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董卓死す
闇が地上を支配する頃。
女は一人回廊を歩いていた。
今日で何日になるだろう。
しとしとと降り続く雨は、まるで世の終わりを知らせているようにも思えた。
雨音が足音を消す。
懸命に気配を殺し、目的地へと足早に向かう。
待っているであろう、男の元へ。
大きな柱が見えた。
それに背を預けると、声が耳に届いた。
「来たか」
抑えられた声は、常よりも低い。
「はい」
名を呼んではいけない。
どこで、誰が聞いているか分からない。
だから女はただ、一つ返事をした。
「……詔書が出来上がった」
ひそやかな声に、貂蝉の鼓動が早くなる。
これで、万事うまくいく。
父の申しつけ通り、計画は遂行される。
「では、ついに……」
「辛巳(二十三日)、決行する」
声は小さなもののはずなのに、貂蝉の耳にはっきりと聴こえた。
辛巳。
自分たちの。
そして、この人の運命を変える日。
未来のことを考えると、自然と体が震えた。
喜ばしいはずなのに。
嬉しいことのはずなのに。
なぜか、体は小刻みに震えるのだった。
寒い訳でもないというのに、貂蝉の心にかかった雲は晴れそうにない。
「どうした。
嬉しくはないのか?」
沈黙に耐えかねたのか、男が問う。
背中越しに聴こえた音は、温かみのある優しい声だった。
「いいえ、そのようなことは」
目の奥から、熱いものが込みあげてきそうになる。
それを必死に抑え、女は言葉を紡ぐ。
理由が、分からない。
どうしてこんな感情が生まれてくるのか、理解できない。
答えを必死に探してみるが、思考の渦に飲み込まれていくだけ。
「……あと数日で、お前は解放される。
それまでの辛抱だ」
ふと、温もりが指先に触れた。
ごつごつとした男らしい手が、自分のそれを包み込んだ。
普段の彼の姿からは、想像できないほど優しく。
「貂蝉」
名が呼ばれた。
呼んではいけない。
呼ばれてはいけない。
その取り決めは、いとも簡単に破られる。
「はい」
返事をしてはいけない。
言葉を返してはいけない。
分かっているのに。
分かってはいるのに、行動が心を裏切る。
瞬間、男の胸の中に女はいた。
生き物全てが眠る頃。
明かりすらない回廊で、女は男に掻き抱かれた。
突然のことに、鼓動が早鐘を打つ。
頬の辺りが少しばかり熱を持っているのは、きっと気のせいではないのだろう。
「どうか、ご無事で」
やっとのことで発せられた言葉は、ありふれた音。
それ以上、形にすることなど出来なかった。
「大丈夫だ。
俺にはお前がついている」
降ってきた声は甘く、貂蝉の胸は高鳴る。
鼓動が早いのは、背徳感からではなく。
ただ一途に、この人が愛おしいから。
気がつくべきではなかった感情に、女は酔い始めていた。
「はい、奉先様」
呼んではいけない名を、貂蝉はそっと風に乗せる。
今宵は月も星もない。
雨音がきっと、全てを隠してくれる。
そう信じて、貂蝉は愛する人の名を呼んだ。
***
ずっとずっと、幸せな日が続くような気がしていた。
変なこともあったけど、辛くない訳でもなかったけど。
だからまさか、こんな日が来るなんて夢にも思っていなかった。
「!」
バッと起き上がって、は辺りを見回した。
「い、今何時!?」
慌てて辺りを見回すと、もう外は明るかった。
下男というのは、夜が明けるか明けないかのうちに起きる。
そして、主の身支度を手伝ったり、邸中の掃除をしたりしなければいけない。
特に今日は、献帝の病が快癒したお祭りをするのだそうだ。
だから、いつも以上に仕事があって忙しいらしい。
そう、貂蝉からも仲間からも聞いていた。
「どうしよう、完全寝坊だよ!」
は半分パニックを起こしながら、手短に身支度を済ませると貂蝉のいる部屋の方に向かった。
「おはよう、」
優しい声に、少女は拍子抜けした。
怒られるか呆れられるか。
それとも、もうどこにもいないか。
と思っていたのに、貂蝉はいつものように自分を迎えてくれた。
「あれ……。
その、えーっと。
おはようございます」
とりあえず、は朝の挨拶をする。
すると、貂蝉はにこりと微笑んでみせた。
「怒らないんですか……?」
今まで、この人の怒るところなんて見たことない。
けど、どう考えたって今日の自分は寝坊だし。
悪いことをしたのに、叱られないのは何となくおかしい気がする。
「怒って欲しいの?」
くすりと笑みをこぼす主は、いつも以上に綺麗に思えた。
一瞬見とれてしまいそうになり、は慌てて首を横に振る。
「ええっと、そういう訳ではないんですけど……。
ボク、寝坊したんですよね?」
変な話だけど、思わず確認してみる。
「そうね。
でも、今日は特別な日だから構わないのよ」
微笑んだ貂蝉に、は首を傾げた。
特別な日。
そう、今日は献帝という人のお祝いをする。
病気がよくなったから、全快祝いだって文遠さまからも聞いてた。
でも、だからこそ忙しいって下男仲間からは聞いていたんだけど……。
「あともう少し待っていなさい。
すぐに分かるわ」
貂蝉の笑みが、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
がその意味を訊こうとした瞬間――。
「董卓が死んだぞ!」
大声が耳に飛び込んできた。
は引き寄せられるように、声のする方を向く。
回廊を駆ける声に、部屋にいた女官も働いていた下男も外に飛び出した。
「董卓が死んだ!
詔が下ったぞっ!!」
兵士だろうか。
それとも下男の一人だろうか。
男の声は、とにかく喜びに満ち溢れていた。
「董卓様が……?」
突然の出来事に、の心臓は早鐘を打つ。
残虐非道なあのバケモノがいなくなった。
この世からいなくなった。
それが信じられず、少女は貂蝉をもう一度見る。
「何があったんですか?
どうして?」
今まで、誰も逆らえなかった。
明らかに悪いことをしていて、酷いバケモノだったのに。
誰一人として、罰することが出来なかったのに。
今、どうして董卓は死んだのか。
それが、には理解できなかった。
「詔が下ったそうよ。
多分、誰かが討ち取ってくれたのだわ。
……とても優しい人が」
やはり寂しそうに笑う貂蝉に、は言葉を失う。
それは誰なのか、と問いかけるまでもなかった。
優しい人。
貂蝉がそう表現する人が誰か、分かってしまったから。
「これで私たちは自由よ」
口元に作られた笑みが悲しそうで、は素直に喜ぶことができなかった。
初平三年四月辛巳。
呂布、詔書に従い董卓を討つ。
後の書は記す。
董卓の死を、民達は歌舞し喜んだ、と。
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