序章




「これ、何……?」
 目の前の変わりはてた光景に、愕然とする。
 は、持っていたカバンを思わず取り落とした。

 それが、がこの世界に来て初めて発した言葉だった。


 高校2年生、
 ついさっきまで、学校の図書室にいたはずだった。
 けれど、ここは一面の荒野。
 本の影すらない。
 とりあえず、辺りを見回してみた。
 けれど、ここには何もない。

 ボク以外、誰もいない。 

 周りは、何故か雪景色。

 おかしいな、今は5月だったのに……。

「さむっ……!」
 冷気が、体に突き刺さった。
 寒さは容赦なくを襲う。
 思わず、自分の体を自分で抱きしめる。
 見えている肌を懸命にさする。

 とりあえず、家を探さなきゃ……。
 このままでは凍え死んじゃう。

 意を決して、歩みを進めた。

「ひゃっ……!!」
 は小さく悲鳴を上げた。
 突然、足元が滑った。
 寸でのところで、は踏みとどまる。
「ふぅ、危なかった」
 ほっと胸をなでおろす。
 そして、ふと下を見たことを後悔することになった。
「……血?」
 じっとその物体を見つめる。
 凍ってはいるものの、それは明らかに赤黒かった。

「ひぃっ……!!」
 足に、冷たい何かが触った。
 は、声にならない叫び声を上げる。
「た、たすけ……て……」
 微かな声の方を見ると、そこには血まみれの男がいた。
 顔には凍傷があちこちに見られ、醜く変形している。
 もう片方の手は、もげて骨が見えている。

 首を、精一杯横に振る。

 助けることなんて出来ない……。
 ここが一体どこなのかも分からないのに!
 だから、離して……!!

 は心の中で叫ぶ。
 どうしたら見ずにすむか、考えが追いつかない。
 細い足首がぎりぎりと締め上げられる。
「い、や……っ!!」
 恐怖で声がまともに出ない。
 逃げたくとも、足はすくみ、体はガタガタと震えだす。
 寒くて震えているのか、恐ろしくて震えているのか、もう自分でさえ分からない。
 振り絞る声は掠れ、うまく音にならない。

 怖い。
 怖い。
 怖い。
 誰か、助けて。

 の頭にはそれしか言葉が浮かんでこない。

 どうしてボクがこんな目に遭わなきゃいけないの!?
 ボクは、ただ図書室で本を読んでいただけなのに!!

 男は、尚も自分を見上げて言う。

「た、す……け……て」

 余りにも恐ろしい光景に、は目を瞑った。

 こうすれば、何も見なくてすむ。
 きっと、これは夢なんだ。
 図書室で、ついうたた寝をしているだけ。
 ボクの、悪い夢なんだ……。

 自分に必死に言い聞かせる。
 怖くて、怖くて、どうしようもないから。

「そこのお前!
 何をしている!!」

 は体をビクッと震わせた。
 遠くの方から声が聞こえる。
 全然知らない人の声。
 もう、何がどうなっているのか分からない。
 ボクは、ボクは……もう、死んでしまいたい……。


 は、そのまま意識を手放した。





「……ここは……」
 気が付くと、そこは「どこか」だった。
 さっきのところではない。
 ただ分かるのは、部屋の中……らしい。
 天井がある。

「気が付いたのね?」
 歌うような声に、はパッと起き上がった。
「あなた、だれ?」
 震える声で尋ねる。
 声の主は見たことのないくらい、とっても綺麗な女の人だった。

 夢の続き……?
 本の中の天女みたいだ。

「私は貂蝉。
 あなたは?」
 女性が問いかける。
「……ちょう、せん?
 変わった名前だね」
 は小首を傾げる。

 まるで、中国人みたいだ。
 ……そういえば、服装も今の日本とは違う。

 首を傾げつつ、さらに考え込む。
「そうかしら?
 あなたのお名前を、教えてくれる?」
 目の前の女性が優しく笑う。
 花がほころぶような感じだった。
 ほんの少し、緊張がほぐれる。
「ボク……ボクは
 
「あなたも変わったお名前ね。
 ところで、どうしてあんな所にいたの?」
 寝台の上に、ちょうせんという名の女性は腰掛ける。
 言われて、は黙り込んでしまった。

「……分からない。
 図書室にいたはずなのに、いつの間にかあそこにいて……。
 いきなり、足をつかまれ……て」
 先程のできごとを思い出し、は震えた。

 身を切るような寒さ。
 足をつかまれた感覚。
 腫れぼったくなった、凍傷だらけの顔。
 掠れた、男の声。

 全てが生々しく思い出されて、は自分の体を抱きしめた。
「そう、可哀相に……」
 そう言うと、貂蝉と名乗った女は、自分をそっと抱きしめてくれた。

 温かい……。

 そう安堵したが、は同時に絶望を覚えた。

 温かいということは、これが「夢」ではないというのか。
 五感が……完全に生きている。
 夢は、人の脳内でおきる幻。
 だから、何が起こっても基本的に感覚はない。

 つまり、これは現実……?。


「……これは、夢じゃ、ないの?」
 は、思ったことをそのまま口にする。
「ええ、そうね。
 夢ではないわ。
 もう少し詳しく、あなたのことを教えて頂戴」
 貂蝉が言った言葉など、の耳には聞こえてこなかった。

 自分の嗚咽で、掻き消してしまったから。

 貂蝉の胸の中、は大声で泣き始めた。
 温もりに安堵と恐怖を覚えながら。


 しばらく泣き続けると、はぽつぽつと話しはじめる。
 ここに来る前に自分のいた場所、日本のこと、家族のこと。
 貂蝉に訊かれるまま、全てを話した。

 全てを聴いた貂蝉は、二つの選択肢をだした。

 女として生きるか、男として生きるか。

 女としてここに居れば、いずれ董卓の目に入り慰み者にされるだろう。
 男として生きていけば、それだけは逃れられる。
 そう、貂蝉はに告げた。

 は迷うまでもなく、後者を取った。
 好きでもない人と、そんな関係になるなんて、考えられなかったから。
 想像しただけでも背筋が凍る。


「では、名前も改めなければね。
 と言ったかしら?
 この字なら」
 貂蝉はの書いたたどたどしい文字を見ながら、首をかしげる。
「…………姓は、名は
 そうね、字はにしましょう。
 絶対に、本当の名を言っては駄目よ」
 水色の瞳がこちらをじっと見つめる。
「はい」
 決意を新たに、ははっきりと返事をした。
「それから、私のことは貂蝉様と呼んで。
 あなたは私に仕える身なのだから」
 優しい微笑みが向けられる。
 母のようなその笑みに、涙せずにはいられなかった。

 こうして、の物語は始まりを告げた。


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