ。気になっているだけよ」
「同じことだろう」
「違うわよ。どうして、無用の長物がこんなところにあるのか気になってるの。
 枯れちゃった井戸なんて潰してしまえばいいじゃない」
「罰当たりだ!」
 黄垣筐は身震いした。
 假睡は古井戸を中心に広がっている。黄帝の話が本当なら、何百年と碁盤の目のように整えられた街で黄家は暮らしてきたのだ。
「応龍江の水脈がもっと下にもぐってしまったのなら、どうして深く掘らないのかしら?
 私が物がわかるようになったときには、ここは立派な枯れ井戸になってたのよ。
 邪魔じゃない」
 少女は無表情に断言した。
「そんな恐ろしい考えは捨てるんだ。
 確かに今は枯れているけど、やがて水が帰ってくるかもしれない」
「それはいつ? ずっとずっと気になっているの」
 女は陰の気を帯び水気に富む。男の黄垣筐が想像よりも深く、林圭籃は水を求めているのかもしれない。
 少年を見据える黒い瞳は本気だった。飾り物のような睫毛が震えもせずに、黄垣筐を見つめる。
 取り込まれてしまいそうな雰囲気があった。
「僕はたいして知識を持っていないけど、わかる。この井戸は無意味ではないよ。
 潰してしまってはいけないんだ」
 街の中央にわざわざ掘られた井戸には意味があるはずだ。
「そう」
 林圭籃は目を石畳に落とす。
 ひどくいけないことをしてしまったようで、黄垣筐は居心地の悪さを味わった。
 自分は間違ったことは言っていない。それなのに謝らなければいけないような気がした。
 少年が口を開くよりも先に、
「垣哥哥がそう言うならそうね」
 少女はいつものように笑った。
 だから黄垣筐は言葉を飲み込んだ。

***
 
 ぬるい冬は雨を置き去りにした。
 あるいは雨が降らないために季節は停滞しているのかもしれない。常とは違う気の流れを黄家の長老たちは重くみた。何度も易を読み、古書を紐解く。
 結果は『凶』。
 このままでは新年を迎えることはできない。雨乞いをすることが決められたのは、まさに冬至の日であった。
 選ばれたのは黄垣筐と林圭籃。
 これから葬式にでも出るかのように、上から下まで真っ白な服に身を包み、二人は儀式にふさわしい場所へと向う。少女の手には黄家の至宝、『星籠』と呼ばれる銅鏡があった。
 家の窓という窓は閉められ、門という門は閉ざされ、街は水を打ったように静まり返っていた。銅鑼や太鼓の音で神を讃え、迎える通常の雨乞いの儀式とは何もかもが違う。物々しい雰囲気に押し潰されそうだった。指が強張り、緊張でカタカタと震える。
 まるで己が幽鬼になってしまったようだ。と黄垣筐の胸は鉛でも呑んだように重くなった。
「何故、垣哥哥と一緒なのかしら?」
 厳めしい雰囲気に頓着せずに、従妹は弾むようにしゃべりだした。一言も黙っていられない雛鳥といった具合である。
「妹妹だけでは心もとないからさ」
 黄垣筐はいつもの調子を思い出し、ささやくように切り返す。
「まあ。失礼しちゃうわね。
 垣哥哥よりも、しっかりしているつもりよ」
「単純に、妹妹が女で、僕が男だからだろう。太極だ」
「それぐらいは知ってるわ。物知らずのように扱わないで」
 つんっと少女は顔を背ける。
 厳粛な儀式の最中だということを忘れてしまいそうな親しみが心の奥から湧いてくる。
 正午を境に、黄垣筐が先に生まれ、林圭籃が後に生まれたのは、必然であったのだろう。二人の結びつきは深淵にあり、解くことなど敵わないように思えた。
「誰もいない街は静かで素敵ね」
 拍子をとるように楽しげに林圭籃は歩く。心の奥底から、この状況を味わっているようだった。
「そんなことを言うのは、妹妹ぐらいだろうね。
 怖くはないのかい?」
「垣哥哥と一緒だもの。怖くはないわ。
 むしろ、心が浮き立ってくる」
 林圭籃は銅鏡を愛惜しむように抱えなおす。昔は大きく神聖に見えた鏡も、少女の腕に納まると頼りなく感じた。
「毎日が儀式の日でも良いわ」
「妹妹。これは重要で、神聖な儀式なのだよ。
 黄帝様に『雨』を祈願するんだからね」
「儀式といっても、煩雑な取り決めもないじゃない。こんな雨乞いは聞いたことがないわ。
 本当に降るのかしら?」
 少女は小さな頭を空へと向ける。
 冬至の弱々しい太陽の姿が確認できた。
 十二支では、今日から一年を数える。始まりの日。
 二人は街の中央まで歩いてきた。ほんの数日前に林圭籃と再会した枯れ井戸の前に立っていると、表しようがない不安が広がってくる。あの時、想像もしていなかった未来だ。ここまでうるさいほど話しかけてきた少女も口をつぐんでいた。
 大きな黒い双眸に、少年はうなずいてやる。「大丈夫」と声に出すことはなかったが、同じ日生まれの従兄妹同士だ。それだけで伝わる。
 黄家の娘が手を差し伸べて、枯れ井戸に『星籠』をかざす。
 一年で最も昼が短い日の太陽が井戸と垂直になる刻が来た。銅鏡を挟んで、井戸と太陽が重なる。鏡裏の中央にはめ込まれた黄金の玉がおのずから光り輝いたように見えた。
「黄を帯び、中央を占める極北の星よ。
 今こそ竹籠を解き、垣根を開かん。
 この地に永らくとどまる土気よ」
 男と女の声が歌うように唱和する。

 それだけだ。

 まず地が揺れた。
 物が倒れ、崩れ、うなる音がした。
 ふらりと井戸へ引き寄せられた従妹の体を少年は力いっぱい引きとめた。
 真っ白な手から『星籠』が離れた。大きな揺れだというのに、四神をあしらった銅鏡は迷うことなく真っ直ぐと井戸の底へ落ちていった。
 カランッ
 耳が壊れてしまいそうな騒音の中で、鏡が落ちた音など聞こえるはずもないのに、黄垣筐の耳には玉が揺らぐような音として響いた。
 井戸の側に座り込んだ二人はひしっと抱き合い、それを見た。瞬くことも、顔を背けることもできなかった。立ち会えることを幸運だと感じる余裕もなかったし、光栄だと思う余力もなかった。自分の目に映るものをただ追いかける。
 龍が天へ帰っていく。
 水がうねりながら、鳥よりも早く空を駆け登っていく。
 井戸から溢れ出した水は、二人を綺麗に避けて空に撒き散らされた。
 目に映らないほど小さな雫となり、いくつもの虹をつくる。
 この世のものとは思えない光景であった。透明な水の流れは間違いなく龍の体をしていた。大昔に枯れたはずに井戸から、巨大な龍が現れ、天へと駆け上がっていったのだ。
 二人が呆気に取られているうちに揺れは収まり、街は水の冷気と静けさに包まれていた。雨上がりのような空気に満ちていた。
「垣哥哥。龍だわ」
 気丈な従妹は立ち上がり、井戸の縁に手をかける。
 陰気は水に遊ぶ。危なげな背中を守るように、黄垣筐も井戸の底を見やる。
 数百年前に枯れたはずの井戸は、なみなみと水をたたえていた。
 従妹の顔を盗み見すれば、明らかな喜色が浮かんでいた。少女が飢え乾くほど待ち望んでいた水が帰ってきたのだ。嬉しくないはずがない。
 黄垣筐は重責から解放され、どっと息を吐き出した。
 ここに黄帝に仕えた、土気に遊ぶ黄龍が封じられていた、ということだろう。土気は水気に相克、井戸の水は枯れてしまったというわけだ。強すぎる土気は季節の停滞まで招いた。
 五行は緩やかに己を取り戻すだろう。季節は巡り、程なく雨が降り、それは雪となり、春を連れてくるだろう。
「『星籠』落としちゃった。
 何て謝れば、長老たちは許してくれるかしら?」
 少女は少年を振り仰ぐ。
 無事に儀式を達成した従妹のいたって無邪気な問いに、黄垣筐は笑みをこぼした。
「鏡は井戸になったんだよ。
 これからの黄家は、この井戸を守っていくんだと思うよ」
 だから、大丈夫。と少年は言った。
「二人で?」
 悪戯っぽく林圭籃が尋ねる。
「そう、二人で」
 黄垣筐はうなずいた。それに安心したのか、可愛い婚約者は飛び切りの笑顔を見せた。