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突然の言葉
もしかしたら。
もしかしたら。
私の命は、あと少しかもしれない……。
「」
自分だけが知る、本来の名を呼ぶ。
人払いが済んだ所でしか呼んでやることが出来ない、不自由な名を。
「はい、貂蝉さま」
何ですか、と少女は笑う。
その笑顔が今の貂蝉には余計に辛かった。
「――もしもよ。
もし……、私がいなくってしまったら、どうする?」
途切れがちに言葉を紡ぐ。
これから起こりえることを、少しでも伝えておきたかった。
もしもではすまない時が来てしまった時のために。
「……え?」
「この先、何があるか分からないでしょう?
あなたも、今のうちから覚悟をしておいて欲しいの」
目を大きく見開く少女に、貂蝉は多少早口で言葉を告げる。
ほんの少しでいい。
ほんの少しでいいから、に知っていて欲しかった。
この先に起こりうる出来事を。
「覚悟ってどういう、ことですか?」
問いかけてくる声は確かに震えている。
怖いのだ。
考えることすら彼女には恐怖でしかない。
今の生活が壊れてしまうことを、は願っていない。
「人はいつか死ぬわ」
房室に声が渡る。
耳に入ってきた己の音は、思いのほか冷たく聞こえた。
「それは……」
「だからね、」
畳み掛けるように、貂蝉は少女の名を呼ぶ。
が、小さな小さな声に遮られる。
「どうして、今からそんな心配をしなくちゃいけないんですか?」
「念の為、よ」
すでに潤み始めている瞳を、貂蝉は見つめる。
もしかしたら。
もしかしたら後数日。
あの計画が成功しても、失敗しても。
自分の命が危ういことに変わりはない。
「イヤです!
そんな覚悟必要ありません!」
「……!」
首を大きく横に振る姿は、痛々しい。
こちらの胸が締め付けられる。
それでも、貂蝉は言っておきたかった。
「ボクは。
ボクはそんな覚悟、絶対にイヤですから!」
少女は悲痛なまでの叫び声を上げる。
そして、全てから逃げるように走っていってしまった。
一人残され、貂蝉は祈る。
異世界からの訪問者が、早く元の世界に戻れるように、と。
***
ただ、やみくもに走った。
伝えられた言葉を受け入れたくなくて。
溢れてきそうになる涙を、見られたくなくて。
だいぶ走って、は立ち止まった。
見渡せば、そこには小さな庭があった。
こういうのを院子、と呼ぶのだと教えてくれたのも、貂蝉だった。
「どうして、あんなこと言うんだろう……?」
理解できなくて、少女は呟く。
主であるあの人は、今までそんなことは言わなかった。
死が身近にある。
それは戦に行ってから、良く分かった。
この世界ではそれが当たり前で、いつどんなことがあるか分からない。
頭でも、体でも。
きちんと理解しているつもりだった。
けど、貂蝉から言われてよく分かった。
自分は、分かりたくないんだ、と。
草原というには小さすぎる所に、は座る。
今までの思い出と、悲しい言葉。
それらが交互に思い出されていく。
言って欲しくなかった。
あの人にだけは言われたくなかった。
まるで、真実になってしまいそうだから。
これから、本当に起こりそうで怖くなるから。
はそっと膝を抱える。
胸の中が、苦しみや悲しみで支配されてしまいそうだったから。
辛い。
辛い。
誰かに、助けて欲しかった。
瞬間、人の気配がした。
はふと、後ろを振り返る。
「文遠、さま?」
瞳に映ったのは、武の師匠。
心も体も強い人が、目の前に立っていた。
「どうした、」
多分、驚いているのだろう。
瞳が丸く見開かれていた。
「……何でも、ないんです」
言いたかった。
言ってしまいたかった。
子どもみたいに泣き出してしまいたかった。
それでも首を横に振ったのは、一瞬疑ってしまったから。
この人に言っても意味がないのでは、と。
「そうか」
いつも厳しく、そして優しい人は少し離れた所に腰かける。
草が踏まれた音が耳に届いた。
「……」
沈黙が場を流れていく。
は、思考をめぐらせる。
貂蝉が発した言葉の意味。
これからの自分のこと。
そして、すぐ近くに座る師匠のことを。
文遠は座ったまま、何も言わなかった。
ただずっと近くにいるだけ。
わずかに空いた距離が少し寂しいと感じる。
「何も、訊かないんですか?」
は問う。
視線を合わせることはせず、真っ直ぐに前を見つめたまま。
「が聞いて欲しいのなら聞こう。
話したいのなら、話せばいい」
その声は温かなもので、の心にすっと染み渡る。
無理に問いただそうとしないのは、この人なりの優しさ。
少女は、直感的にそれを悟る。
「隣に座っても、いいですか?」
控えめには尋ねる。
断られることはないと思う。
何となくそんな気がしていたけれど、少女は確認をする。
「ああ、いいとも」
心地良い声が耳に届く。
はっきりとした肯定の言葉に、安堵のため息がもれる。
正直、嬉しかった。
すくと立ち上がると、は文遠の隣に座る。
そして、肩にもたれかかった。
「……あったかい」
布越しに伝わってくる温もりが、切なさを和らげる。
男らしい師匠は、心も体も温かで。
触れていると、安心した。
男の人というよりは、父のようで、兄のようだと思う。
「」
主から与えられた名を呼ばれる。
この世界に来て、もらったものの一つ。
自分がこの場所で生きている証。
「はい」
体を離し、は文遠の瞳を見つめる。
曇りなど知らない、真っ直ぐな瞳だとは思う。
込められた強い信念と深い優しさが心臓を跳ねさせる。
「辛いことがあったなら、誰かを頼れば良い」
目元が和む。
柔和な表情に、少女の鼓動が高鳴りを覚える。
「はい……」
見つめ続けることが出来なくて、は視線をそらす。
なんとなく、顔が火照っているような気がする。
「どんなことでも、一人で抱え込んでしまうのは良くないぞ。
はまだまだ小さいのだから、皆に甘えるといい」
くしゃり、と髪を撫でられる。
表情は見えないが、きっと微笑んでいるに違いない。
密かに、はそう思う。
そのくらいの時間を、文遠とも過ごしてきた。
そして、貂蝉とも――。
「ありがとうございます」
かけられた言葉が嬉しかった。
頭を撫でてくれる大きな手が好きだった。
無理やり訊くのではなく、傍にいてくれたことが嬉しかった。
伝わってきた温もりが好きだった。
だから、はお礼を言う。
感謝の気持ちを知ってほしくて。
「うむ」
しっかりと頷いた文遠はやはり笑みを浮かべていた。
「ボクの話、聞いてもらってもいいですか?」
「もちろんだとも」
文遠は即答する。
今のには、それがとても嬉しかった。
「ありがとうございます」
少女は微かな笑みを浮かべて、二度目の礼を言った。
この日から、の中で文遠の存在が変わっていった。
ただの師匠ではなく、いい人でもなく。
頼りになる人へと。
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