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旅立ち
あの日。
ボクたちの運命は大きく変わったのかもしれない。
それが良い方向なのか。
悪い方向へなのか。
知っているのはきっと、神様だけ。
「……」
重い沈黙が部屋に留まっていた。
部屋の主も、自分も。
そして外を飛び回る小鳥すら声を出すことを、ためらっていた。
誰かに話すことを禁止された訳でもないのに。
「――」
「は、はい!」
突然呼ばれて、少女は飛び上がりそうになった。
大声を上げてしまったことを一瞬後悔するも、時間は戻る訳がない。
少女は観念してゆっくりと貂蝉の方を振り返った。
「今日はもう、仕事は良いわ」
「え?」
「外へ行ってらっしゃい。
きっと、気も晴れるわ」
ふっと貂蝉が笑みをこぼす。
柔らかな笑みに、ほんの少し陰りが見えては心配になった。
いつもより遅く目が覚めたあの日。
董卓というバケモノは死んだ。
貂蝉からではなく、他の下男仲間から教えてもらった。
献帝の命令で、呂布さまがアイツを殺してくれたことを。
――あの日以来、貂蝉さまは本当の笑みを浮かべていない。
はそれが気にかかって仕方なかった。
「でも……」
側についていたい。
何もできないけれど、せめて近くに仕えていたい。
そう、少女は思った。
「私なら大丈夫よ。
心配はいらないわ」
「本当、ですか?」
不安に駆られて、は思わず訊き返す。
嘘とまでは言わないけれど、本音とも見えなかった。
「ええ。それに、あなたを驚かせたいから」
「驚かす、ですか?」
「あなたは女の子に戻るのだから、着るものを用意しなければいけないでしょう?
出来上がるまでは、内緒にしておきたいから」
「あ、そう……か」
忘れていた。
これから男として過ごす必要はないんだ。
もともと、董卓から身を守るためだったんだから。
「だから、いってらっしゃい。
日が落ちるまでには、帰ってらっしゃい」
「はい」
主の命に、少女は素直に従う。
今の自分に出来ることは、それだけな様な気がしたから。
***
夜。
皆が寝静まった頃。
は床に入ったまま、眠れずにいた。
コロン、コロンと体勢を何度か変えてみるも意味はなく。
一向に眠れる気がしなかった。
「……」
はぼんやりと考える。
昼間の貂蝉の表情が頭から離れない。
前とは明らかに違う。
優しいのにどこか寂しそうで、何もかもを拒絶する様な笑顔。
理由は分からない。
多分、訊いても教えてはもらえない。
貂蝉のことだから「気のせい」だと流してしまうだろう。
だからこそ、の心につっかえていた。
命の恩人を助けたい。
役に立ちたい。
姉の様に、母の様に。
優しくしてくれる人に、何かしてあげたい。
そう思う気持ちだけが大きくなっていく。
何をどうしたら良いのだろう。
「うーん……」
寝台の上を転がりながら、少女は声をもらす。
貂蝉は自分を女の子として生きていける様にしてくれると言う。
もう、男の子のフリをして戦場に立たなくても良い。
侍女として、安全なところで貂蝉の傍にいられる。
文遠や他の下男仲間にも、隠し事をしなくてもすむ。
それはとても良いことだと思う。
気を張らなくてすむのは、楽だと思う。
……ただ、実感がわかないのだ。
董卓が死んだことも。
自分が自由だということも。
頭では分かっているのに、心が追いついてくれない。
全ては良い方向に向かっているはずなのに、気持ちは晴れない。
むしろ、心がザワザワする。
カタン。
小さな物音がした。
場所は恐らく、貂蝉の部屋。
心のざわめきがより大きくなる。
居心地の悪さを解消したくて、はそっと部屋から滑り出た。
「貂蝉さま、まだ起きているんですか?」
部屋の前まで行くと、は主に声をかけた。
一度消えたはずの明かりが灯っている。
縫い物でもしていたのだろうか?
は小首を傾げた。
「え、ええ。
ごめんなさい、起こしてしまったかしら?」
主の声は若干の焦りを帯びていた。
不思議に思い、は衝立からひょいと中をのぞきこんだ。
「……!」
目の前に現れた貂蝉の姿に、は驚いた。
お休みの挨拶をした時の彼女は、確かに寝間着だった。
けれど今、目の前にいる人は明らかに旅装束をまとっていた。
「どういう……こと、ですか?」
貂蝉の脇には小さくまとめられた荷物。
そして武器が置かれている。
今の状況が何を意味するのか、分からない程子どもではなかった。
「ごめんなさい、」
小さく紡がれた声が微かに震える。
こちらが何も言えないでいると、貂蝉が言葉を続けた。
「黙って行こうと思っていたのだけれど、駄目だったわね」
そう言って貂蝉は微笑む。
昼間と同じ、寂しそうに瞳が揺らぐ。
「どうしてですか?
どうして、ボクに黙って……」
うまく言葉が出てこない。
この人を苦しめたい訳じゃない。
困らせたい訳じゃない。
なのに、胸に突き刺さった何かが責める言葉を紡ぐ。
「あなたを巻き込みたくはなかったの。
これは、私の我がままだから」
「呂布さまと、行かれるんですね」
「ええ」
短く、貂蝉が答える。
の胸に痛みが走る。
もし今気がつかなければ。
すやすやと寝入っていたら。
貂蝉に別れを言うことも叶わず、一人ぼっちになっていた。
「ボクは、もういらないんですね……」
悲しかった。
辛かった。
貂蝉が黙って出て行こうとしたことが。
置いていかれそうになったという事実が。
苦しくて、痛くて。
は言葉を吐き捨てた。
目の前にいる人にとって、自分はその程度の存在だったのだろうか。
偶然拾った異界の住人。
恩を返したくて頑張っていたけれど、それも無駄だったのか。
ズキン、と痛む胸の奥。
気づけば、少女は胸元の衣をぎゅっと握りしめていた。
「そう……ではないの」
掠れる声。
貂蝉は大きく首を横に振る。
違う、とこちらに訴えかける。
必死さを含んだ声には問う。
「じゃあ、どうしてですか?
ボクはこんなの嫌です!」
深夜の寝室に音が響く。
頬を一粒の雫が伝う。
この痛みを少しでも和らげ様と、ぽろぽろと流れ落ちてくる。
「また戦場に出ることになるわ。
私と共に来れば、女として生きていけなくなるのよ?」
貂蝉の問いに今度は少女が首を横に振る。
違う。
自分が望んでいることはそうじゃない。
「それでも、貂蝉さまに置いていかれるよりはマシです!」
思いのままには叫ぶ。
溢れだしてくる言葉を、少女はそのまま音にする。
「あの時、ボクを救ってくれたのは貂蝉さまでした。
ここに来てずっと、ボクは貂蝉さまのお役に立ちたかった。
命を、心を救ってくれた人を守りたいんです!」
そうだ。
自分の存在意義は今、この人にある。
どんなに怖くても、苦しくても。
貂蝉がいてくれるから。
貂蝉が笑ってくれるから。
だから、この世界にいられる。
血を浴びて、悲鳴を聞くことになっても。
人を殺すことになったとしても。
それでも、受け取ってきた恩を少しでも返していきたい。
身勝手な感情かもしれない。
独りよがりな思いかもしれない。
でも、だからこそ。
離れたくない。
ううん、離れてはいけないんだ。
「辛い旅になるわ。
いつ命を落とすかも分からない。
どこに辿り着くかも見当がつかないのよ?」
諭す様な声に少女はこくん、と頷く。
「もう、と呼べなくなるかもしれないわ」
「ボクには貂蝉さまからもらった名前があります。
だから大丈夫です」
静かに、寂しそうに。
それでいて愛おしそうに呼んでくれる自分の名前が好きだった。
けれどそれを捨てろと主が言うのなら、それでもいいとは思った。
違う名であっても、心を込めて呼んでくれることに変わりはない。
「覚悟は出来ているのね」
「はい」
短く、ハッキリと頷く。
先程までの胸の痛みはもう、ない。
むしろ清々しい程だった。
貂蝉は深いため息をもらした。
「私の負けね」
言葉とは裏腹に、貂蝉が笑みを浮かべる。
それも、ずっとが望んでいた本当の笑顔。
「あ、ありがとうございます!」
一緒に行くことを認めてもらえたこと。
主の心からの笑顔が見られたこと。
嬉しいことが続いて、は勢い良く貂蝉に頭を下げた。
「奉先さまには私から言うわ。
さあ、早く支度をしてしまいましょう」
そう話す貂蝉の声はどこか嬉しそうだった。
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