1.夜空



 夜、外に出ると怒られた。
 村上の子どもは、みな夜を怖がった。
 でも、あの子は違った……。


 宗一郎6歳・燈子5歳の春。


 陰気が溜まる廊下を宗一郎は歩く。
 遊びたい盛りの子どもには、夜空は恨めしく映った。
 他の子どもでは話にならない。
 宗一郎よりも5つは年上の子どもですら、夜闇を恐れるのだ。

 渡り廊下で宗一郎は立ち止まった。
 庭で気配がした。
 目を凝らしても、外は暗い。
 ぼんやりとした輪郭しかつかめない。
 宗一郎は素早く左右に目を配ると、廊下の欄干に手をついた。
 軽く蹴り上げた反動で、外へ出る。

 本当は、禁止されている。
 夜、人は無防備になる。

 庭の奥。
 池の端に同じ年頃の少女がいた。
 蛍のように淡く光って見えた。
 月の光ですら、光というだけで少女に味方をしているようだった。
 真紅のリボンで黒髪を二つに結わえて、桜柄の浴衣を着た少女が座り込んで、歌を歌っていた。
 その声は小さくて、宗一朗のいたところまで届くはずがないというのに、あの気配は彼女だと直感した。
 少女が振り返る。
 愛らしい顔立ちをしていた。
 宗一郎には、見覚えのないものだったが。
 不思議と警戒心を解かせる魂の輝きだった。
「一人なの?」
 少女は問う。
 少年はうなずいた。
「かわいそう」
 少女は言った。
「かわいそうなのは、お前の方じゃないのか?
 こんなところで一人で。
 親はどうしたんだ?」
 宗一郎は憮然と言った。
 村上の子どもは、夜は外に出ない。
 外には危険があふれているのだ。
「お父さんはお仕事。
 お母さんは泣いてるの」
 少女は小首をかしげる。
 そうすると、艶のある細い髪がサラサラと揺れる。
「だから、とーこは一人なのよ」
 少女は明るく言う。
 ちっとも、寂しくなさそうだった。
「とーこは、村上とーこ。
 こんな字を書くの。
 難しいから、やっと覚えたの」
 少女はその辺に転がっていた木の枝で地面に名前を書く。
 『村上燈子』
 燈の字だけがやっぱり、崩れている。
「あなたは誰?」
 初めに訊くべき事を少女はようやく訊いた。
「俺を知らないのか?」
「うん。
 今日、初めてここに来たから。
 明日、サヨコ様にアイサツしに行くんだって」
 燈子は無邪気に笑った。
「時期にわかる」
 宗一郎はそっけなく言った。
 何となくここで名を明かすのは癪に思えたのだ。
「そうなんだ。
 ねえ、どうして外に人がいないの?
 教えて。
 とーこが前いたところは、この時間ぐらいは人がたくさん外にいたの」
 燈子は無邪気に尋ねた。
「それがここの掟だ」
 簡潔に少年は答えた。
「おきて?
 おきてって、何?」
 燈子はきょとんとした。
 言葉の意味がわからなかったらしい。
「守らなければならない決まりのことだ」
「法律みたいなもの?」
「そうだ」
 宗一郎はうなずいた。
「じゃあ、どうしてあなたは外にいるの?」
「俺は良い。
 夜闇など怖くない」
「とーこもこわくないよ」
 燈子は満面の笑みを浮かべる。
「いっしょだね」
 嬉しそうに少女は言う。
 とても、その笑顔が鮮烈だったので、宗一郎はうなずいてしまった。

 それから、小一時間。
 取り留めのない話を二人は語り合った。
 燈子の前にいた街の話や宗一朗の家のしきたりや。
 思いつく話の限りを話していた。
 が、月が天に昇り始めるのを見て、宗一郎は話を中断した。
「帰っちゃうの?」
 燈子が訊いた。
「ああ。
 もう、帰らないといけない時間だ」
 宗一郎はうなずいた。
「また会える?」
 不安げに燈子が問う。
「近い未来だ」
 宗一郎は断言した。
「お父さんに似てる。
 とーこのお父さんも、そういう言い方をたまにするの。
 そうすると、当たるの」
 燈子は顔のパーツを全部使ったように笑う。
「あ、これ。
 次に会えるおまじない」
 燈子は片側の髪飾りを外す。
 サテンの鮮やかな真紅のリボン。
「はい」
 宗一郎に渡す。
 残りの片割れもほどいて、右手でにぎる。
「本当は耳飾りの方が良いんだけど。
 こうすると、二つのものが呼び合うんだって。
 お父さんから習ったの!」
 燈子は胸を張って答えた。
 宗一郎は手の中の真紅のリボンを見る。
 本当のことを言うか、迷い、結局言わなかった。
 他愛のない呪いだ。
 さほど効力は持たないはずだ。
「じゃあね、またね!」
 元気な少女は笑った。
前へ > 「宗一郎と燈子の45日間の空」へ >  続きへ